「変わったと思うよ、すごく」
フロンティエールにいた時と比べて、どこがどう変わったのかを葵が話している間、ジノクは無言でいた。葵が話を終えて言葉を切ると、そこで初めて彼は口火を切る。
「その変化はミヤジマにとっていいものなのか? それとも、悪いものか?」
「私は今のジノクの方がいい。そんなの、決まってるでしょ?」
もう閉じ込められるのは御免だからと、葵は笑いながら過去の話を持ち出した。今ならばあの幽閉騒ぎも笑い話になるだろうと思ったからなのだが、葵の意に反してジノクは黙り込んでしまう。まだ早かったかと葵が眉をひそめていると、ジノクは不意に体を離した。解放された葵が振り向くと、ジノクは葵の肩に手を置いて言葉を次ぐ。
「ミヤジマ、余と共にフロンティエールに戻らぬか?」
「……え?」
「余がこの国に滞在していられるのは、あと十五日だ。フロンティエールに帰る時、余はミヤジマを連れて行きたい」
「いや、あの……それは、」
「まだ余に不満があると言うのなら、今後も変わるように努力を続ける。ミヤジマに好かれるよう、頑張る」
飾り立てない言葉にも、真っ直ぐに見据えてくる瞳にも、嘘はないように思えた。口先だけで変わると約束しながら自分の欲ばかりを優先させていた過去のジノクを思えば、これは大した変化だ。しかし葵は、彼が真剣であることが分かるだけに、目を伏せた。
(……行けない)
葵には、生まれ育った世界に帰りたいという願いがある。その願いを実現させるためには魔法の勉強をして、自力で帰る方法を見つけるくらいの気構えが必要不可欠だ。幸いにも今は、アルヴァという協力者が傍にいて、クレアという理解者も隣にいてくれている。この最善の環境をジノクのために捨てることは出来ない。そして、何よりも……。
「ジノク、フロンティエールで私が言ったこと、覚えてる?」
「どの話だ?」
「あなたのことを本気で好きだって思ってる人がいる、って話」
「……ああ、」
これからどういった内容の話になるか察しがついたようで、ジノクは顔を曇らせた。彼を傷つけることになるのは分かっていたので、葵も顔をしかめながら言葉を続ける。
「私、その人ほどジノクのこと想えない。だから、一緒には行けないよ」
「例えその女がどれほど余のことを愛していようとも、余はミヤジマを愛しているのだ。その気持ちは少しも汲んではもらえないのか? ミヤジマは余のことを、少しも好きではないのか?」
切実に訴えかけてくるジノクの想いを、少しも愛おしく感じないと言えば嘘になる。しかし、それは憐憫だ。焦がれてやまない『恋』を経験したことがあるだけに、葵にはその境目が残酷なまでにはっきりと見えていた。
「……ごめん。ジノクがどんなに努力してくれても、恋愛する相手としては見れないと思う」
「何故、言い切れる? 先のことなど誰にも分からない!」
――分かるんだよ!
心の奥底から飛び出してきた叫びを、葵は聞かなかったことにした。ジノクの言う通り、本当は先のことなど誰にも分からない。この先、ふとした瞬間にジノクを好きになることが皆無であるなどとは言い切れないのだ。それでも葵には、それが有り得ないことだと感じるだけの理由があった。だがその理由は口に出してはならないものだったし、それ以前に認めてはならないものなのだ。
俯いて唇を噛んでいたジノクがふと、顔を上げた。気まずい沈黙は荒々しいキスで破られて、突然の出来事に対処出来なかった葵は目を見開く。
「ジノ……」
抵抗しようと身をよじっても力でねじ伏せられ、抗議しようと開いた唇は再びキスで塞がれる。しかし、それ以上のことはしようとせず、やがてジノクは体を離した。
「余は、諦めないからな」
顔を合わせることが出来なくて目を伏せていると、ジノクの声が聞こえてきた。彼の想いを拒絶したのは、これで何度目だろう。態度で示しても、きつい言葉で突き放してみても効果がないのではどうしていいのか分からず、葵はキスの感触が残る唇を噛んだ。
その後、葵もジノクも口を開かなかったため、テラスは重苦しい静寂に包まれていた。膠着状態を壊したのは、静かな夜にコツコツと響く足音。誰かがテラスに出て来たことを察した葵はそれを機に大広間へ戻ろうと考え、ジノクを促すために顔を上げる。しかしテラスへ出て来た人物に目を留めるなり、居た堪れなくなって再び目を伏せてしまった。
(何で、よりにもよって)
このタイミングで現れたのが、ハルだったのか。葵がそんなことを考えていると、ジノクがまた唐突に口唇を重ねてきた。先程の激情を注ぎ込むようなキスとは違い、今度のキスには熱がない。何のための口づけだったのかは、ジノクがハルを睨みつけたことで察してしまった。憤った葵はジノクの胸元を掴み、その顔をこちらに向かせると思いきり頬を張る。こうなることが分かっていたのか、ジノクは驚いていなかった。
「だいっきらい!!」
ジノクの顔も見ずに怒りを吐き出すと、葵は大広間へと走り出した。
金切り声を上げた葵が大広間に向かって行くと、少し間を置いてからジノクも従者と共にテラスを去って行った。その場に一人取り残されたハルは無表情のまま体の向きを変え、欄干に寄って月を仰ぐ。彼はしばらくそのままでいたが、やがてテラスに姿を現したクレアがハルを引っ張って大広間へと戻って行った。そこでようやくテラスに余人の姿がなくなったので、図らずも修羅場を目撃してしまったアルヴァは長いため息を吐く。
「観劇のようだったな」
一緒に修羅場を覗き見していたロバートが楽しげに沈黙を破ったので、アルヴァはセットした髪が乱れるのも構わず頭を掻いた。
「青臭くて見ていられやしない。僕には拷問のようだったよ」
「青春は甘酸っぱいものだ。甘いだけの果実ばかり口にしているから、青少年の正しき姿に胸焼けを起こすのだよ。君も時には青い果実になってみるべきだ」
「僕は御免蒙るね。酸いも甘いも噛み分けられる歳になってまで無粋なことはしたくない」
「あれが無粋だったと? だから大人は何も分かっていないなどと言われてしまうのだよ。大人になったからといって、なにも子供と共感し合える心を失くしてしまうこともあるまい?」
「君は教育者に向いているのかもしれないね。今、初めてそう思った」
決して一致することのない価値観を闘わせることに意味を見出せなかったアルヴァは、そこで話を打ち切ると仮面を顔に嵌め直した。
「じゃあね」
ロバートに素っ気なく別れを告げると、アルヴァは魔力の囲いを解いて歩き出す。着飾った男女が集っている大広間ではアステルダム分校のマジスター達が踊っていたが、そこにジノクの姿はなかった。しばらく捜し歩くと壁際にジノクと従者の姿を見つけたため、アルヴァは彼らの傍へ寄る。
「ミヤジマを見ませんでしたか?」
先程の諍いのことを言ってくるかとも思ったが、ジノクはただ葵が帰ってしまったことだけを伝えてきた。その頬が赤くなっているのを一瞥し、アルヴァは彼に頭を下げる。
(ジノク王子はこれからどうするつもりなんだ?)
先程のあれで、ジノクは完全に葵に嫌われた。ハルが絡んでいたので、謝ったところで簡単には許してもらえないだろう。そこまで考えたところでアルヴァは自分の思考に嗤ってしまった。
(確かめたかったのかもしれないな)
葵の気持ちが、本当はどこにあるのか。もしそうだとしたら必死になって体面を取り繕おうとしている葵より、ジノクはずっと大人だ。母国では幼稚さばかりが目についた彼が瞬く間に『大人』になってしまったのは、それだけミヤジマ=アオイという少女を好きだということなのか。
(……やめよう)
女心が分からないということは恋愛のことを何も分かっていないのと同義だ。そんな自分が考えを巡らせたところでどうせ分かりはしないと、アルヴァは自嘲気味に憶測を打ち切る。一人になって壁に背を預けたアルヴァはその後、大広間で仲睦まじく踊っているハルとクレアを眺めていた。
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