湿気を含んだ大粒の雪が降り続いていた。空に重い雲が垂れ込めていると日中は暗く感じるが、夜は意外と明るい。夜の闇をも白く染めている雪の中を、一人の少女が歩いていた。厚手の
トリニスタン魔法学園アステルダム分校の敷地内にあるこの塔を、葵は密かに『時計塔』と呼んでいた。その理由は塔の壁面に開いている穴に時計を嵌めこめば合いそうだと思ったからだ。ここは不思議な場所で、何故かよく携帯電話が繋がる。夜の時分ならば誰にも邪魔されることがないだろうと思った葵は、夕食後に気分転換も兼ねてこの塔へやって来た。すると予想に反して先客の姿があり、ギクリとした葵は二階部分へ出たところで足を止める。塔の二階で壁に背を預けて座り込んでいたのは、栗色の短髪にブラウンの瞳といった容貌をした少年。彼の名は、ハル=ヒューイットという。
こちらに顔を傾けてきたハルは、そこにいるのが葵だと認めると、すぐに視線を逸らした。本校から戻って来てからの彼は葵にも気安い調子で接していたのだが、今は口を開こうという素振りすらない。素っ気ない、冷たい反応。自分が過去に立っているような気がして、葵は胸の高鳴りを覚えた。
(ああ、そうだ……)
迷惑そうな空気を醸し出して、他人を近寄らせない。ハルは本来、そういった気難しいところのある人だった。だが葵は、彼が優しいことも知っている。たまに見せてくれる笑顔があどけなくて可愛くて、何よりもステラ=カーティスという少女のことを一途に想っていた姿が、
(好きだった)
そして今でも、あの頃のときめきは胸で息衝いている。もう目を伏せようもなくて、拳を握った葵はハルの元へと歩み寄った。
(好き……この人が好きだ)
恋人同士になりたいだとか、そんなことを考える余裕もないくらいに好きだと思う気持ちばかりが溢れてくる。ゆっくりと傍らで膝をつくと、葵はハルの頭を抱いた。
「……何?」
腕の中にいるハルから冷静な声が発せられると、葵はふと我に返った。ものすごく恥ずかしいことをしているという意識が急激に強くなり、息をするのも苦しいほどに心臓が跳ねる。それでも体は離さないまま、葵は上擦った声を出した。
「な、慰めてるの」
「こんなに胸がドキドキいってたら、うるさくて落ち着かない」
「っ!」
強気に出たのも長くは続かず、葵は慌ててハルを解放した。しかし遠ざかろうとすると、ハルに腕を引かれて止められる。
「うそ。ありがと」
感謝の言葉と共にハルから笑みを向けられた葵は、恥ずかしさも忘れて呆然としてしまった。無表情に戻ったハルはすぐに葵の腕を解放したが、その手で自分の隣を指し示して見せる。
「慰めてくれるならここ、座ってよ」
「あ……うん……」
気持ちの整理がつかないまま、葵はハルの隣に腰を落ち着けた。すると彼は、葵の肩口に頭を預けてくる。ドキッとした葵は顔を赤くしたが、重ねられたハルの手が氷のように冷たかったことから、別の意味で心臓が跳ね上がった。
「冷たっ! ハル、いつからここにいるの?」
「いつからだったかな。忘れた」
「忘れたって……」
「キルが突然来て、なんかうるさかったから逃げて来た」
ハルが名前を出したキリル=エクランドは、彼の長年の友人だ。短気なキリルはしょっちゅう喚いていて、ハルの言うような場面を容易に想像出来てしまった葵は小さく吹き出す。
「でも、だったら……」
何も、こんな寒い所にいなくても。そう思ったのだが、葵は言葉の途中で口をつぐんでしまった。ここにいなければ彼はきっと、どこかで見知らぬ女の子と夜を過ごしていたに違いない。最近のハルはそうなのだと、葵は方々からよからぬ話を聞かされていた。
「だったら?」
「……魔法で、火でも出せばいいじゃん。せめて」
「めんどくさい。それに今は、あったかいからいい」
手を重ねているハルが少し力を込めてきたので、葵は末端まで熱くなってしまった。葵の手が熱いと言って、ハルは笑い声を零す。
「あんたは何で、こんな所にいるの?」
「ちょっと用事があって。ハルがいるとは思わなかったから、ビックリしたよ」
葵は昼間、ハルと話をしようと思ってずっと彼を探していた。しかし結局は捉まえることが出来ず、また今度にするかと諦めたのである。それが別件で『時計塔』に来てみれば、探していた人物がそこにいた。不思議な巡り合わせだと、そう思ったのは葵だけではないようだった。
「縁があるな。あんたと俺と、この塔」
「そうだねぇ……」
葵はよく、ハルがバイオリンの練習をしているのを聞きに『時計塔』へ通っていた。イジメに遭って学園を辞めようと思った時もこの塔でハルの言葉に引き止められ、ステラのことで思い悩んでいたハルに偉そうな説教をかましたのも、この塔だった。過去を思い返した葵が感慨に浸っていると、不意に繋いだ手を持ち上げられる。ハルが脈絡もなくそこにキスを落としてきたので、驚いた葵は彼を突き飛ばして遠ざかった。
「き、急に何すんのよ!」
「そういうとこ、変わってないのな。俺が王都に行く時だってキス一つで赤くなっちゃってさ。かわいいね」
「うるさい!!」
あれが葵のファーストキスだったとは露知らず、ハルは勝手なことを言ってくれる。だが葵が怒ったのは、そのことが理由ではなかった。
「ハルがそんなことするの、らしくないよ」
「俺らしくない?」
「そうだよ。ぜんぜん似合ってない」
「……あんた、俺の何を知ってるっていうんだ? 知りもしないくせに勝手なことばかり言うな!」
「知ってるよ! 何か理由があって遊び人のフリしてることも、ハルがステラのこと好きだってことも!!」
「は……」
短く息を吐くと、ハルは葵から顔を背けた。怒って立ち去ってしまうかとも思ったが、彼は再び壁を背にして座り込む。座ればと促されたので、葵は少し距離を置いて隣に腰を下ろした。
「あの時も、ここであんたに怒られたな」
しばらくの沈黙の後、ハルはポツリと呟きを零した。その声にはもう憤りが含まれておらず、彼はただ過去を懐かしがっているだけのようだ。片膝を抱くと、ハルはそこに額を押し付けながら言葉を重ねた。
「あんたの言った通りだった。ステラも俺のこと、好きでいてくれたらしい。でも俺の人生は俺のものだからって……あいつ、あんたと同じこと言ってた」
先にトリニスタン魔法学園本校への編入を決めたのはステラの方だった。彼女に置いて行かれると思って拗ねていたハルに、葵はステラが自分の気持ちを言えない理由を教えてあげたのだ。あの時は推測でしかなかったのだが、ステラの考えは葵が思っていた通りのものだった。ハルがそのことを話すとステラも驚いていたらしい。
「あいつ、あんたとはそんな話をしたことがないって言ってた。なのに何で、ステラの気持ちが分かったんだ?」
「友達だもん。見てれば、分かるよ」
「すごいな」
顔を上げたハルが微笑んでくれたので、葵は少し切ない気持ちになった。ステラのことを思い出してそんな表情になるのなら、きっと彼らは幸せだったのだろう。それが何故、壊れてしまったのか。そこが一番聞きたかったが、葵から話を振ることは出来なかった。
「俺、ステラが好きだ。だけどステラの恋人としては、相応しくない」
「……え?」
ハルの口から思ってもみなかった言葉が飛び出したので、驚いた葵は目を瞬かせた。相応しくないも何も、彼らは両思いなのである。それが何故、そんなことになってしまうのか。
自ら話してくれたのはそこまでで、その後ハルは黙り込んでしまった。葵は少しずつ、時間をかけて、彼の口を開かせる。そうして得た情報をまとめると、ハルは自分がステラのように高い志を持てないから彼女に相応しくないのだと、そう考えているようだった。
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