「この間、アッシュに会ったの」
アッシュという青年は一時期同じ場所で暮らしていた、葵の元恋人だ。アッシュ本人とも顔見知りで、葵と彼が気軽に連絡を取り合うような仲でもないことを知っているアルヴァは驚いたように目を瞠る。
「この間って、いつ?」
「白銀の月の初めごろ。十日くらい前かな」
「どこかで偶然再会したのか?」
「ううん。 ……違うの」
小さく首を振った葵はアルヴァに、アッシュと別れることになった経緯から説明した。アッシュに婚約者がいて、その婚約者ほど彼のことを想えなかったから別れたこと。別れる時に一方的すぎて、アッシュがそれに納得していなかったこと。そういった話を、アルヴァは眉根を寄せながら聞いていた。
「それで、トリニスタン魔法学園に通ってるっていう情報だけでここを捜し当てたのか」
「うん……。ずいぶん探してくれてたみたい」
アルヴァがアッシュの思いの丈に驚いているように、葵も彼が目の前に現れた時、その気持ちの強さに打ち拉がれた。申し訳ないことをしたと、心の底から思ったのだ。そして同時に、自分には恋愛などする資格がないと、強く思った。
「ハルが戻って来た時、本当はすぐに自分の気持ちに気がついた。クレアがハルと付き合い出したから言えなかったっていうのもあるけど、でも……」
それ以上に、手酷い形で裏切ったアッシュに負い目を感じていた。あれだけ彼を傷つけておいて誰かを好きになるなど、許されないような気がしたのだ。だからクレアやステラを口実に、自分の気持ちに目を瞑った。しかしその嘘が、クレアを傷つけたのである。
「クレアもね、ハルのこと本気で好きだった。浮気オッケーとか言ってたけど、クレアなりの本気だったんだよ。でも私が嘘ついてたから、クレアを傷つけた」
葵が初めから過去を明かしていれば、もしかしたらクレアは葵と闘ってでもハルの心を手に入れようとしたかもしれない。そこまでとはいかなくても、別の結果にはなっていたような気がするのだ。嘘はきっと、時間が経てば経つほど重くなる。葵がそう言うと、アルヴァは少し間を置いてから口を開いた。
「クレア=ブルームフィールドのことに関しては、ミヤジマにだけ責任があるとは思えないけどね」
「私も、ハルも悪いよね」
アルヴァは物言いたげな表情になったが、結局それ以上の反論をしようとはしなかった。アルヴァが閉口したのを見て、葵は話を続ける。
「アッシュだけじゃなくてクレアにもすごく、悪いことしたなって思った。それでね、気がついたんだ。嘘ばっかりついててもどうしようもない。なんとかしなくちゃ、って」
「……それで、ジノク王子に本当のことを言ったのか」
「うん。ハルともね、話をしなくちゃって思った。ハルも自分に嘘ついてる。しかも私と同じで、誰かを巻き込む嘘。そんなの良くないから、なんとか止めさせられないかなって思って」
つい先程、話を済ませてきた。葵がそう言うと、アルヴァは目を瞬かせた。
「だからこんな時分に、学園にいたのか」
「本当は電話をかけに来ただけだったんだけど、そこで偶然会ったの」
手にしたままだったティーカップを口元へ運んだ葵は、温くなった紅茶を一息に干した。空になったカップを枕元の台に置くと、深呼吸をしてから笑みを浮かべる。
「私、やっぱりハルのこと好きみたい。本人に会ったら再確認しちゃったよ」
「なら、物のついでに告白でもしてくれば良かったのに」
「伝えても、どうしようもないよ。ハルはまだステラのこと好きだもん」
「本人がそう言ったのか?」
「うん。でもね、終わっちゃったんだって」
お互いに愛し合っているのに何故、ハルとステラは別れてしまったのか。その理由を説明すると、アルヴァは意外なほどすんなりとハルの言い分を肯定した。
「僕が思っていたよりも、ハル=ヒューイットはずっと大人の考え方をする人なんだね」
「大人、かぁ……」
「ミヤジマには理解出来ない?」
アルヴァからの問いかけに、葵は無言で首を振った。自分がステラに相応しくないから身を引くのだというハルの言い分は、正直に言うと納得出来ない。だが好き合っていても恋愛には終わりがくるのだということだけは、もうはっきりと理解していた。
「本校はね、志の高い者にとっては聖域だけど、挫折を知った者には氷河のような所なんだ。僕も本校を中途退学した身だからね。彼の気持ちは分からないでもないよ」
アルヴァの発言を、葵は『天国と地獄』という言葉に置き換えてみた。しかし本校の実態を知らないので、言葉を変えてみてもピンとはこない。そのうちにアッシュが同じようなことを言っていたのを思い出し、葵は胸中で「ああ……」と呟きを零した。それはきっと、『地獄』を体験した者にしか共有し得ない感覚なのだろう。
「話を元に戻すけど、ハル=ヒューイットがそういった心持ちでいるのなら今が絶好のチャンスじゃないか。ステラ=カーティスに未練があるんだとしても、もうどうにもならないんだし、今のうちに傷ついている彼を慰めて好感度を上げておけば?」
ふと、作戦という言葉が頭に浮かんだ葵は口角をわずかに持ち上げた。どうやらアルヴァは、葵の恋愛相手としてよっぽどハルを推したいらしい。だがそんなことは、有り得ないのだ。
「フラれちゃったから。無理かな」
「フラれたって、告白したのか?」
「ううん。それ以前の問題」
「どういうことなのか、説明してくれる気はある?」
「あのね、私とステラって似てるんだって。私はぜんぜん思わないけど、ハルがそう言ってた。私を見てるとステラを思い出して辛いから近寄るなって、言われちゃってさ」
「それは……また……」
アルヴァが珍しく言葉に詰まったので、葵は笑い声を上げた。しかし空元気も長くは続かず、次第に目線が落ちて行く。だが目を伏せると背中を向けて去って行ったハルの姿が浮かんでくるので、見るに耐えなかった葵は笑みを作って顔を上げた。
「ありがとね、話聞いてくれて。ちょっとスッキリした」
「あからさまに作り笑いだね。平気な振りをするなら、もっと自然な表情を作らないと」
「そんなことないって。もう平気だよ」
「嘘ばっかり。慰めてあげようか?」
いつもの軽いノリでアルヴァが言うので、葵も笑ったまま軽くあしらおうとした。だが意思に反して、顔が歪む。
「なぐさめてぇ」
口を突いて本音が、零れた。アルヴァは何も言わなかったが、視界の外で人が動く気配がする。俯いていると不意に腕を掴まれ、アルヴァに引き寄せられた。思いのほか力強く抱き締められた葵は困惑し、瞬きを繰り返す。
「……アル?」
葵が声を発すると、アルヴァの体がビクリと震えた。返事はなかったものの腕の力が少し緩められ、後頭部をぽんぽんと叩かれる。無言のうちに『泣いていい』と言われたような気がした葵は涙腺が緩み、アルヴァの胸で声を上げて泣いた。
目を腫れぼったくさせた葵が、それでもスッキリした表情で帰って行くと、それを背中で見送ったアルヴァは扉が閉まるのと同時にデスクに崩れ落ちた。こんなに頬とデスクを密着させたのは、きっと学生時代につまらない教授の講義を半分寝ながら聞き流していた時以来だ。そんなことを考えた後、アルヴァは自分がかなり混乱していることを困惑しながら理解した。
(僕は一体、何をした?)
確かに慰めてやろうかとは言ったが、あんなことをするつもりはさらさらなかった。意識の外で生まれた衝動が、体を勝手に動かしたのだ。感情を抑えこむ術を、すでに熟知しているにもかかわらず。
葵が言うには、アルヴァは『大人』だ。またアルヴァ自身にも、自分が『大人』であるという自覚があった。感情が一つの所に留まらない切り替えの早さは必然的に身につけたものであって、平素はそれが揺らぐことなどない。そう、あってはならないのだ。しかしいくら自分に暗示をかけようとしても、今回の混乱はなかなか収拾しない。デスクから顔を上げるとクラクラしたので、椅子の背もたれに体重を預けたアルヴァは目を閉じて空を仰いだ。
(どうかしている)
心境的には事故にでも遭ったかのようだ。そんな自分の思考に、アルヴァはふと我に返った。
(事故、か……)
衝動的に動くことは時に、思いも寄らない事態を引き起こす。事故の加害者になるのは一度で十分だ。そう思うと気持ちが自然に凍りついていき、冷静さが戻って来た。
アルヴァにとって宮島葵という少女は、初めは厄介の象徴でしかなかった。だが今は、確実に情が移っている。それだけは否定出来そうもなかったため、冷静に自分を分析したアルヴァは苦い思いで唇を噛んだ。
(気が緩んでいる)
(もう少し、冷たくするべきなのか……)
あまり思い悩んだことのない事柄で、アルヴァは苦悩した。そのうちに、にっちもさっちもいかなくなってしまう。再びデスクに頬を貼り付けると一人きりの室内がやけに寒く感じられて、居ても立ってもいられない気分に急きたてられたアルヴァは『研究室』を後にした。
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