have a break

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 アステルダム公国で一番栄えているパンテノンという街で観劇を楽しんだ後、葵とクレアは小休止のため、劇場のあるセブンス・アベニューから飲食店が立ち並ぶフォースアベニューへと移動した。

「どうやった? 初めての観劇は」

 カフェで腰を落ち着けるなりクレアが尋ねてきたので、まだ興奮覚め遣らぬ葵は弾んだ声で「すごかった」と答えた。そんな葵の反応を見て、クレアは満足そうに微笑む。

「そないに喜んでもらえると連れて来た甲斐があるわ」

「だって、舞台かと思ってたのに違うんだもん。ビックリしちゃったよ」

 観劇と聞いて葵が思い浮かべたのは、舞台に立つ役者を直接見る『舞台演劇』だった。しかし想像と現実は違っていて、葵が見たのはまさに『映画』だったのだ。セブンス・アベニューの劇場もまさに映画館といった造りになっていて、演劇を見る前から葵は一人で興奮してしまったのだった。

「アオイ、ちょお耳貸しぃや」

 クレアがふと真顔に戻ったので、手招きされた葵は首を傾げた。指示通り顔を寄せると、クレアは声のトーンを落として言葉を紡ぐ。

「外ではそういう話はせん方がええ。理由は、分かるやろ?」

 葵が異世界からの来訪者であることは、公にするのが好ましくない事柄である。その理由も承知している葵はクレアの言うことをもっともだと思い、浮かれていた気持ちを落ち着かせた。前のめりになっていた葵が後方へ身を引くと、クレアは再び笑顔になって話を再開させる。

「内容はどうやった?」

「結ばれないって分かってるからこそ燃え上がる愛……ロマンスだよねぇ。私もあんな恋したいなぁ」

 ハッピーエンドじゃなきゃイヤだけど。葵がそう付け加えたので、クレアが笑った。久しぶりの感覚に懐かしさを覚えた葵も自然と口元をほころばせる。

(前はよく、こんなこと考えてたなぁ)

 生まれ育った世界では現実の恋愛に縁がなかった葵は、映画や小説のような劇的な恋愛に憧れを抱いていた。しかし現実の恋愛は、どうにもうまくいかない。自分の恋愛遍歴を思い返した葵が苦笑いをしていると、それを目に留めたクレアが眉根を寄せた。

「なに考えとるんや?」

「いやぁ、現実は苦いなぁと思って」

「苦いも甘いもあるんが恋愛ってもんやろ」

「甘いのは経験ないから」

「アッシュと付きうてた時に経験せぇへんかったんか?」

 クレアが話題に上らせたアッシュという青年は葵の元彼である。ひどい別れ方をしただけに、その名を聞いただけで心苦しく、葵は少し顔をしかめながら答えた。

「アッシュとは、そういう風になる前に終わったから」

「まだ、気にしとるんか?」

「そりゃあね……」

 気にせずにいられるわけがない。葵が暗にそう言うと、クレアは小さくため息をついた。

「まあ、こればっかりはどうしようもないわな。せや、前にようパンテノンに通っとったやろ? その時の恋人とはどないなったんや?」

 クレアは口調を明るくして話題を変えたが、その話も葵にとっては苦い恋愛経験の一つでしかなかった。苦笑いを浮かべた葵は温くなった紅茶を一口含んでから話に応じる。

「恋人じゃないから」

「そうなん? よう行っとったさかい、てっきり恋人がおるんやと思うとったわ」

 クレアが話題に上らせているのは、葵がこの街で仲良くなった庶民の少年のことである。まだクレアが葵のメイドとして働いていた時、葵はその少年に会いに行くために、クレアにしょっちゅうパンテノンまで送ってもらっていた。クレアの目線からあの時のことを見てみれば、確かに誤解してもおかしくない状況だ。それも誤解というだけでは済まない話のため、葵はまた苦笑いを浮かべる。

「むこうはたぶん、私のこと好きでいてくれたんだと思う。私も、たぶん好きだった。でもうまくいかなかったんだよねぇ」

「何でや? お互い好きやったんなら付きうたら良かったやんか」

 訝しげな顔をしているクレアに、葵はうまくいかなかった理由を語った。そこにキリル=エクランドという少年が絡んでいると聞き、クレアは眉間にシワを寄せる。

「それって、あれか?」

「うん。今思えば、あの時にはもうおかしくなってたんだろうね」

 その当時、葵とキリルはお互いに悪い印象しか抱いていなかった。あの時はキリルが何故あんなことをしたのか理解出来なかったが、今ならばその理由がはっきりと分かる。キリルにかけられていた魔法を葵が歪めてしまったため、彼は葵にとんでもなく歪んだ感情を抱いてしまったのだ。似非恋愛感情に振り回されたのは葵だけなく、キリルも同じことだったのだろう。

「苦労……したんやな」

 同情的な目をしたクレアがしみじみと呟いたので、もうその件については吹っ切れている葵は笑ってしまった。あの時は確かに酷い目に遭ったが、笑って済ませられるようになったのならそれでいい。

「時間の流れって偉大だねぇ」

 どんなに苦しいことでも時間が経てば痛みは和らいでいく。今抱えている傷も、いつかはきっと笑って話せる日が来るだろう。そんなことを思った葵がしみじみと独白を零すと、クレアがおもむろに顔をしかめた。

「遠い目になるんやない! まだまだこれからやろ?」

「うーん、現実の恋はしばらくいいよ。もう疲れちゃったから」

「いい若いもんが、なに言うてんねん」

「クレアだって若いじゃん」

「うちは青春を謳歌しとるからええねん。ええか、アオイ? 甘い恋愛も知らずに腐ってまうのはもったいなさすぎやで」

「そんなにいいもん? 甘い恋愛って」

「当たり前や」

 微塵の躊躇も見せずに即答したクレアは、今から話すことを想像してみろと言う。妄想するには恋人役が必要であり、誰にしようかと考えた葵はとある人物を思い浮かべてしまい、慌てて首を振った。その人物の姿を頭から消し去った後、葵は結局、最愛の芸能人である加藤大輝という少年の姿を思い浮かべた。

「ちゃんと相手をイメージしとるか?」

「うん。いつでもいいよ」

「せやったらまず、恋人に優しく抱きしめられる自分を想像しぃ」

 妄想を膨らませるために目を閉じた葵は、言われた通りの光景を思い描いてみた。相手役が憧れの人物とあって、ただの妄想であることが分かっていても胸がドキドキしてくる。

「そしたらなぁ、恋人が耳元に口唇を寄せて囁くんや。愛してる……」

「うわあ!!」

 妄想の中の出来事とクレアの発言のあまりの恥ずかしさに耐えられなくなった葵は素っ頓狂な声を上げて話を遮った。刹那、周囲の視線が一斉にこちらへと向けられる。慌てて自分の口を塞いだ葵は針の筵に晒されて縮こまったが、クレアはまったく平気な様子で話を続けた。

「な? ええもんやろ?」

「恥ずかしくて死にそう。色んな意味で」

「何も恥ずかしいことなんかあらへん。ところでアオイ、今誰を思い浮かべとった?」

 クレアが誰を予想しているのかは分からないが、彼女の口調は明らかな冷やかしを含んでいる。顔を赤くした葵は面白がっているクレアを軽く睨んでから小さく肩を竦めた。

「クレアの知らない人だよ」

「どんな奴かくらい教えてくれてもええやん」

「顔はジノクにそっくり。性格は全然違うけど」

 ジノクという少年はフロンティエールという国の王子で、顔だけは本当に加藤大輝にそっくりだった。しかし実際のところ、加藤大輝と直接の知り合いではない葵には彼の性格など分かるはずもない。本当は加藤大輝もジノクのような性格をしているのかもしれないが、夢が壊れるので深く考えるのはやめておいた。

「アオイはああいう顔が好みなん?」

「顔っていうか……他のことも全部ひっくるめて、その人自体が好きなんだよね。もちろん、顔も好きだけど」

「そないに好きな人がおるんやったら頑張ってみたらええんちゃう?」

「ん〜、それはちょっと難しいなぁ」

 この世界には芸能界というものがないので説明に窮したが、葵はとにかく、加藤大輝という人は雲上人なのだとクレアに伝えた。クレアもわりとミーハーなところがある少女なので、葵の気持ちを何となく理解してくれたようだ。

「お互いにええ恋したいもんやなぁ」

「……そうだね」

 お互いに相手のいない女同士、最終的にはそこに落ち着いて、葵とクレアはどちらからともなくカフェを後にした。






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