フォースアベニューカフェを出た後、葵とクレアは食材店が立ち並ぶフィフスアベニューへと向かうことにした。その途中、雑踏の中で見知った顔を見付けた葵はふと歩みを止める。
「どないした?」
少し前を歩いていたクレアが振り返ったので、葵は「知り合いがいた」ことだけを伝えた。その知り合いの名はアリーシャといい、彼女はこの街で仕立て屋を営んでいる。なので彼女がいたこと自体に不思議はなかったのだが、とある事情から、葵はアリーシャに声をかけるのを躊躇った。
(クレアと一緒はまずい、よね……)
アリーシャはアルヴァの恋人の一人であり、クレアはそんなアルヴァに熱を上げている。さすがにこの二人を引き合わせるのはまずいだろうと、葵は思ったのだった。しかし敏感なクレアは葵が何かを躊躇っていることを察した様子で、自ら立ち去ることを告げてきた。
「生徒の証、持っとるな?」
「え? うん」
屋敷を出る前、葵はクレアに言われてトリニスタン魔法学園の生徒の証をポケットに突っ込んできた。これは生徒手帳のようなものなのだが、それが何故話題に上ったのか分からなかった葵は首をひねる。するとすぐ、クレアが説明を加えてくれた。
「それ持っとると通信魔法が使えるんや」
「へぇ。レリエみたいなもんなんだ?」
「テキトーなとこで連絡入れるわ。ほな、後でな」
必要なことだけを告げると、クレアは一人で雑踏の中に紛れて行った。気を遣ってくれたクレアには悪いと思いながらも、アリーシャに話があった葵は店先で買物をしている彼女の元へと向かう。
「アリーシャさん」
肩を叩きながら声をかけると、アリーシャは怪訝そうな表情で振り返った。だが葵の姿を目に留めると、彼女は警戒を解いて笑みを浮かべる。
「ミヤジマちゃんじゃない。偶然ね」
「あの、この制服、ありがとうございました」
葵の今日の出で立ちは白のワイシャツにチェックのスカートという、いつも通りの高等学校の制服だ。さすがにそれだけでは寒いので上にケープを着ているのだが、あまり冬の寒さを感じずに済んでいるのには他にも理由があった。アリーシャが仕立ててくれたこの制服に、温度調節をする魔法がかけられているからだ。
「お礼なんていいのよ。ちゃんとお代をもらってるんだから」
律儀なんだからと言いながら葵の頬をつついたアリーシャは、次の瞬間にはふと表情を曇らせた。彼女には快活なイメージしか持っていなかった葵は憂いの表情に面食らい、瞬きを繰り返す。葵が驚いているのを見て取ったアリーシャは苦笑に近い笑みを浮かべ、そのまま言葉を次いだ。
「アルフォンスさんは元気?」
アリーシャの口から飛び出したのは聞き覚えのない名前で、彼女が何を言っているのか分からなかった葵は眉をひそめた。それを自分なりに解釈したらしいアリーシャは淡々と話を進める。
「実はね、フラれちゃったの。だから今までのように愛称では呼べないなぁって思ってね」
アルフォンスという名に聞き覚えはなかったが、葵とアリーシャの間で話題に上る第三者は一人しかいない。しかし彼の名は、アルフォンスではなくアルヴァ=アロースミスだ。どういうことなのかと困惑した葵はアリーシャと話をしている間、しきりに首を傾げていた。
「じゃあね。良かったらまた買物に来て」
短い立ち話を終えて去って行くアリーシャに上の空で手を振った後、葵は歩き出しながら本格的に考えに沈んだ。
(偽名……ってことだよね)
アルヴァとアルフォンス、どちらが本名なのかと言えば、まず間違いなくアルヴァの方だろう。彼の実姉であるレイチェル=アロースミスが弟のことをそう呼んでいたのだから、それは確かだ。問題はそのことよりも、何故アルヴァがアリーシャに偽名を名乗っていたかということである。そこまで考えたところで葵は自分の思考に笑ってしまった。
(私には関係ないじゃない)
アルヴァとアリーシャは『大人の付き合い』をしていた。おそらくはそれが全て、なのだろう。ただ、本名すらも教えられず『恋人』としてアルヴァと付き合っていたアリーシャが、かなり可哀相ではあったが。
『アル、と呼んでください』
考えるのをやめようとしたところでふと、アルヴァの言葉が蘇った。アルヴァとアルフォンス、どちらも愛称で呼べば『アル』となる。アルヴァが事ある毎に自分のことを『アル』と呼ぶように勧めていた真意は、もしかすると……。
(うわっ、サイテー)
現時点では憶測に過ぎないが、計算高いアルヴァならばそのくらいのことは平然とやってのけそうだ。おそらくはアリーシャだけでなく、その他大勢の『恋人』達にも偽名を使って接しているのだろう。こんなバカな話はないと思った葵は、久しぶりにアルヴァに対して憤りを覚えた。
「アオイ」
「うわあ!」
考え事をしながら歩いていた葵は、急に声をかけられた驚きで大袈裟なリアクションをしてしまった。振り返ってみるとそこに佇んでいたのはクレアで、彼女は呆れた表情で葵を見ている。
「オーバーな奴やなぁ。そないに驚くことか?」
「ご、ごめん」
「ま、ええわ。もう用は済んだんか?」
「あ、うん。生徒の証使わなくても、会えちゃったね」
「せやな。ほんなら、行こうか」
クレアに促された葵は複雑な気分が拭えないまま、フィフスアベニューに面した店を見て回った。しかしやはり、米らしきものは見当たらない。一通り店を回ってしまうとクレアがアルヴァに助言を求めに行こうと提案してきたので、葵とクレアは休日のトリニスタン魔法学園へと出向いた。
「何でまた、学園やの?」
どうやらクレアはアルヴァの家を訪れるものだと思っていたらしく、不可解さ半分、がっかり半分といった調子で尋ねてきた。何でと言われても答えようがなく、葵は苦笑いを浮かべる。
「休みでも、たぶん保健室にいるよ」
より正確に言うならば、例え保健室にいなくとも自分達の往訪を察知して姿を現してくれるだろう。だがその辺りのことを説明しようとすると非常に面倒なので、葵は勘という形で話を終わらせた。
トリニスタン魔法学園アステルダム分校の保健室は校舎一階の北辺にある。葵とクレアがその場所へ辿り着くと、室内にはずんぐりむっくりな体型をしたウサギの姿があった。このウサギはアルヴァの代理人で、校内では保健室の主として認識されている。
「いらっしゃいませ〜」
二本足で立っているウサギは窓際にあるデスクの上で、窮屈そうにお辞儀をして見せた。このウサギからはまともな返答がもらえないことを知っている葵は頷くだけで挨拶とすると、さっさと簡易ベッドへと向かう。アルヴァの姿が見えないのに葵がベッドに腰を落ち着けたので、クレアが訝しげな表情をした。
「アル、おらんやないか」
「たぶん、すぐ来るよ」
葵が曖昧なことを言うや否や、保健室の扉が開いて白衣姿の青年が姿を現した。金髪にブルーの瞳といった容貌をしている彼は噂の、アルヴァ=アロースミスである。葵の言う通りに彼が姿を見せたことでクレアは呆れたような表情を作った。
「おたくら……お互いのことよう分かっとるなぁ」
「まあ、アルが一番付き合い長いからね」
プライベートなことはほとんど知らないが学園でのことに限って言えば、ある程度はアルヴァの行動を先読みすることが出来る。しかし自慢出来るようなことでもないので、葵はサラッとクレアの感嘆を受け流した。アルヴァもまた表情を変えず、淡々と言葉を紡ぐ。
「お揃いで、どうしたのですか?」
「アオイが説明しぃ」
クレアに丸投げされたので、葵は休日の学園を訪れた理由をアルヴァに語った。だが博識な彼も『お米』というものは知らないようで、葵の問いかけに首を傾げている。
「オ・コメとはどのような物なのですか?」
「オ・コメじゃなくて、米。ライス。ご飯」
何か一つくらい当たるのではないかと期待して色々な言い方をしてみても、やはりアルヴァには『米』というものがどういうものなのか分からないようだった。クレアに尋ねられた時と同じく説明に窮した葵は眉根を寄せて空を仰ぐ。
(こういう時、頭の中を映像化出来たら楽なのになぁ)
イラストにして伝えるという手段もあるにはあるのだが、葵は画力に自信がない。自分でそのことが分かっているので悶々としていると、アルヴァが助け船を出してくれた。
「その『コメ』というものは植物なのですね?」
「うん。稲っていう植物の、種?」
「それならば図書室で図鑑を調べてみましょう。もしかすると、似たような植物があるかもしれません」
「あ、そっか」
図鑑ならば食材店を回るよりも遥かに効率良く情報を収集することが出来る。言われて初めてそのことに気がついた葵とクレアはアルヴァの発想に感心しつつ、すでに歩き出している彼の後を追った。
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