雪が降っていなければ夜空に二つの月が昇っている時分、アルヴァはアステルダム分校の校舎に内包されているプライベートな空間でデスクに向かっていた。ここはいちおう職場になるわけだが、仕事をしているわけではない。また個人的な研究を行っているわけでもなく、デスクの上には琥珀色の液体が入った瓶とグラス、吸殻が数本放置されている灰皿が置かれているだけだ。
ある光景が頭から離れず、手にしたグラスをデスクに戻したアルヴァはぐしゃりと髪を乱した。しかし嘆息して瞼を下ろすと、またしても同じ光景が闇の中に蘇ってくる。酒を飲んだのは失敗だったかもしれない。そう思いつつも手を伸ばすことが止められず、アルヴァはグラスになみなみと琥珀色の液体を注いだ。
今夜の食事は異世界の、ヤミナベという料理だった。アルヴァはそれを葵とクレアと共に保健室で食したのだが、その時の光景がどうにもプレイバックして止まないのだ。その理由が分かっているだけに、アルヴァは頭を振ってからグラスを一息に干した。
(……まいったな)
こんな夜は気を紛らわすため、誰かと無関係な話でも出来ればありがたい。だが大勢いた『恋人』達はすべて整理してしまったため、アルヴァにはもう夜を共に過ごす相手がいなかった。そうしたタイミングで鍋を囲んでしまったからこそ、一人が寂しく感じられるのかもしれない。
アルヴァの姉弟はレイチェルだけだが、アロースミスには親類が多い。そのため子供の頃は大勢で食卓を囲むのが普通のことだった。それがトリニスタン魔法学園に編入すると姉と二人きりになり、中途退学した後は一人になった。それでも今までは、別段寂しいなどと思ったことはなかった。孤独を感じる前に、やらなければならないことが山積していたからだ。
(それなのに、今夜は……)
何も手につかず、こうして酒に溺れている。そんな自分の姿を、アルヴァは惨めだと嗤った。
(とても、見せられないな)
そう考えた時、まず姉の姿が頭に浮かんだ。次にユアン=S=フロックハートという少年の姿が浮かび、今度は葵の顔が見えてくる。記憶の中にいる彼女が気後れした顔をしていたので、アルヴァはまたグラスに注いだ液体を一息に干した。
(まったく……)
馬鹿げている。思わず零れた呟きが、静寂の中に虚しく消えていった。自分から他者を拒絶しておいて寂しがっていたのでは、愚かと言うしかないだろう。しかし他に、どうすることも出来なかったのだ。
(何故、僕がこんなに悩まなければならないんだ)
そもそもの発端は感情が理性を超えて動いてしまったことにある。それはアルヴァにとって悪しき兆候で、彼は葵との関係を見直す必要性に迫られたのだ。もう少し、距離を置きたい。置かなければならないという考えは今も変わらないが、どうもそれがスマートに出来ない。そんなことで四苦八苦している自分がらしくなく、アルヴァはまた杯を重ねてしまったのだった。
しばらく一人で飲んだくれていると、やがて保健室のウサギが来訪者の存在を報せてきた。休日の、それも深夜に保健室を訪れる人物など限られている。可能性の一つを早々に否定したアルヴァは来訪者に目星をつけ、保健室へと向かった。
「……酔ってるの?」
深夜の来訪者である赤髪の少年は、アルヴァが姿を見せるなり眉根を寄せて問いかけてきた。おそろしく女顔をしている彼の名は、ウィル=ヴィンス。この学園のマジスターの一人だ。
「飲んでるけど、酔ってはいない」
「ふうん。珍しいね、そんな姿で僕の前に出て来るなんて」
「話をするのに支障がなければ、何でも構わないだろう?」
「ま、僕はいいけど」
大袈裟に肩を竦めて見せたウィルは、きっと酔っ払い相手の方が情報を引き出しやすいと考えているのだろう。だがアルヴァも、それが分からないほど酩酊してはいない。しかし足元は若干危うかったので、ウサギのいるデスクに腰を落ち着けてから話を再開させた。
「それで? 久しぶりのようだけど、何の用?」
「絡まないでよ。ほんと酔っ払いってタチが悪いね」
「タチが悪いのは君の方だろう? ウィル=ヴィンス」
「貴方にそう言ってもらえると逆に光栄だね」
「……僕からも話がある。早く用件を言ってくれ」
「それなら、そっちからどうぞ」
妙にもったいぶるウィルに不透明さを感じながらも、このままでは埒が明かなかったので、アルヴァは先に本題を口にすることにした。
「何故、ミヤジマ=アオイに明かさない?」
ウィルは葵が、異世界からの来訪者であることを知っている。そのうえで彼は葵を「研究したい」とまで言ってのけたのだ。研究はアルヴァが禁じたが、ウィルは間違いなく葵に興味を抱いている。それなのに葵と接触しないでいることに、アルヴァは嫌な予感のようなものを覚えていた。しかし大したことではないようで、ウィルは表情を変えることなく応える。
「ああ、そのことね。そのうち話を聞かせてもらおうと思ってるけど、今は別件で忙しくて」
「別件?」
「貴方には関係ないことだと思うけど、聞きたい?」
「話すつもりがあるのなら、いちおう聞いておこうか」
「キルが恋愛に目覚めちゃってね。何も知らないから、いろいろと教えるのに大変なんだよ」
ウィルはサラッと言ってのけたが、その発言に含まれる爆弾を感知したアルヴァは口をつぐむ。微妙な間を置いた後、アルヴァは疑わしい目をウィルに向けた。
「キリル=エクランドが恋愛している相手とは、誰のことだ?」
「嫌だなぁ。知ってるんでしょ?」
ウィルがニヤリと笑ったところを見ると、やはりその相手とは葵のことらしい。関係ないどころか大有りだと胸中で呟いたアルヴァは頭痛を感じ、こめかみに手を当てた。
「何を、考えている?」
「別に? 僕はただ、友人の初めての恋を応援してるだけだよ」
ウィルの発言は限りなく嘘に近いように感じられたが、下手に追及して彼を追い込んでしまってもまずいため、アルヴァは釘だけ刺しておくことにした。
「君が何を考えているのかは知らないが、これだけは言っておく。ミヤジマ=アオイの不利になるようなことはするな」
「僕は
「……そうであることを願ってるよ。それで、何が望みなんだ?」
ウィルがこういった話運びをする時、そこには必ず意図が隠されている。今回もやはりそうだったようで、ウィルは憎らしいほど華麗な微笑みを浮かべて見せた。
「貴方と話してると退屈しないね。貴方の仲間もそう?」
「仲間?」
「初めに言ってたじゃない。
胸中で「ああ……」と呟いたアルヴァはウィルの理解力に舌を巻いた。確かにウィルの言う通りではあるのだが、そのことに関して直接的に触れたことは一度もない。断片的な情報から真相を組み立てる能力は、さすがヴィンス家の一員といったところだろう。
「そうだね。そろそろ、会わせてあげるよ」
「いつか言ってた、秘密の花園の方もよろしくね」
「ああ……よく覚えていたな」
「あんまり、僕を過小評価しない方がいいと思うよ?」
言いたい放題好きなことを言うと、ウィルは「じゃあ」と言って去って行った。一人きりになった保健室で苦笑いを浮かべたアルヴァは扉から視線を外し、それを窓へと転じる。冬月期の夜らしく、窓の外では大粒の雪が深々と降り注いでいた。
(僕も帰るか)
相手が誰であれ、悩みとは無関係の話をしたことで少しは酔いが醒めた。この状態ならアパルトマンに帰っても大丈夫そうだと思ったアルヴァは『研究室』には戻らず、転移の魔法を唱えて姿を消した。
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