気絶した葵を保健室に運んだ後、校医であるウサギに追い立てられたキリルは茫然自失の状態で屋敷に帰って来た。ここはアステルダム公国内にあるエクランド家の別邸の一つで、屋敷丸ごと一つがキリルの寝所である。そこでウィルとオリヴァーが、キリルの帰りを待ち構えていた。
「おかえり。うまくやれた?」
キリルがソファーに腰を落ち着けるなり、ウィルがさっそく本題を口にする。しかしその問いかけは鬼門で、スパッと答えられなかったキリルは考えこんでしまった。
恋愛初心者であるキリルはウィルに勧められて、その道のプロから上手なキスというものを伝授してもらった。教えられた通りにやってみるとプロは喜んだのに、葵は何故か倒れてしまったのである。やり方はまずくなかったはずなのだが、これでは「うまくいった」とは言えないだろう。
「……わかんねぇ」
「分からないって、アオイはどんな反応してたの?」
「倒れた」
「えっ?」
驚いた様子のウィルがそこで言葉に詰まると、今度は血相を変えたオリヴァーが口を開いた。
「キル、アオイに何したんだ?」
「知らねぇよ」
「キスしただけじゃないの?」
何をしたと問い詰められると答えに窮しても、ウィルのような問い方をされれば簡単に答えられる。キリルが頷くとオリヴァーはひとまずホッとしたような表情を浮かべて、それから怪訝そうに眉根を寄せた。
「それで、何で倒れるんだ?」
「キルのキスがあまりに上手くてメロメロになっちゃったとか?」
「メロメロ……」
ウィルが茶化した調子で述べた推測に、オリヴァーは微妙な表情を浮かべた。二人のやり取りには口を挟まずにいたキリルは、あることを思い出したので、それをそのまま言葉にしてみる。
「さんけつ」
「は?」
「ウサギがそう言ってた」
「ウサギって、保健室の?」
キリルが頷くと、ウィルとオリヴァーは同時に閉口して、それぞれ考えに沈んだようだった。しかし彼らはすぐに事態を把握したようで、顔を見合わせてお互いの推測を確かめ合う。それを無言でやったにも関わらず意思の疎通が出来たらしく、オリヴァーとウィルはこれまた同時に吹き出した。
「何がおかしいんだよ!」
一人だけ状況を理解出来ていないキリルが苛立ちながら声を荒らげると、ウィルがまだ笑いを残しながらも話に応じる。
「キルの方は苦しくなかったの?」
「オレが? 何でだ?」
「ということはアオイ、ずっと息止めてたんだな」
すでに笑いを収めているオリヴァーが、遠い目をしながらしみじみと独白を零した。それがまた笑いを誘ったらしく、ウィルは顔を背けている。訳が分からなかったキリルが混乱していると、オリヴァーが説明を加えてくれた。
「キルは悪くない。ただちょっと、アオイがそういうことに慣れてなかっただけだ」
「そうなのか?」
「息継ぎの仕方が分かってないみたいだから、長いキスはやめといた方がいいな」
オリヴァーの助言をキリルが真摯に受け止めていると、ようやく笑いが収まったらしいウィルが再び口を挟んできた。
「倒れた理由が酸欠でも、キスだけで気絶させるなんてやるね」
「茶化すなよ。それで、アオイの具合はどうだったんだ?」
面白がっているウィルを制した後でオリヴァーが問いかけてきたことが、キリルの胸に波紋を広げた。保健室に連れて行ってすぐウサギに追い出されてしまったため、葵の調子がどうなのか確認をしていない。そのことに気がつくと俄かに気になってきて、居ても立ってもいられなくなったキリルはソファーから立ち上がった。
「見てくる」
オリヴァーとウィルにそれだけを言い置くと、キリルは転移の呪文を唱えてトリニスタン魔法学園に戻った。裏門の魔法陣に出現した後は全力疾走で、校舎一階の北辺にある保健室を目指す。しかし保健室でウサギから聞かされたのは、残念なお知らせだった。
「ミヤジマ=アオイさんは帰宅されました〜」
心中とは裏腹に呑気な対応をされたキリルはウサギの間延びした調子に怒りを募らせたが、情報を引き出さなければならないという思いから、平素の彼らしくなくグッと堪えた。だが結局、ウサギからは何の情報も得られず、キリルは不機嫌なオーラを周囲に撒き散らしながら保健室を後にする。
(くそっ!)
顔を見たいのに会えない状況がなんとも不愉快で、足蹴にした壁を熱で融かしてしまった。しかし、あることを思いついたキリルは瞬間的に憤りを治め、異次元から魔法書を取り出す。素早くページをめくっていくと、やがてある屋敷へと通じる魔法陣が現れた。
キリルの魔法書に記されている魔法陣は、葵が以前に住んでいた屋敷のものである。しかし彼女は屋敷ごと引っ越しをしたらしく、現在はこの魔法陣が使えない。それでも他に手掛かりがなかったため、キリルは駄目で元元というつもりで転移してみた。すると以前は更地だった場所に、見覚えのある屋敷が建っていた。
(あるじゃねーか)
もしかしたらまた、屋敷ごと元の場所に戻って来たのかもしれない。この憶測が間違っていたとしても確かめてみる価値はあったので、キリルは屋敷の中に入ってみることにした。伯爵以上の貴族の屋敷であれば使用人がすぐ来客の対応に出てくるはずなのだが、キリルが進入した屋敷は来訪者を迎えても静まり返ったままだ。エントランスホールで少し待っても誰も出てこなかったため、キリルは勝手に屋敷の中を歩き回ってみることにした。
屋敷は二階建てで、まず一階を捜索することにしたキリルは目に付いた扉を次々と開けていった。どの部屋にも上等な調度品が揃っているのは、貴族の屋敷としては当然のことである。だがそれだけでは、ここで人が暮らしているのかどうか判断することが出来ない。とにかく人に会わなければ始まらないと捜索を続けているうちに、やがて前方から人がいるような気配が漂ってきた。
人の気配を追って辿り着いた先は、バスルームだった。ドアには侵入者を拒む魔法が仕掛けられていたが、大貴族の血を受け継いでいるキリルにとってこの程度の魔法は紙くずのようなものである。いとも容易く魔法を消し飛ばしたキリルは何も考えずにバスルームへと進入し、絶句した。
十畳ほどの広さがあるバスルームには人間が四・五人入れるくらいの湯船が置かれていて、そこに誰かの姿があった。物音に気付いたその人物が振り返ったことで、目が合ってしまう。ひどく驚いた表情をした葵は反射的といった感じで立ち上がると、その直後に勢い良く浴槽に体を沈めた。泡にまみれていたとはいえ裸体を目の当たりにしてしまったキリルも、浴槽の中にいる葵も、動けない。
「……出てってよ」
極度に気まずい沈黙の後、葵の低い声がバスルームに響いた。それで我に返ったキリルは俄かに慌て出し、浴槽に釘付けになっていた視線を焦って逸らす。だがその仕種が、葵の怒りに油を注いでしまった。
「出てけって言ってんでしょ! 変態!!」
葵の怒声に追い立てられたキリルは浴槽から飛んできた泡だらけの湯をかぶり、大貴族の威厳もへったくれもない姿になって自分の島へと逃げ帰った。まだそこにいたウィルとオリヴァーに、その情けない姿を笑われたのは言うまでもない。
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