悪事のにおい

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「アオイ!」

 アルヴァが立ち去った後、一人で客間にいた葵の元に少年が姿を現した。鮮やかな金髪に紫色の瞳といった容貌をしている彼の名は、ユアン=S=フロックハート。突進してきたユアンが勢いを緩めずに抱きついてきたので、椅子ごと転がりそうになった葵はドキドキしながらイタズラな来訪者を迎えた。

「あ、危ないでしょ」

「へーきへーき。アオイにケガなんかさせないよ」

 愛くるしい笑顔でそう言うと、ユアンは葵の頬にチュッと口づけた。その後、彼は催促するように自身の頬を指で示す。可愛らしく「おねだり」されてしまった葵は苦笑しながら、ユアンの頬にアイサツのキスを返した。

「おたくら、仲のええ恋人同士みたいやで」

 ユアンと戯れていたところを見られたらしく、クレアがそんなことを言いながら室内に進入して来た。葵はやはり苦笑で彼女を迎えたのだが、ユアンの方は「いいでしょ?」などと自慢している。今は使用人としてではなく個人としてユアンと接しているクレアは、そのまま素の口調で話に応じていた。

「ところで、どうしたの? レイも来てるんでしょ?」

「レイは今、アルと話をしてるよ。それじゃ僕達も、そろそろ始めようか」

 クレアとの談笑を切り上げたユアンはそう言うと、無属性魔法を使って三人分の紅茶を淹れた。葵とクレアは並んで腰を下ろし、テーブルを挟んだ反対側にユアンが一人で腰を落ち着ける。それぞれの前に湯気を立ち上らせる紅茶が置かれると、ユアンはティーカップに口をつけてから話を始めた。

「クレアから聞いたよ。アオイ、バスタイムを覗き見されたんだって?」

 てっきり進級試験の話だとばかり思っていた葵は、ユアンが発した予想外の言葉に動揺して紅茶を喉に詰まらせた。

「ああ、何やっとんのや」

 咳き込んでいるとクレアが背中をさすってくれたので、呼吸が楽になってから顔を上げた葵は口元を引きつらせながら礼を言う。乱れた気持ちを切り替えるためにも深呼吸をして、葵はそれからユアンに向き直った。

「じゃあ、お風呂場に魔法をかけに来てくれたの?」

「そこは僕がやるから、任せておいて。アオイのバスタイムをジャマするヤツなんて許せないもんね。エクランド公爵のご子息であろうと、容赦しないよ」

 邪気のない笑みを浮かべてはいるものの、ユアンの発言はどこか不穏だった。キリルが罠にかかる場面でも想像したのか、クレアは一人で笑っている。葵は安心安全なバスタイムが保証されたことで、ホッと胸を撫で下ろした。

「それで、アオイ。覗かれた時に『証』は見られなかった?」

「証?」

 真顔に戻ったユアンの発言に応えたのは葵ではなく、首を傾げたクレアだった。ユアンが手短に『召喚獣の証』について説明し終えるのを待ってから、葵は頷いて見せる。

「それはたぶん、大丈夫だと思う」

 おそらく覗きに来たつもりなどなかったのだろう、あの時のキリルはとても驚いた様子だった。裸を見られてしまったのも一瞬のことだったし、そんな思考の状態で証に気がつけたとは思えない。葵がそういった推測を述べると、ユアンはひとまず安堵したようだった。事情を知ったクレアもフォローすると言ってくれたので、葵は頼もしい思いで彼女に頷き返す。バスルームの件が解決すると、ユアンは話を次に進めた。

「実はこの屋敷、改装中なんだ。二人とも、知ってた?」

 ユアンがイタズラっぽい笑みを浮かべながら問いかけてきたので、葵とクレアは同時に「えっ」という声を上げた。ユアンの話によると、その改装は葵が『ワケアリ荘』に引っ越した後に始まったらしい。改装以前からこの屋敷に住んでいる葵とクレアは顔を見合わせた。

「アオイ、気付いとったか?」

「ううん、全然。何がどう変わってるの?」

 二人だけでは答えを導き出せなかったため、葵はすぐユアンに問いかけた。二人分の視線を独占した彼は楽しそうにはしゃぎながら話を続ける。

「この屋敷はね、もともと僕がレイにあげたものなんだ。そしたらレイってばね、実験だとか言って面白いこと始めたんだよ」

 レイチェルに下賜された後、この屋敷は彼女の手によって遊技場へと姿を変えた。ユアンからそう聞かされてもピンとこなかった葵とクレアは、またしても同時に首を傾げる。

「遊具っぽいものなんてあらへんよな?」

「別に、ふつうの家だよね?」

 葵の感覚からするとスケールは桁違いだが、屋敷の外装にも内装にも際立って妙な点などない。その感性がクレアと同じであることを確かめ合った後、葵はユアンに視線を戻した。すると彼は、楽しそうにフフッと笑う。

「今はね、休眠状態なんだ。そうじゃなきゃフツウに暮らせない所になっちゃうから」

 葵とクレアは一体どんな仕掛けがあるのかと訝ったが、ユアンはそれ以上の説明を加えてはくれなかった。ちょうどアルヴァとレイチェルが客間に姿を現したので、その場の視線は彼らの方に集中する。

「ユアン様、そろそろ始めましょう」

「うん、分かった。マト、おいで」

 レイチェルの呼びかけに頷いて見せた後、クレアを振り返ったユアンは彼女の肩口にいるマトに声をかけた。クレアの体を伝って床に下りたマトはそのままユアンの元へと這い寄り、彼に抱き上げられる。

「進級試験が終わるまで、マトは僕と一緒にいるからね」

「分かったわ。ほなな、マト。あんまり心配せんでええからな?」

 クレアとマトが短い別れを終えると、ユアンとレイチェルは二人で客間を出て行った。ユアンがいなくなったことで空いた席に、アルヴァが再び腰を落ち着ける。三人分の紅茶を淹れ直すと、今度はアルヴァが説明を開始した。

「今からユアン様と姉が、この屋敷を改装します。改装が終わったら魔法を使わない動作にはペナルティが科されることになりますので、気をつけて下さい」

 それが進級試験のための特訓になるのだと、アルヴァは言う。訊くことが多すぎて葵が迷っていると、クレアが先立って疑問を口にした。

「魔法を使わない動作っちゅーのは、どの程度のことまでを言うんや?」

「そうですね、掃除や料理などの家事は基本的なことになりますので、クレアさんは習慣が出ないように気をつけて下さい」

 使用人であるクレアは、魔法を使わない家事のプロフェッショナルである。掃除にしても料理にしても普段は手作業でやることが多いので、アルヴァはその点を注意しろと言っているのだった。口元に手を当てたクレアが「うーん」と唸っていると、アルヴァは葵に視線を移して言葉を重ねる。

「屋敷内の移動にも魔法を使って下さい。これには風の魔法を使って宙を移動するのがいいでしょう。扉や窓にも無属性魔法が刻まれています。手を触れずに開けて下さい」

「う、うん」

 アルヴァが例に挙げた全てを魔法なしでやっている葵は、想像以上にハードルが高いことに気圧されしながら頷いた。葵とクレアが黙り込むと、アルヴァはさらに説明を続ける。

「ペナルティについては、改装が終わったら実際に試してみましょう。進級試験が終わるまではお二人に外出を禁じます。僕が日に一度屋敷を訪れますので、分からないことはその時に尋ねてください」

 そこで説明を終わらせると、アルヴァも改装の手伝いに行くと言って客間を去ってしまった。次の指示がなく客間に取り残された葵とクレアは、お互いに何となく妙な表情で顔を見合わせる。

「大変そう、やな?」

「そうだね。ペナルティ、怖いなぁ」

「せやけど、これは願ってもないことやで。あのユアン様とレイチェル様がうちらを鍛えてくださる言うんやから」

 ユアンとレイチェルは、大多数の貴族にとっても滅多に会うことの出来ない特別な者達である。初めからこの世界の枠組みに囚われていない葵にはその実感が薄いのだが、彼らを崇拝しているクレアは嬉しそうだ。もしかすると純粋に、魔法に長じることも嬉しいのかもしれない。トリニスタン魔法学園に編入した時のクレアを思い返した葵は、何となくそんな風に思った。

(私にだっていいこと、だよね)

 異世界からの来訪者である『召喚獣』は、本来ならば魔法を使うことは出来ない。だが今、葵は一時的に自力で魔法を使うことが出来るのだ。この機会に魔法を学び、そして自在に使えるようになることは、元の世界へ帰る方法を探すことにもきっとプラスに働くだろう。

「よし! 頑張ろう!」

「お、珍しくノリ気やな? うちら二人でレベルアップして、アホ共に目に物見せたろうで!」

 お互い意気込みも十分に、葵とクレアはがっちりと手を握り合った。






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