鉛色の空から大粒の雪が降りしきる昼下がり、アステルダム公国内にある、とある貴族の邸宅に一人の青年が姿を現した。金髪にブルーの瞳といった容貌をしている彼の名は、アルヴァ=アロースミスという。アルヴァが訪れた屋敷は彼の実姉であるレイチェルが所有しているのだが、現在は葵とクレアが生活の場としていた。彼女達は五日後に控えたトリニスタン魔法学園の進級試験に向けて魔法の特訓をしており、アルヴァはその様子を見に来たのだった。
転移を完了してすぐ、アルヴァは異常に気がついた。それもそのはずであり、つい昨日までそこにあったはずの屋敷が忽然と消えていたのである。普通ならばそこで呆気に取られてしまうだろうが、そうなる理由に心当たりのあったアルヴァは驚かなかった。しかし怪訝には思い、眉根を寄せる。
(おかしいな)
庭などはそのままに屋敷だけが消えてしまったのは、
誤作動の可能性を疑ったアルヴァは一度自宅に戻り、レイチェルから預かった
「アン・オブスゥルヴァースィオン」
マジック・エッグを手にして呪文を唱えると、卵の中の世界が宙に映し出された。そこにキリルの顔が現れたので、驚いたアルヴァは反射的に上体を引く。卵の中ではキリルが魔法を使っていて、彼が出現させた紅蓮の炎が
(何故、マジスターが……)
厄介事の予感に顔をしかめたアルヴァの目に、キリルに加えてオリヴァーの姿が飛び込んで来た。さらにはマシェル=ヴィンスと思しき赤髪の少年までがその場にいて、何故か一人だけ血だらけになっている彼の異様さにも目を奪われる。何がどうなっているのか分からなかったが、そのままにしておくわけにもいかなかったため、とにかく屋敷を元に戻そうと考えたアルヴァはマジック・エッグに手を掲げた。
竜巻が発生した部屋を後にすると、次の部屋は火の魔法に対する試練だった。その次は水の魔法に対する試練で、この二つはオリヴァーとマシェルが難なくクリアした。この試練の館は葵とクレアのために造られたものなので、エリート達には楽に乗り越えられてしまう代物だったようだ。
「次は土か」
四つ目の部屋に入るなりマシェルが独白を零したのは、すでに『試練』が目の前にあったからだ。土の試練は
「オリヴァー、やるか?」
「そうだな……」
マシェルに問いかけられたオリヴァーも気持ちは同じなようで、視線を泳がせた彼はキリルに目を留めた。
「キル、やってみないか?」
「くだらねぇ」
オリヴァーからの誘いをにべもなく一蹴すると、キリルはそっぽを向いた。苦笑したオリヴァーは次に、葵とクレアを見る。
「相手は大して強くないし、やってみるか?」
オリヴァーはサポートすることを約束してくれたが、答えに困った葵はクレアを仰いだ。クレアも即答することをせず、葵の視線を受け止めた後、口火を切る。
「うちはエクランド様の闘い方を見たいなぁ。アオイもそう思うやろ?」
「え? あ、うん」
唐突に同意を求められた葵は深く考えることなく、口裏を合わせた。葵がクレアの意見に賛同したことで、そっぽを向いていたキリルの視線がこちらを向く。
「見たいのかよ?」
その問いは葵にだけ向けられたもので、困ってしまった葵はとりあえず頷いておいた。するとキリルはため息をつき、仕方がなさそうな雰囲気を醸し出しながらゴーレムへと向かって行く。キリルがこちらに背を向けたことを機に、葵は非難のまなざしをクレアに注いだ。
「何であんなこと言ったの?」
「キリルが魔法
「それは、まあ……」
平素は魔力を抑えているオリヴァーやマシェルと違って、キリルは普段から魔力を垂れ流しにしている。その放出量から見ても、キリルが凄まじい力を秘めていることは窺える。その彼が本格的に魔法を使ったらどういうことになるのか。確かに興味があると思ってしまった葵には、もうクレアを責めることは出来なかった。
「あの程度の相手なら一瞬で終わっちまうから、しっかり見ておいた方がいいぜ」
傍で葵とクレアの話を聞いていたオリヴァーが笑いながら容喙してくる。その意を受けた葵とクレアが急いで視線を移すと、キリルはすでに自身の体よりも巨大な炎を掌の上に出現させていた。それはゴーレムを丸々飲み込んでしまいそうな大きさで、葵とクレアはあ然とする。
「ちなみにキルは、あの程度の炎だったら基礎呪文で出せる。普段は魔力をそのまま炎に変えることが多いから、この魔法を見られるのはレアだぜ」
オリヴァーの言う『基礎呪文』とは火の属性魔法を使う際に最初に習う、ル=フュという呪文のことである。土はラ=ソル、水はリ=オ、風はレ=ヴァント。この基礎呪文に様々な付加をすることで、自然属性の魔法は使用範囲が広がっていくのだ。
半円形でドロドロしているゴーレムが長い腕を形成して攻撃を加えようとしたところ、キリルは手にしていた巨大な炎を無造作に放った。『捨てる』という表現がピタリと当て嵌まりそうな仕種からも、彼がちっとも本気を出していないことが見て取れる。しかし業火に包まれたゴーレムはあっという間に水分を失い、干涸びて崩れ落ちていった。それはオリヴァーの言っていた通り、まさに一瞬の出来事だった。
「相変わらず、エクランドの『炎』はすげぇな」
戻って来たキリルに、マシェルが賞賛の声をかける。しかしキリルは「当然だ」という顔をしていて、相手にしなかった。
「ちゃんと見たか?」
「見てたでぇ。おたく、すごいなぁ」
「てめぇじゃねーよ」
「はいはい。ったく、アイソないなぁ」
キリルに邪険にされても、クレアは余裕の表情で隣にいる葵へと視線を流す。キリルだけでなく、その場の視線を一手に集めてしまったため、葵は居心地が悪い思いをしながら目を伏せた。するとキリルが、その態度は何だと怒り出す。
「お前が見たいっつーからやってやったんだろうが!」
キリルに怒鳴られた刹那、葵は大きく体を震わせた。瞬間的に「殴られる」と思ったことに葵自身が驚いていると、彼女の過敏な反応にキリルも怒色を失って黙り込む。その場を気まずい沈黙が支配したので、オリヴァーが見兼ねた様子で口を挟んできた。
「あのな、アオイ……」
事態の収拾にかかろうとしたオリヴァーが口を開いた途端、一同が佇んでいた場所の床が唐突に消えた。それは何の前触れもなく起こった出来事で、支えを失った五人は闇の中へと吸い込まれて行く。しかし落下を始めてすぐ風の魔法を使ったクレアは、なんとか自力で地上へと戻ることが出来た。彼女が床に転がった一瞬後、床に空いた穴は何事もなかったかのように消え去ってしまう。間一髪だったと、クレアは額に浮かんだ冷や汗を拭った。
「大丈夫か?」
オリヴァーが手を差し伸べてきたので、床にへたりこんだままだったクレアはありがたくその手を取った。オリヴァーに引き上げてもらってから「大丈夫や」と答えた後、周囲を見回したクレアは眉をひそめる。
「アオイは?」
「それがさ、キルもいないんだよ」
オリヴァーの言う通り、マシェルの姿はあるのだが、葵とキリルの姿は見当たらなかった。どうやら葵とキリルだけ、脱出に失敗してしまったようだ。大丈夫かと思ったのはクレアだけではないようで、オリヴァーも口をつぐんだまま足下を見つめている。やがてマシェルが「キリルが一緒なら何とかなるだろ」と言ったが、それこそが心配の種だったクレアとオリヴァーには無言を貫くことしか出来なかった。
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