校舎一階の北辺にある保健室に辿り着くと、キリルは荷物のように肩に担いでいた葵をベッドに下ろした。その動作がそれまでの荒っぽさからは一転して丁重なものだったので、ベッドに腰かけた葵は妙な気分になりながらキリルを仰ぐ。
「あ、ありがと」
キリルは葵と目を合わせはしたが、礼に対する反応は特になかった。すぐに視線を外したキリルが窓際のデスクに陣取っているウサギの元へ向かって行ったので、葵は何となくその姿を目で追う。ウサギがベッドに近寄って来ると、クレアが眉根を寄せた。
「うち、アルを探してくるわ」
トリニスタン魔法学園アステルダム分校の表向きの校医は、ウサギである。生徒達の間ではそれがもう当たり前のこととされているが、編入生であるクレアの目にはウサギ=校医とは映らなかったようだ。アルヴァがこの場に姿を現すことが絶対にないと知っている葵は、保健室を出て行こうとするクレアを慌てて呼び止めた。
「大丈夫だから」
必死にそう呼びかけると、クレアは葵の態度に小首を傾げながらも戻って来た。代わりに、今度はオリヴァーが疑問を口にする。
「アル?」
マジスターはアルヴァ=アロースミスという名前は知っているが、それが葵とクレアの会話に出て来た『アル』という人物には結びつかなかったようだ。アルヴァのことは話題に上らせたくなかったため、葵はタイミング良く開いた扉にその場の意識を向かわせた。
「よ。お疲れ」
軽い口調で声を掛けながら保健室に入って来たのはマシェルだった。するとオリヴァーの関心がそちらに向いたので、葵は密かに胸を撫で下ろす。
「今までどこにいたんだ?」
「エーメリー卿とは対面し辛いから隠れてた」
「何で?」
「エーメリー卿は本校の講師もされてるからな。会ったらまず、オレがここにいる理由を説明しないといけなくなるだろ?」
「ああ……なるほどな」
オリヴァーは納得していたが、傍で話を聞いていた葵には何が『なるほど』なのかさっぱり分からなかった。それはきっとマシェルが今この場にいる理由を知れば解消する疑問で、いい機会かもしれないと思った葵は口を挟んでみる。
「マシェルって本校の生徒なんでしょ?」
「そうだぜ?」
「本校の生徒って滅多に外に出られないって聞いたんだけど、何でマシェルは出られたの?」
「簡単に言えば、特別な許可をもらったからだ」
マシェルの説明は簡略なもので、疑問が解決しなかった葵は眉根を寄せた。そこでふと、何かを思いついたかのような様子でオリヴァーが容喙してくる。
「アオイとクレアに聞きたいんだけどさ、最近ウィルを見かけたか?」
「ウィル?」
「そういえば、最近見てへんなぁ」
葵とクレアが同時に首をひねると、問いかけを口にしたオリヴァーは「やっぱりそうか」と独白を零した。彼はその後、マシェルがウィルを探すためにアステルダム分校に来ているのだと説明を加えてくれる。マシェルを初めて見かけた時の光景が脳裏に蘇った葵とクレアは、ウィルが何か悪さをしたのだろうと妙な納得をしてしまった。
「で、キリル。お嬢さん達にあのことは話したのか?」
「あ、言ってねぇ」
マシェルから唐突に話を振られたキリルは『しまった』という表情を作ると、すぐさま葵を振り返った。
「城、行くぞ」
「は?」
「そんな誘い方があるかよ」
明らかに言葉足らずなキリルの誘いに葵は呆気に取られ、マシェルは呆れた顔をした。クレアが知らないのは当然のことだが、どうやらオリヴァーも話を聞かされていなかったようで、眉をひそめている。
「城ってどこのだ?」
「オロール城」
「へぇ、オロール城」
有名な城なのか、その名を聞いただけでオリヴァーは納得した。しかし葵とクレアにとっては全てが寝耳に水で、わけが分からない。
「うちらにも分かるように説明せんかい」
「ああ、そうだったな」
クレアが抗議をすると、マシェルは「悪い」と言ってから葵とクレアに向き直った。
「あんた達の慰労会をその城でやろうって話だ」
「いろうかい?」
耳慣れない単語に葵が首を傾げていると、オリヴァーが「要するに試験お疲れさんの会」なのだと説明を加えてくれた。事情が分かったところで、葵とクレアは改めて顔を見合わせる。
「どないする?」
「うーん……」
クレアは葵の返答次第では誘いに乗ってもいいと思っているようだったが、葵は難しい表情をして考えを巡らせた。こういう場合はアルヴァに可否を決めてもらうのが最良の選択なのだが、それをしようとした際に一度、キリルの機嫌を損ねたことがある。その流れでオリヴァーあたりからアルヴァに対しての質問を投げかけられてしまうのは、非常に具合が悪いのだ。
どうしようかと思い悩みながら視線を泳がせた葵は、デスクの上に陣取っている『保健室の主』に目を留めた。このウサギはアルヴァの代理人で、保健室で起こった出来事を余すところなく彼に伝えている。そのウサギがマジスターからの提案に対して何もアクションを起こさないということは、アルヴァが「問題ない」と言っているのも同じなのではないか。そう判断した葵は、ちょうどキリルに話があったこともあり、答えを待っているマジスター達に了承を伝えた。
「体調は平気なんか?」
「うん。大丈夫」
「せやったら、いったん着替えに戻ろうや」
試験に臨んだ葵とクレアはトリニスタン魔法学園の制服である白いローブを纏っているのだが、これが激しい試合の痕跡によって薄汚れている。葵がクレアの提案に賛成すると、マシェルは何故か魔法書を取り出した。彼はそこから抜き出したとある魔法陣を、今度は白いカードに写し取る。そしてそれを、クレアに手渡した。
「じゃ、オレ達は先に行ってるぜ」
「ほな、また後でな」
クレアが暗黙の了解といった感じで別れを告げると、マシェル・オリヴァー・キリルの三人は転移魔法によって保健室を後にした。二人きりになった後、葵は改めてクレアが手にしているカードに視線を移す。
「それ、何?」
「転移先の魔法陣を封じたもんや。転移魔法っちゅーのは行き先の魔法陣が分かってれば移動できるもんらしいで」
「ああ……なるほど」
以前にも似たような光景を目にしていたことを思い出した葵はクレアに頷いて見せた。クレアが手にしているカードは、夜会へ行った時の招待状と同じ役割を果たすのだろう。
「ほな、うちらも行くで」
「私、一回アルと会ってから行くわ」
「さよか。ほな、後でな」
クレアが転移魔法で姿を消すと、葵は事後報告のために『アルヴァの部屋』を訪れることにした。この部屋へ行くにはいったん保健室を出て、
「よく来たな。とは言え、この部屋の主は私ではないのだが」
にこやかな微笑みを浮かべて葵を迎えたのはロバートだった。葵が反射的に後ずさりをすると、ロバートは手にしていた卵を宙に放る。床と衝突して砕けた卵からアルヴァが姿を現したので、葵は再度ギョッとしてしまった。
「……ロバート」
床に片膝をついているアルヴァは何故かボロボロで、彼が着用している白衣には溶かされたような跡まである。葵の位置からは背中しか見えないが、アルヴァの声は怒りに震えていた。しかし当のロバートは、アルヴァに怒りをぶつけられても怯むような様子はない。それどころかアルヴァの指定席であるデスクの椅子に腰を下ろし、悠然と脚を組みながら言葉を紡いだ。
「君ほどの者であっても脱出できなかったか。まあ、君を閉じ込めるためだけに考案したのだから無理もないが」
「どこまで腐ってるんだ!! ミヤジマに何もしなかっただろうな!?」
「それは私ではなく、君の後ろにいる本人に尋ねてみればいいのではないか?」
ロバートが指差したことで、頭に血が上っている様子のアルヴァはようやく葵の存在に気がついたようだった。ハッとしたような表情で振り向いたアルヴァに何と言って声をかけたらいいのか分からず、葵は曖昧な笑みを浮かべる。すると真顔に戻ったアルヴァに、とりあえず帰れと言われて追い出されてしまった。
(心配は、してくれてたんだ)
アルヴァは約束を守らなかったのではなく、守れない状況にあったのだ。ロバートに翻弄されて見たこともないくらいボロボロにされていたアルヴァが何だか不憫に思えて、葵は苦笑いを浮かべながら踵を返した。
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