オロール城の夜

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 マシェルが部屋を出て行った後、ベッドが置いてある奥の間へ移動した葵は大きくとられた窓辺で夜空を見上げていた。このところ空には重い雪雲が立ち込めていたが、今夜は晴れている。雲一つない夜空では白銀に輝いている二月とオーロラが共演していて、葵は滅多に見ることの出来ない風景に見入っていた。

(すごいなぁ)

 そのうちにペガサスらしきシルエットまで夜空に現れて、その光景はまさしくファンタジーの世界だ。夢のような体験だったが、そのうちに、一人の寂しさが沁みてくる。

(いつまで待ってればいいんだろう)

 マシェルに待っていろと言われたから待っているのだが、彼が戻って来るような気配はない。だが、忘れられているのではと葵が危ぶみ始めた頃、背後で扉が開く音がした。

 扉の音に反応して振り返ると、そこにいたのはマシェルではなくキリルだった。彼の姿を捉えた刹那、葵は条件反射で身構えてしまう。だがもう、そんな必要はないのだ。キリルが何故この場所へ来たのかは分からないが、彼に話のあった葵にとってはむしろ、この状況は好都合だった。

「あの……さぁ?」

 キリルが近付いて来たので話しかけたのだが、葵の言葉は最後まで紡がれることはなかった。いきなり腕を引かれて、手近にあったベッドに放り捨てられた葵はあ然とする。キングサイズのベッドは極上の柔らかさでもって応えてくれたのだが、それでも予期せぬ接近を果たせば、それなりに体への衝撃はあった。

「いたっ……」

 痛みに顔をしかめながら体を起こすと突然、口唇にキスが落ちてきた。せっかく起き上がった体が再びベッドに沈められて、キスがどんどん深くなっていく。何が起きているのか分からずに茫然としていた葵は、キリルの口唇が首筋に下がったところでゾクリとして我に返った。

「ちょ……やめ……」

 しどろもどろな言葉を発しながら、葵は必死で抵抗した。しかし押さえつけてくる力の方が強く、どれだけ暴れてもキリルの体を押し退けることが出来ない。そのうちに苛立った様子のキリルにシャツの胸元を破られて、その瞬間に、葵は本格的な恐怖を感じた。

(や……)

 間近に感じる他人の息遣いが、圧し掛かってくる体の重みが、素肌に触れる指が、トラウマとなっている出来事をフラッシュバックさせる。恐怖に支配された体はもう思うようにはならず、小刻みに震え出した。

(嫌、嫌だ、嫌だ!)

 そう叫んで拒絶したいのに、思いは言葉にならなかった。体も心も自由にならなくて、ただただ、おぞましさに涙があふれてくる。葵の涙がシーツを濡らした刹那、彼女が泣いていることに気がついたキリルはハッとした様子で手を止めた。

「お、おい……?」

 困惑したキリルの顔は、もう涙で歪められて見えなかった。しかし声音から動揺が伝わってきて、相手も混乱していることを知った葵は少し冷静さを取り戻す。キリルが体を退けたので、急いで起き上がった葵は泣きながら彼をひっぱたいた。

 サイテーだと、罵ってやりたかった。だが、あまりの事に声が出なかったため、葵は無言でベッドを下りる。部屋を飛び出した後は言えなかった言葉を胸中で繰り返しながら、城内を疾走した。

(サイテー! サイテー、サイテー!!)

 悔しさに口唇を噛みしめながら廊下を走っていた葵は、角を曲がった所で何かに衝突してしまった。その衝撃は意外と激しく、障害物に跳ね返された葵は後方によろめく。そのまま倒れそうになった葵の体を、誰かの腕が支えた。

「ごめんな、アオイ。大丈夫だったか?」

「オリ、ヴァ……」

 葵が顔を上げて初めて、オリヴァーは彼女の惨状に気がついたようだった。ギョッとした表情を見せたオリヴァーは慌てて上着を脱ぎ、それを葵の肩に羽織らせる。オリヴァーは上背もあるし体つきもいいので、彼が貸してくれた上着は露わになってしまっている胸元をすっぽり覆い隠してくれた。

 上着を貸してくれた後、オリヴァーは葵を促して手近な部屋の中へと歩を進めた。そこはゲストルームになっていて、クローゼットに寄ったオリヴァーはそこからネグリジェを取り出して葵に差し出してくる。洗面所で着替えることにした葵はついでに、冷たい水で顔を洗った。

(うう……サイアク)

 腫れぼったくなった瞼やむくんだ顔も最悪だが、自分の言動にも嫌悪感が募る。キリルに襲われた時、どうして怯えて泣くことしか出来なかったのだろう。去り際にビンタは一発かましてきたが、それだけでは全然足りない。あんな男はもっと、痛い目に遭うべきなのだ。

「アオイ? 着替え、終わったか?」

 軽いノックの音と共にオリヴァーの声が聞こえてきたので、鏡に映った自分を睨んでいた葵はハッとしてその場を離れた。洗面所を出るとすぐの所にオリヴァーがいたので、葵はまず手にしている上着を返すことにした。

「これ、ありがとう」

 大したことではないというように頷いて見せると、オリヴァーは葵をテーブル席に誘った。そこにはすでに二人分の紅茶が置かれていて、ティーカップからは湯気が立ち上っている。この城のメイドが淹れたのだという紅茶からはほんのりミントのような香りが漂っていて、一口含むと胸がスッとした。

「聞くのが怖いけど、訊かないわけにもいかないよな?」

 葵がティーカップをソーサーに戻すのを待って、オリヴァーが本題を口にした。彼の複雑な胸中をよく表している物言いに、葵は苦笑いを浮かべる。

「もう、大体分かってるんでしょ?」

「ってことは、やっぱりキルの仕業なのか……」

「腹立つ。何で男って……」

 憤りを口にしかけた葵はそこで言葉を止めた。今回のキリルのことだけでなく、葵はこれまでにも幾度か望まぬ男女関係を強要されたことがある。だがオリヴァーのように、同じ『男』でも彼らとはまったく違ったタイプの異性もいるのだ。一緒くたにしては失礼だと思った葵は口をつぐんだのだが、オリヴァーは苦笑いを浮かべながら言葉の先を続けた。

「どうして男は身勝手なのか?」

「いや、オリヴァーは違うと思ってるよ?」

「気、遣わなくていいって」

「ホントなのに……」

 この世界に来て、かなり早い段階から、葵はオリヴァーの人の好さに触れてきた。彼は他のマジスターとは違って、赤の他人でも気遣える優しさを持っているのである。そうしたオリヴァーのイメージは身勝手からは程遠いものだったが、本人はそう思っていないらしい。葵の本音をさらりと受け流すと、オリヴァーは話を元に戻した。

「ごめんな。俺の注意不足だ」

「何でオリヴァーが謝るの? 関係、ないじゃん」

「マシェルとキルが何かコソコソしてるなとは思ってたんだよ。俺がもう少し注意しておけば、たぶん防げたことだからな」

 まさかキリルがそんな行動に出るとは思わなかったと、オリヴァーは苦々しい表情で言う。しかし話を聞いても、葵には彼が悪いとは思えなかった。それどころか友人のために自分が悪いのだと言ってのける潔さに感動すら覚える。

「オリヴァーってホンっト、いい人だよね」

 どうして彼がマジスターの一員なのかと疑問に思うくらい、オリヴァーの人の好さは桁外れだ。生まれ育った世界でも、葵は彼ほど『いい人』だと思う者に出会ったことがなかった。しかしオリヴァーはやはり、葵の褒め言葉を苦笑で躱す。

「俺のことはいいから。少しだけ弁解、聞いてくれるか?」

 オリヴァーの性格を考えれば、誰の弁解なのかと尋ねなくても答えは明らかだ。これがキリル本人からの言い訳なら聞く耳も持たなかっただろうが、相手がオリヴァーではそういうわけにもいかない。そのため葵はむっつりと黙り込みはしたが、申し出には頷いて見せた。






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