「アオイ!?」
それまで普通に会話をしていた葵が唐突に倒れこんだため、驚いたオリヴァーは慌てて席を立った。
実は葵が突然倒れこんだのには、ある事情があった。メイドが運んで来た紅茶に、リラクゼーション用の魔法薬が数滴垂らされていたのである。その量はもちろん、人間を昏倒させるほどではない。だが魔法薬に耐性のない葵には十分な量で、じわじわと体に広がっていった薬が昏倒という結果を招いたのだった。しかし、そんな事情を知らないオリヴァーは助け起こした葵から規則正しい寝息が聞こえてきたことに、安堵と呆れの息を吐いた。
(よっぽど疲れてたんだな)
葵は先程、キリルによってひどい目に遭わされたばかりである。男に襲われたという事実はおそらく、男が考える以上に彼女にとってはショックなものだったのだろう。それが今は、自分の腕の中で安らかな寝息を立てている。この現状を、オリヴァーは複雑だと思った。『男』として見られないことには慣れているものの、さすがにこれは気を許しすぎだろう。
正体をなくした葵を軽々と抱き上げたオリヴァーは、あまり彼女の顔を見ないようにしながら奥の部屋に移動した。そこにはキングサイズのベッドが置いてあるので、葵の体を優しく横たえる。寝姿を整えるために動いても、葵に目を覚ますような様子はなかった。
(……キルもバカだな)
ベッドの脇で葵の寝顔を見ていると、そんな呟きが胸中で生まれた。こちらが接し方を間違えなければ、女の子は可愛い顔を見せてくれる。優しく接すれば笑顔が返ってくるし、強引に事を進めようとすれば拒絶されてしまうのは当然のことだ。キリルはまだ、本当の自分で葵と触れ合ったことがない。だから彼は、彼女のこんなに可愛い一面を知らないのだ。
柔らかな笑みを浮かべたオリヴァーは、葵の額に口唇を寄せた。それは自分だけしか知らない密やかな出来事になるはずだったのだが、顔を上げた瞬間にオリヴァーは凍りつく。ベッドの向こう側にある、大きくとられた窓の外。闇に彩られているその場所に、何故かハルの姿があった。
オリヴァーが動けずにいると、ハルは窓を開けて室内に進入して来た。気付いているのかいないのか、ベッドの葵には目も留めず、ハルはオリヴァーの傍へ寄る。そして真っ白になっているオリヴァーに、無表情のまま声をかけてきた。
「ここ、使うの?」
「……え?」
発言の意図が解らなかったが、ハルはそれ以上の説明を加えようとはしない。その言動があまりにもいつも通りすぎて、オリヴァーを現実に引き戻した。詳しく話を聞いてみると、ハルは寝床を探してウロウロしていたらしい。ここにもベッドを求めて入って来たようで、彼の視線はそちらに傾く。そこに先客の姿を認めると、ハルはソファーでくつろぎだした。今にも瞼が落ちそうだったので、オリヴァーは嘆息しながら傍に寄る。
「ハル、ここで寝るな」
「眠い。もうここでいいよ」
「ダメだって。ほら、来い」
今にも寝入ってしまいそうなハルを強引に促し、オリヴァーは彼と共に葵が寝ている部屋を後にした。それから改めて、探りを入れてみる。
「さっき、何か見たか?」
問いかけに、ハルは何も答えなかった。何も見ていないのなら訊き返すことくらいはしてきそうなものなので、沈黙は肯定の意だろう。先程の光景をしっかり目撃されていたのだと知り、オリヴァーはがっくりと肩を落とした。呑気にあくびをしているハルからは追及しようという気配は感じられなかったが、見られてしまったという事実は変えられない。ので、釘だけ刺しておくことにした。
「キルには言うなよ?」
ハルからは明確な返事がなかったが、関心は薄そうだ。また彼が告げ口をするようなタイプではないと知っていたため、そこで話を切り上げたオリヴァーはハルを促して廊下を歩き出した。
外では大粒の雪が深々と降りしきっている夜、アルヴァ=アロースミスはトリニスタン魔法学園アステルダム分校にある窓のない部屋に帰って来た。厚手のコートを着込んでいた彼はそれを白衣に替えると、ネクタイを緩めながら壁際のデスクに腰を落ち着ける。引き出しからレリエという
「久しぶりだな」
『そう? 僕はそんな感じしないけど』
涼しい顔でアルヴァの皮肉を躱した少年の名はウィル=ヴィンス。彼はこの学園の生徒で、アステルダム分校のマジスターの一員だ。そしてアルヴァにとっては、ある特別な意味を持つ集団の仲間でもあった。
「マシェル=ヴィンスがアステルダムに来ている」
アルヴァがさっそく本題を口にすると、ウィルは真顔で「そう」とだけ言った。特に驚いたような様子も見られないことから、彼はすでにこの事実を知っていたことが窺える。それならばやはり、ウィルが学園にいないこととマシェルの来訪は関係があるのだ。
「マシェル=ヴィンスは何故、ここへ来た?」
『知らないよ。本人に聞けば?』
「いや、君には心当たりがあるはずだ」
そう断定したアルヴァは、マシェルの身に起っている変化について語った。それが
『へぇ。あいつ、そんなことになってるんだ?』
「サン・セルマンを交わしたのは君だ。それなのに何故、マシェル=ヴィンスにその影響が出ている?」
双子だからという理由だけでは片付けられない。アルヴァがそう付け加えると、ウィルは微笑みを浮かべたまま言葉を続けた。
『サン・セルマンを交わしたのがあいつだからじゃないの?』
「バカな。彼は魔法陣の中にいなかった」
サン・セルマンは儀式を伴う誓いで、その誓約は特別な魔法陣の内部で行われる。そこにマシェルの姿がなかった以上、彼は誓約とは無関係なはずなのだ。そんなことはウィルも承知の上だろうが、それでも彼は不敵な笑みを崩さなかった。どうやらアルヴァの疑問に対する答えを、彼は用意しているらしい。
「ウィル=ヴィンス、一つ忠告しておこう。沈黙は君のためにならない。その口を割らせる方法など、いくらでもあるのだからね」
『あなたにそれが出来るの?』
「……どういう、意味だ?」
『まあ、いいよ。教えてあげる』
挑発的な態度をあっさり崩すと、ウィルはサン・セルマンを歪めた方法を明かした。彼の話によれば儀式に使用した血液が自身のものではなく、マシェルのものだったというのだ。しかし実際には、サン・セルマンはウィルの名によって成り立っている。その矛盾をアルヴァが指摘すると、ウィルはさらなる説明を加えた。
『もちろん、ただの血液じゃないよ。僕のものに見せかけるためにちゃんと加工を施してたからね』
この時点で信じられない話ではあるが、双子ならば可能かもしれない。少なくとも普通の兄弟よりは偽装の成功率が高いだろう。そう思ったアルヴァはとりあえず血液の件については受け入れることにして、次なる疑問をウィルに投げかけた。
「しかし、誓約の時に君は自身の名を口にしたはずだ」
『ああ、あれね。さすがにあなたが見ている前で別の名前を口にすることは出来なかったけど、魔法陣に記された名前には細工させてもらったよ』
「……何だって?」
サン・セルマン用の魔法陣には確かに、予め誓約を交わす者の名前が記されている。しかし魔法陣はアルヴァが用意したもので、ウィルが儀式中に細工をしていれば気がつかなかったはずがない。加えて彼は、たった二度しかサン・セルマン用の魔法陣を目にしていないのだ。どこに誓約者の名が記されているのかなど細かくチェックしている余裕はなかったと思われるのだが、ウィルはアルヴァの考えを嘲るかのように朗らかな笑みを浮かべて見せた。
『僕を手駒にしようなんて、甘いよ』
「なんてバカなことを。マシェル=ヴィンスが不完全な誓約に悩まされているように、サン・セルマンを歪めた君もただでは済まないぞ」
『道を外れてみなければ分からないことがあるって言ったのはあなただよ。それに今のところ、僕の方には悪影響なんて出てないしね』
その一言で、アルヴァは確信した。ウィルが誓約を歪めたのはサン・セルマンの修正を行った二度目の儀式の時だ。しかし儀式の様子を思い返してみても、おかしな点などなかったように思う。それはウィルが、それほど巧妙に儀式を歪めて見せたということに他ならない。
『僕は自由だ。これがどういうことなのか、分かるよね? アルヴァ=アロースミスさん?』
ウィルのあまりの無謀さに呆れていたアルヴァは、教えていない名を呼ばれたことで真顔に戻った。
「僕を脅迫しようっていうのか?」
『まさか。ただちょっと、協力してもらいたいだけだよ』
「協力?」
『マシェルがそこにいると学園に帰れないんだ。だから、追い返してよ』
自分の要求だけを一方的に告げると、ウィルは有無を言わせぬ調子で通信を打ち切った。ウィルの姿が見えなくなってからもアルヴァはしばらく動かなかったが、やがて、彼はレリエに手を伸ばす。
「久しぶりだね。そう。悪いんだけど、今から来てくれる?」
とある人物と映像を伴わない音声だけの会話をした後、アルヴァは用済みのレリエを引き出しにしまった。その後、椅子に背を預けて目を閉じ、深く息を吐き出す。
ウィルはもともと、不穏な人物ではあった。それでも彼を手駒としていたのは、それだけの価値が彼にあると思っていたからだ。だが脅迫までされた今、彼の価値は無に等しいものとなった。
(これまで、だな)
ウィルを切り捨てることに決めたアルヴァは目を開けて席を立ち、転移魔法によってやって来た者達を素顔で出迎えた。
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