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 唐突な衝撃が体を襲って、葵は驚きながら目を覚ました。すぐに体を起こして顔を触ってみたのは、その場所が痛かったからだ。泣きそうになりながらしばらく痛みに耐えた後、はたと我に返った葵は周囲に視線を走らせる。青味がかった月の光に照らされている風景は屋外のもので、振り返ってみると、背後には氷で出来た十字架が地に突き刺さっていた。

 周囲の状況を確かめた葵は次に、自身の手首へと視線を落とした。氷の鎖で拘束されていた手首にはしっかりと傷跡が残っていたが、見た目ほどの痛みはない。どうやら鎖が外れて体が傾き、そのまま顔面から落下したというのが『衝撃』の真相のようだった。

 自分が置かれている状況を把握した葵は慌てて立ち上がり、地に描かれている魔法陣を消そうと試みた。しかしそれは砂場に描かれたラクガキや体育の時に用いられる石灰のラインとは違って、足でこすっても微動だにしない。淡い光を放っている線に触れてみても指に何もつかなかったので、こすって消すのは無理なようだ。

(魔法陣を消す魔法、とかがあるのかな……)

 仮にそうした手段があるのだとしても、今の葵には知る術もない。体が自由になって少し希望が見えた後だけに魔法陣を消せないショックは大きく、抵抗する気力を奪われた葵は重い体を地に横たえた。

(もっと勉強、しておけば良かった)

 葵は今、独力で魔法が使える。そのため魔法陣さえ何とか出来れば、ここから脱出する方法はいくらでもあるのだ。だからこそ、勉強不足が悔やまれた。

 はあ、と重い息を吐き出した葵は体を仰向けにし、瞼を下ろした。幸いなことに寒さは感じないが、このままでは飢え死にしてしまう。

(こういう時は下手に動かない方がいいのかな)

 自力での脱出が不可能なら、助けを待つしかない。だが、葵がここにいるということは誰も知らないのだ。助けを待つにしても長期戦になることは明らかで、それならば余計な体力を使わない方がいいのかもしれない。だったら寝るしかないと思った葵は硬い地面に辟易しつつ寝返りを打った。すると太腿の辺りに違和感があったので、再び体を仰向けにしてスカートのポケットを探ってみる。そこから出てきた携帯電話を、葵はしばらく凝視した。

 いくら待っても、助けは来ないかもしれない。助けが来なければこんな異世界の果てのような場所で、一人寂しく人生に幕を下ろすことになるのだ。そんなことになってしまう前にせめて一言でも伝えたいと思った葵は、携帯電話を操作してから耳元に運んだ。しかしコール音は、聞こえてこない。それでも諦めきれなくて携帯電話を耳に押し付けたままでいると、やがて懐かしい声が鼓膜を震わせた。

『……もしもし?』

 強い警戒感と恐れを含んだ声は、母親のものだった。耳慣れたその声を聞いた刹那、涙腺が壊れて涙が溢れる。

「お母さん……」

『……葵? 葵、なの?』

 電話越しでは頷くことに意味はないのだと、葵は涙を拭ってから気がついた。その頃には母親も泣き出していて、奇跡的なチャンスなのに会話が成立しない。なんとか涙を止めようと試みてみると、そのうちに父親の声が聞こえてきた。懐かしい我が家の居間で、電話を替わったらしい。

「……うん、元気。ちゃんと食べてる」

 父親の方はわりと冷静で、葵は問いかけられるままに話を続けた。しばらく葵の様子を確認する会話を続けた後、父親は少し間を置いてから「帰ってきなさい」と言う。その一言が心を揺さぶって、また涙が溢れた。

「帰る。絶対、絶対に帰る。だから、待ってて」

 今は帰れないという事情を汲んでくれたのか、しばらくの沈黙の後、父親は「分かった」とだけ言って話を終わらせた。通話を終えた葵は携帯電話をポケットに戻し、泣いたせいで腫れぼったい瞼を下ろす。目を閉じると我が家の風景が蘇って、すぐそこに両親がいるような気がした。

(帰る……絶対に)

 両親だけでなく友人とも、同じ約束を交わした。だから絶対に、葵は彼らの元へ帰らなければならないのだ。不遇を嘆いている暇も、絶望している余裕もない。それならば何が出来るかと考えた葵は、世界を感じて耳を澄ましてみることにした。

 葵の体には今、この世界の調和を護る者の力が宿っている。魔法陣の内側は閉ざされた世界だが、薄壁を隔てたすぐそこには自然な姿の世界があるのだ。一つの世界の内なのだからそれはきっと、葵が越えてきた異世界の壁よりは厚くないだろう。

 しばらく身動ぎせずにいると、やがて不思議なことが起こった。背中を預けていた大地の硬い感触が消えて、自らの重さも感じなくなったのだ。手足を動かそうとしてみても、まるで溶けてなくなってしまったかのように感覚がない。自分の体がどうなってしまったのかは確かめようがなかったが、少なくとも目は開いているらしく、瞳には雲一つない夜空が映っていた。

(……あれ?)

 何気なく見ていたはずの夜空に違和感を覚えた葵は、すぐにその正体に気がついた。絶大な存在感でもって夜を支配している二つの月が消えていて、空が闇に包まれているのだ。そのせいで、普段は月明かりに隠れて見ることの出来ない星が、よく見える。一つ一つが小さな輝きである星は夜空に散った砕氷のようだったが、それらが集って川のようになっている場所もあった。

(天の川……)

 小学生の時、林間学校で訪れた田舎で初めて見た、無数の星を思い出す。いま目にしている眺めはそう、二月が浮かぶ異世界のものというより葵が生まれ育った世界の星空に近いのだ。

 ここは、どこなのだろう。そう思い始めた頃には風が吹いていた。輪郭を取り戻した体が受ける風は柔らかく、髪の毛やスカートの裾を揺らしている。どこからか花の香りが漂ってきて、気がつけば様々な花が咲き乱れている平原に佇んでいた。鳥が歌いながら空を飛び、動物がのんびりと草を食み、昆虫が花の蜜を運んでいる。ふわふわと漂うような感覚で穏やかな風景を眺めていた葵は、やがて前方から押し寄せてきた波に呑まれた。

 陸、海、空。様々な場所の様々な光景が目の前に現れては、消えて行く。まるで、自分が世界に溶けているようだ。ぼんやりしている頭の片隅でそんなことを考えた刹那、それまで流れるようだった世界が不意に時を止める。次に気がついた時、葵は闇の中に立っていた。足元には光を放つ道が出現していて、その一本道の先には古ぼけた洋館が見える。それ自体が淡い光を放っている館は闇の中にぼんやりと浮かび上がっているものの、恐ろしいような感じはしなかった。

 道の起点で立ち尽くしていた葵はふと、何かの気配を感じて顔を傾けた。背後から葵を追い越して行ったのは杖をついている白髪の老翁で、彼はゆっくりと館を目指して歩いて行く。その人物が道半ばで振り返った時、葵は息を呑んだ。目が合った瞬間、どこかで会ったことがあると思ったからだ。

(誰……?)

 口元に白い髭をたくわえた老翁は、葵の祖父とは違う。けれど彼のまなざしには、孫を慈しむかのような優しさが含まれていた。そのうちに、もしかして……という思いが脳裏をよぎり、葵は口唇を開く。

「カエルの……おじーさん?」

 老人は口を開くことはしなかったが、葵の考えを肯定するかのように優しげな微笑みを浮かべた。その後、彼は再びゆっくりと、一本道を辿って行く。直感的にこれが別れになると察した葵は瞬きもせず、老翁の背中が少しずつ遠ざかって行くのを見つめていた。






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