厚い雲で覆われた空から牡丹雪が降りしきる夜更けに、アルヴァはいつものように、保健室に酷似した窓のない『部屋』で壁際に置かれたデスクに向かっていた。彼はこの部屋で様々な研究をしているのだが、今宵の仕事は日中に起こった事件の把握だった。
本日の昼頃、葵が行方不明になっているという事実が発覚した。結果的に彼女が無事だったのはいいとして、問題なのはこの件に関わった者達がどういった行動を取ったかだ。その情報を集めることによって、今後どのような事が起こり得るか予想することが出来る。そして対策を、考えなければならないのだ。
(ヴィンスを動かしてしまったか……)
書類化された報告書に目を通した後、アルヴァは眉間に深いシワを刻んだ。葵を探すためにマシェルが実家の力を借りたという情報は、アルヴァが恐れていた事態の一つだった。領地を持たない公爵家であるヴィンスは様々な情報を王家に献上していて、ひとたび目をつけられてしまうと始末に負えない。だからアルヴァは実家の力を使って葵のことを調べようとしていたウィルを牽制し、マシェルに深入りされないよう身分を明かさずに誓約を解除する手順を踏んだのだ。しかし、その密やかな努力も今回の一件で無駄になってしまった。ヴィンスの動きには今後、今まで以上の注意を払うことになるだろう。
ヴィンスの動きの他に、アルヴァは他のマジスター達の動向も調べ上げていた。この件に積極的に関わったマジスターはオリヴァーだけで、最後まで保健室に残って話をしていたキリルとハルはその後、学園から姿を消している。ヴィンスを動かしてしまった上にエクランド公爵家にまで出しゃばられては大事になりかねなかったが、どうやらエクランドの方には動きがないようだった。
しばらく書面を眺めていると背後に来訪者の気配が生じたので、アルヴァは掛けていた眼鏡を顔から引き抜いた。デスクの引き出しに眼鏡と共に書類をしまいこみ、そこから別の物を取り出して引き出しを閉める。手にした小さな試験管をいったん机の上に置くと、アルヴァは立ち上がって白衣を脱いだ。
「それが、例の
来訪者である隻眼の少年の視線は、白衣の代わりに黒いマントを羽織ったアルヴァを通り越し、デスクの上に向けられている。普段は身につけることのない
「そろそろ行こう」
「はい」
短く返事をすると、ユーリーは懐から薔薇が刻印されているカードを取り出した。そのカードを手にして場所を指定しない転移の呪文を唱えると、
「司式を務めるアルヴァ=アロースミスの名において
開祭を告げるアルヴァの声が厳かに響き渡ると、闇の中に無色の薔薇が浮かび上がった。蝋燭のようにほんのりと闇を退けている花に、アルヴァは一つ一つ炎を宿していく。炎色に包まれた薔薇は燃え尽きることなく、そのまま明かりとして室内を照らし出した。月明かりには遠く及ばない仄かな明かりが浮かび上がらせたのは、一様に黒いマントを纏っている十一の人影。老若男女を問わず集った者達の中には、ユーリーと共にアルヴァの佑けとなってくれたスミンの姿もあった。
「こうして一同に会するのは久しぶりですねぇ」
「して、今宵はどのような趣向なのかな?」
雑談する者、さっそく問いを投げかけてくる者など反応は様々だったが、誰もが久しぶりのレユニオンに浮かれていた。そんな同胞達を鎮めるため、アルヴァは親指と人差し指で挟んだ試験管を彼らに掲げて見せる。粘性の強い透明な液体で満たされた試験管の内部には種が一つ、浮いていた。
「人為的に生み出した“茨の種”だ。今夜はこれが芽吹くかどうか、実験をしたいと思う」
世界には様々な理由によって封じられた禁呪と呼ばれる魔法が存在する。その封印を解くことが出来れば禁断の魔法が蘇るのだが、もしも封印の解除に失敗した場合、理を侵した者には厳罰が与えられる。罪人の体は茨に巻きつかれ、肉体的にも精神的にも苦しみ続けることになるのだ。
禁を犯した者に与えられる罰が何故茨の形状でもって表れるのか、その理由は判っていない。それは魔法の
“茨の種”という名称が持つ蠱惑的な響きに惑わされていない者は、この場には一人もいない。それが人体実験を意味していることが明白でも、警鐘を鳴らすような者もいなかった。同胞から向けられる好奇の視線が手元に注がれている中で、アルヴァはユーリーを振り返る。彼の意を受けたユーリーが指を鳴らすと、団員達の前に台座が出現した。白い巨石で造られたその台座の上には被験者の姿がある。
「レーヴ、トワ」
団員が台座の周囲に集まったのを確認してから、アルヴァは呪文を唱えた。被験者である赤い髪の少年は魔法薬によって眠らされていたのだが、覚醒の呼びかけに反応して瞼を持ち上げる。そのまま目を見開いた少年の顔を覗き込んだアルヴァは、そこでしばし動きを止めた。
赤髪の少年の名は、ウィル=ヴィンス。彼はアルヴァが校医を務めるトリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスターの一人だ。公爵家に生を受けた彼は、本来であればアルヴァ達のように被験者を見下ろす側の人間だった。しかし背徳の上に裏切りを重ねてしまったため、こうして台座の上で自由を奪われている。
「ささ、アルヴァ殿。始めてくだされ」
誰かが喜々としてアルヴァを促したことにより、ウィルの顔に驚きの色が浮かんだ。彼はおそらく、アルヴァが
(名前一つで僕を縛ろうなんて、浅はかな考えだったな)
確かにアルヴァは表舞台に立つことを嫌い、姉との繋がりを露わにしてしまう実名が公になることも好ましく思っていない。だがそれも、
魔法の
(君は、僕のことを甘いと言っていたな。でもね、本当に愚かなのは君の方だったんだよ)
ウィルが本当に愚かだったのはアルヴァを脅迫したことではない。ル・ノワールの正式なメンバーとなるまで待てなかったことだ。
ル・ノワールの正式な構成員となるには
まだウィルの裏切りが発覚する前、アルヴァは彼を、そろそろル・ノワールのメンバーに会わせてもいいと考えていた。目的が何であれ、あと少しだけ我慢が出来れば、彼はサン・セルマンの制約から解放されて自由になれたはずだったのだ。つまり、彼が危険を顧みずに行ったことは、全て無駄だったということになる。
「僕を出し抜こうなんてね、甘いんだよ」
冷徹に言い放ったアルヴァは指の力で試験管を割り、取り出された“茨の種”をウィルの胸元へ押しつけた。彼の上半身には着衣がなく、その華奢な体に種が呑み込まれていく様がありありと見える。黒いマントを纏った集団が固唾を呑んで変化を見守る中で、やがてウィルの体がビクリと跳ねた。
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