王女のコレクションハウスには、長い長い廊下がある。夜になって屋敷に戻された葵は真っ先にこの廊下を訪れ、そこに飾られているある物を見上げた。廊下の途中には小規模なホールになっている場所が幾つかあって、そこに王女が収拾した美術品が飾られているのだが、葵が今いる場所には巨大な水晶柱が置かれている。無論、ただの水晶ではない。内部に人間を閉じ込めている、特別なものだ。
透明度の高い水晶の中に保存されているのは、美しい面立ちをした金髪の青年。その瞳が青であることを葵は知っているのだが、水晶の中の青年は瞼を下ろしているので、今はその輝きを見ることが出来ない。張り裂けそうな胸に手を当てた葵は、その青年の名を胸中で呟いた。
(アル……)
アルヴァは
アルヴァが収監されたのは日中のことで、夜になってようやく彼の前に立つことが出来た葵は深く頭を垂れた。物言わぬ相手にそんなことをしても意味はないが、そうせずにはいられなかった。彼がこんなことになってしまったのは自分のせいなのだ。自分がハンターに捕まったりしなければ、アルヴァがこんな目に遭うことはなかった。やり場のない思いがしきりにそう訴えかけてきていたが、それが全てではないことも、葵は知っていた。
顔を上げて、もう一度じっくりとアルヴァを見ると、彼は微かに笑んでいるように見えた。あの局面でどうしてそんな表情が出来たのか、本当のところは分からない。だが彼は、自分が葵を召喚したのだと嘘を言ったのだ。その意図するところは、明らかだった。
(私のためでも、ユアンのためでもない)
アルヴァが本当に庇ったのは、彼の姉であるレイチェルだ。これでもしユアンが葵を召喚したのだと知られてしまえば、彼の家庭教師であるレイチェルにも咎が及ぶだろう。それならばまだ、肉親が独断で罪を犯したことにした方がいい。アルヴァはおそらく、そう考えたのだろう。
(だから絶対に裏切れないなんて言ってたんだ)
アルヴァは以前、自分だけは絶対に葵を裏切れないと言っていた。それはこういう事態に陥った時、進んで自分を犠牲に出来る者は他にはいないという意味だったのだろう。現に彼は、いとも容易く自分を犠牲にして見せた。ユアンを護り、ひいてはレイチェルを護るために。
「アル……一体、何があったの?」
レイチェルとの過去に初めて踏み込んだ発言をしてみても、アルヴァを閉じ込めている水晶は冷たい輝きを放っているだけだった。
大粒の雪が深々と降りしきる夜、クレアはマトと共に改めてアンダーソン伯爵邸に出向いた。今度はちゃんとアポイントメントを取ってあったので、正式な客人として屋敷の中に通される。案内されたのはまさにクレア達が乗り込んだ部屋だったのだが、キリルが壊した扉などはすでに修繕され、室内は何事もなかったかのように片付いていた。
「よく来たな」
クレアに向かって言うと、アンダーソンは執事を下がらせた。座るよう勧められたクレアは固い表情のまま、彼の向かいに腰を落ち着ける。アルヴァがどんな説明をしたのかは分からないが、あんな事があった後だというのに、アンダーソンはクレアに笑みを向けてきた。
「エレナによく、似ているな」
「……気安く呼ばんといてくれます?」
「ああ、これは失礼。つい、懐かしくてね」
過去を偲ぶ表情で言うと、アンダーソンは無属性魔法で紅茶を淹れた。使用人としての観点から、客人が来たら執事に紅茶を淹れさせるべきだと、クレアは胸中で毒づく。そんな批評をされているとは知らないアンダーソンは、穏やかな笑みを浮かべたまま話を続けた。
「エレナさんは息災か?」
「亡くなりましたわ」
「……そうか。お悔やみ申し上げる」
「……いまさら、」
「何か言ったかね?」
「いいえぇ。何でもありませんわ」
クレアが嫌味な姿勢を崩さないことに、アンダーソンは苦笑いを浮かべた。しかし彼は口をつぐまず、今度はクレアの母であるエレナとの思い出話を始める。海上を移動中に
「今は父君と暮らしているのかね?」
アンダーソンは自分を、娘だと認識していない。カチンときたクレアは頬を引きつらせ、肩に乗っているマトに手を伸ばした。
「諸々、説明したってや」
マトに声をかけながら立ち上がったクレアは身を乗り出して、マトの体をアンダーソンの肩に乗せた。マトは人語を喋ることは出来ないが、触れ合った相手と意思の疎通を図ることが出来る。それはクレアが言葉で説明するよりも素早く、アンダーソンに数々の情報を与えた。彼はしばらく目を白黒させていたが、やがて呆然としながらクレアを指差す。
「娘……? 私の?」
「はい、ごくろーさん」
アンダーソンからマトを取り戻すと、クレアは彼の体を再び自分の肩口に落ち着けさせた。一つ息をついてから、クレアは『父親』に目を向ける。
「おかんがエエ男やったって自慢しとったからどんなもんかと思っとったけど、見る目あらへんな。もうええわ」
「ま、待ってくれ!」
「もうええって言うとるやろ? 別に父親なんておらんでも生きていけるさかい、ホンマにもうええわ」
「待て!!」
クレアが背を向けると、アンダーソンは急いで扉に先回りした。出入口を塞がれてしまい、クレアは眉間にシワを寄せる。
「何や? 待ったらええことでもあるんか?」
「いや、その、落ち着いて話し合おう」
「落ち着きが必要なんはおたくだけや」
クレアがいたって冷静なので、アンダーソンは呻いた。それでも彼は、退こうとしない。クレアは嘆息してから口調を改めた。
「一つだけ、聞いておかなあかんことがあったわ」
「……何だ?」
「おたくが名前を貸したっちゅー、あのハンターのことやけどな。アンダーソンはええとしても、何でおかんの名前を騙っとったん?」
ムナクソ悪いとクレアが吐き捨てると、アンダーソンは真顔に戻った。少し間を置いてから、彼は一つだけ心当たりがあると言う。
「契約を交わした時、雑談でエレナの名前を出した。まさか、それを使われるとは……」
「雑談、なぁ。ちなみに、どんな話したらおかんの名前が出るもんなんや?」
「……一番に愛している者の名を、尋ねられたのだ」
「……何やて?」
アンダーソンの意外な答えに、クレアは一瞬面食らった。しかし次第に、憤りが湧いてくる。そんなバカな話があるかと、クレアはアンダーソンを怒鳴りつけた。
「せやったら何で、おたくは帰って来なかったんや! おかんはおたくのこと、ずっと待っとったんやで!」
「……すまない」
「はん! すまんで済んだら悪人は大助かりや!」
「その通りだ。今更何を言っても、それは言い訳に過ぎない」
だからこれは言い訳なのだと自嘲気味に言い、アンダーソンは坩堝島に帰らなかった理由を説明した。その話によると、クレアの母親と出会った当時は、アンダーソン伯爵家もそれなりの財力を有していたらしい。しかし彼が道楽で家を空けている間に当主が亡くなり、帰ってみると家が一気に傾いていたのだという。爵位を失うことは辛うじて免れたものの、その状態に持って行くには数年の月日が必要だった。エレナもすでに別の誰かと結ばれているかもしれないと思い、島に帰ることが出来なかったのだとアンダーソンは語った。
「だが私は、エレナを忘れることが出来なかった」
一度は結婚したものの、アンダーソンが別の女性を想っていることが露見して、離婚。その妻との間に子供はなく、現在は独りで暮らしているのだという。そしてクレアの存在は本当に知らなかったのだと、アンダーソンは何度も強調してみせた。縋りつくような目をしているアンダーソンを見て、クレアは深々と息を吐く。
「まさに『言い訳』やな。ダメ男の典型や」
「…………」
「アホらし。ちーっともエエ男なんかやあらへん」
「……そうだな。私は、ダメな人間だ」
「そう思うんやったら努力しぃや。うちはエエ男やないと父親とは認めへんで」
少し妥協を示してやると、アンダーソンは愚直に顔を輝かせた。本当にダメそうだと思ったクレアは呆れて肩を竦める。
「とりあえず、今日は帰るわ。また来るさかい、それまでに男を磨いておくんやな」
「分かった! 私は努力をするぞ!」
そこでようやくアンダーソンが扉の前から退いたので、クレアは一人で盛り上がっている父親を残して部屋を出た。
「ホンマ、しょーもない人やな。マトも知ってたんなら、ああいう男やって教えてぇな」
肩口に向かって話しかけると、マトは「昔は好青年だった」と返してきた。疑わしく思ったクレアは眉をひそめ、本当に同一人物なのかと再確認する。それでもマトが間違いないと言うので、クレアは仕方がないと嘆息しながら帰路を辿った。
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