アルヴァが座っていたはずの椅子を呆然と眺めていた葵は、何かが割れる音で我に返った。目線を下に向けてみると床でティーカップが割れていて、破片と紅茶が辺りに散らばっている。それは消えてしまう直前までアルヴァが手にしていたもので、葵は慌てて簡易ベッドから飛び下りた。
この世界には魔法というものが存在しているので、人間が瞬時にして姿を消すのも珍しいことではない。しかしアルヴァの消え方は、葵が今までに見てきた魔法とは種類が違っていた。何よりアルヴァは、呪文など唱えていなかったのだ。彼が消えてしまったのは、本当に魔法によるものなのだろうか。
「アル……?」
透明人間になったと仮定してみた葵は、アルヴァが座っていた椅子に手を伸ばした。もし本当に透明になっただけならば見えないだけでそこにいるはずなのだが、椅子には人間が座っているような感触はない。前屈みになっていた葵は上体を起こし、もう一度念入りに辺りを見回してみたのだが、やはり保健室の中には誰もいなかった。
(そうだ、ウサギは?)
アルヴァの代理であるウサギなら、何かを知っているかもしれない。そう思った葵は別室も覗いてみたのだが、ウサギの姿も忽然と消えていた。
(……何で?)
保健室の中にはもう探す場所がなく、混乱した葵は成す術なく立ち尽くした。やがてあることに思い至り、脱兎の勢いで保健室を後にする。緩いカーブを描いている廊下を疾走し、階段を二段飛ばしで昇り、辿り着いた場所は三年A一組の教室。勢い良く扉を開くとまだ授業中で、生徒達の視線が一斉に集ってきた。
「アオイ!?」
窓際で立ち上がった少女の元に、葵は脇目も振らずに駆け寄った。焦燥を露わにしている葵とは対照的に、クレア=ブルームフィールドは安堵の笑みで葵を迎える。
「おたく、帰って来れたんやなぁ」
「ちょっと、来て」
問答無用でクレアの手を引くと、葵は呆気に取られている生徒達の間を縫って廊下へと出た。そのままクレアと共に、校舎の五階にあるサンルームに赴く。周囲に人気がないことを確認してから、葵はクレアに縋りついた。
「クレア、アルが消えちゃったの!」
「ある?」
それは誰だとクレアが言うので、何を問われたのか分からなかった葵はポカンと口を開けた。からかっているような様子もなく、クレアは怪訝そうな面持ちで葵の返事を待っている。嫌な予感が募り、葵はゴクリと喉を鳴らした。
「誰って……アルだよ、アルヴァ=アロースミス。クレアのお気に入りだったじゃん」
「そんな人知らんで? アロースミスっちゅーことは、レイチェル様の縁者かいな?」
「何言ってんの? レイの弟だよ」
「へぇ。レイチェル様に弟さんがおったんや?」
何を言っても、話が噛み合わない。葵が絶句していると、クレアは見知らぬ人物になど興味がないと言わんばかりに、さっさと話題を変えた。
「それより、無事に戻って来られたんやなぁ。心配しとったんやで」
「あ……うん……」
「マジスターにはもう
「そう、だね……」
上の空でクレアと会話していた葵は、そこでマジスターのことに思いを及ばせた。マジスターとアルヴァに関わりは薄いが、唯一、ウィルだけがアルヴァを知っている。
「今日、ウィル見た!?」
「ウィル?」
何故そこでウィルの名前が出てくるのかと、クレアは怪訝そうな顔をしている。彼女に尋ねるより直接
「アオイ!!」
初めに驚きの声を上げたのはオリヴァー=バベッジだった。他のマジスター達も一様に驚いた様子で葵を見ている。しかし彼らの変化になど感けていられなかった葵は一直線にウィルの元へ向かおうとした。だがウィルの元へ辿り着く前に、キリルによって動きを制される。
「……良かった、」
耳元で聞こえた呟きに、葵はハッとした。いつの間にかキリルに抱きすくめられていて、彼の顔が耳元にある。その言動からは純粋な安堵のみが伝わってきたが、今の葵にはそんなことで心を動かされている余裕がない。感極まった様子のキリルを力尽くで押し退けると、葵はウィルの華奢な両肩をがっちりと掴んだ。
「もしかして僕、迫られてる?」
「アルのこと、知ってるよね?」
タチの悪い冗談は無視に徹し、葵はウィルの目を見て問いかけた。しかしウィルの顔には、クレアと同じく訝しげな表情が浮かぶ。
「誰だって?」
「だから、アル。アルヴァ=アロースミス」
「そんな人知らないけど?」
その言葉に嘘はなさそうに思えたが、ウィルがアルヴァを知らないはずがないのだ。そのことを知っている葵はウィルから手を離し、短く息を吐いてから再び口火を切った。
「ウィル、ごめん」
先に謝ってから、葵は小首を傾げているウィルのシャツをめくり上げた。突然の乱行に驚愕した周囲から様々な声が上がったが、そのどれもが葵の耳には届かない。
(ない……)
ウィルの上半身にあるはずのものは、きれいに消え去っていた。アルヴァが突然消えてしまったのと同じように。
「そろそろ離してくれない? キルが怖いんですけど」
ウィルの体に釘付けになっていた葵は、手を払われたことで我に返った。だが問いを重ねようにも、逆上したキリルが乱入してきたために会話が続けられなくなってしまう。もう何が何だか分からなくなってしまった葵は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「アオイ? おたく、変やで?」
「……変?」
「きっと疲れてるんや。無理もないわ」
葵に手を貸して立ち上がらせると、クレアは家に帰ろうと言ってきた。それが純粋な気遣いであることは伝わったが、クレアの発言に反発を覚えた葵は眉根を寄せる。
(変なのは、私……?)
アルヴァ=アロースミスという青年は、つい先程まで確かに存在していた。だが今は、その存在があったことさえクレアやウィルの中から消えてしまっている。何故そんなことになってしまったのか、理由が解らない。他に誰か頼れる人がいないかと考えた時、葵の脳裏にはレイチェルの顔が浮かんだ。
「クレア!」
「え? 何や?」
「レイの所に連れて行って! 今すぐ!」
「それはええけど……」
歯切れの悪い返答を寄越すと、クレアはチラリとマジスター達を見た。クレアが何を気にしているのかは察したものの、それどころではなかった葵は彼女を急かす。葵の様子を訝しがりながらも、クレアは望みを叶えてくれた。だがクレアに連れて行ってもらった屋敷にはレイチェルの姿も、ユアンの姿もなかった。
「お二人とも出掛けられてるみたいやな。出直そうや」
「私、ここで待ってる。クレアは先に帰ってていいよ」
「……分かったわ。ほな、また後でな」
不可解に思っていることは確実だろうが、クレアは疑問を口にすることはなく姿を消す。説明している余裕のなかった葵はクレアの気遣いをありがたく思いながら、ユアンとレイチェルが帰って来るのを祈るようにして待った。
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