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 人気のない屋敷でユアンとレイチェルの帰りを待っているうちに、日が暮れてしまった。この屋敷にはクレアの他には使用人もいないようで、全体的にひっそりと静まり返っている。強い焦燥感に駆られている時に耳が痛くなるほどの静寂の中に身を置いているのは辛く、葵は抱いた膝の上に額を押し付けた。

(早く、帰って来て)

 何度繰り返したか分からない言葉を、胸中でまた繰り返す。そうしているうちに物音が聞こえてきて、葵は勢いよく顔を上げた。反射的に立ち上がり、応接室らしき部屋を後にする。エントランスホールに行ってみると、そこに求めていた姿があった。

「レイ!」

「アオイ? どうしたのですか?」

 エントランスホールの脇にある部屋から突然飛び出してきた葵を見て、レイチェルは驚いたようだった。質問に答えるのは後回しにして、葵は周囲を見回す。

「ユアンは? 一緒じゃなかったの?」

「ユアン様はご実家におられます。今宵はお戻りになりませんが、急用でしたらわたくしが承ります」

「そっか……」

 ユアンがこの場にいないのは残念だが、それならそれで、まずはレイチェルに確認すればいい。そう思った葵は深呼吸をしてからレイチェルを見据えた。

「レイ、アルのこと覚えてる……よね?」

「どなたですか?」

「アルだよ、アル。レイの弟の、アルヴァ=アロースミス」

「わたくしに弟はおりませんが」

 他の誰が忘れ去ってしまっても、レイチェルだけは覚えているのではないだろうか。そんな期待を抱いていた葵は、彼女の態度がクレア達と同じだったことにショックを受けた。眩暈がしてフラついた葵の体を、レイチェルが腕を伸ばして支える。

「大丈夫ですか?」

「……平気。ごめん、ありがと」

「顔色が優れませんね。屋敷までお送りしますので、本日はゆっくりお休み下さい」

「ううん。私、ここにいる。ユアンが帰って来るまで、ここにいさせて」

「それは構いませんが……」

「私のことは気にしなくていいから」

 それだけを告げると葵はレイチェルから離れ、元いた応接室に引き返した。ユアンが戻って来るのは翌日のことなので、寝てしまおうと思った葵はソファーに横たわる。しかしいつまで経っても、眠りに落ちるような気配はなかった。

「アオイ、入ってもよろしいですか?」

 硬く瞼を下ろしていると、ノックの音と共にレイチェルの声が聞こえてきた。葵が起き上がって返事をすると、扉が開いてレイチェルが姿を現す。外套を手にしている彼女は、出掛けるところのようだった。

「わたくしは外出いたしますが、屋敷内の物は好きに使っていただいて構いませんので。お休みになる際はベッドをご使用下さい」

「分かった。いってらっしゃい」

 笑顔でレイチェルを送り出すと、葵は再び応接室のソファーに戻った。レイチェルはベッドを使っていいと言ってくれたが、この部屋が一番エントランスホールに近く、ここにいればユアンが帰って来た時、すぐに分かるだろうと思ったからだ。

 再び人の気配が失せた屋敷で、葵はひたすらユアンが帰って来るのを待った。それは孤独と焦りとの闘いで、時間が過ぎるほどに神経がすり減っていくのが、自分でも分かる。また日中の疲れもあって、葵はいつしかウトウトしていた。浅い眠りに落ちては目が覚めるといったことを繰り返しているうちに、現実の意識が稀薄になっていく。だから幾度目かに目を開けた時、そこにあったユアンの姿を幻ではないかと思ってしまった。

「起きた? 今ちょうど、起こそうと思ってたところだったんだ」

「……ユアン……?」

「僕を待っていてくれたんでしょ? ごめんね、待たせて」

「これ……夢? それとも、現実……?」

 葵が寝惚けているように呟くと、ユアンはクスリと笑った。葵の手をすくい上げた彼は、それを自身の口唇に近付ける。手の甲に伝わるユアンの体温と、掌に受けた口唇の感触で、葵は目を開けたまま見ていた夢から醒めた。

「ユアン!!」

「おはよう。って言っても、まだ夜なんだけどね」

「アル……、アルのこと、覚えてる?」

「アル? アルがどうかしたの?」

 キョトンとした顔をしているユアンの反応は、いつもと何も変わらないものだった。安堵したら脱力してしまい、不自然な恰好で身を乗り出していた葵はソファーから滑り落ちる。目の前で葵が落下したため、ユアンは焦ったような声を出した。

「アオイ!? 大丈夫?」

「ユアン〜」

 気が抜けたら急に泣けてきて、葵は手を差し伸べてくれたユアンにそのまま抱きついた。突然のことにユアンは困惑したようだったが、葵が泣いている間は何も言わず、優しく背を撫でてくれる。ひとしきり泣いてスッキリした後、葵はユアンから体を離した。

「アルに、何かあったの?」

 すでに事態を察してくれているユアンの問いかけ方が、葵にはなんとも頼もしいものに感じられた。また泣きそうになるのを何とか堪え、葵は頷いてから口を開く。

「アルが、消えちゃった」

「消えた?」

「普通に話してたら、急に。転移魔法とかで消えたんじゃなくて、こう、少しずつ体が透けていくような感じで、いきなり消えちゃったの。保健室のウサギもいなくなるし、みんなアルのことなんか知らないって言うし、もうどうしたらいいのか分からなくて……」

「アオイ、ちょっと、待って」

 そこで一旦話を止めると、ユアンは口元に手を当てて黙り込んだ。頭を整理しているのだろうと思った葵はその間に、再び滲んできてしまった涙を拭う。しばらくすると、ユアンは葵に視線を戻して話を再開させた。

「保健室のウサギって、何?」

「え? あ、知らないんだ? えっと、アルのペットみたいな白いウサギがいて、アルはいつもそのウサギに保健の先生をやらせてたの」

「う〜ん、それだけじゃ分からないなぁ」

 ウサギのことはひとまず置いておくことにしたようで、ユアンは次にアルヴァが忘れられているという点について尋ねてきた。クレアやレイチェルがアルヴァのことを知らないと言っていたと聞くと、ユアンは表情を険しくする。

「レイまで?」

「うん。自分には弟なんていないって。ウィルもあんなことがあったのに、アルのこときれいに忘れてた」

「ウィル=ヴィンス?」

「そう。あ、そういえば、ウィルの体にあった荊の痣も消えてた」

「レイの体に刻まれてるのと同じもの、だね?」

「……そういえば、アルが消えた時も……」

 ちょうど、その話をしようとしていた時だった。何か、歯車が噛み合ったような気がした葵は眉根を寄せて閉口する。しかしいくら考えてみても、何が噛み合ったのかは見えてこない。その答えは、嘆息の後にユアンがくれた。

「何でアルが消えちゃったのか、分かったよ」

 アルヴァは調和を乱す存在と認識されたため、世界からその存在を消されてしまった。そう告げた後で、ユアンは苦々しく言葉を重ねた。

「精霊王にはきっと、こうなる予感があったんだね。だからアオイを通してアルに忠告するなんてことをしたんだ」

 結果的に、精霊王の厚意は無駄になってしまったわけだが。そんなユアンの独白を、葵は茫然と聞いていた。

「……ちょっと、待って。それって、どういうこと、なの?」

「アオイが見た通りだよ。アルは消えたんだ。アルヴァ=アロースミスっていう人間は初めから世界に存在していないことになってしまったから、みんなの記憶からも消えてしまった。アルがこの世界で行ってきたことも全て無に帰している。だからウィル=ヴィンスの体の痣が消えたり、ウサギが消えたりしているんだ。レイが罰を刻まれたのもアルのせいだからね。レイの体もたぶん、元通りになっているはずだよ」

「で、でも、私とユアンは覚えてるよ?」

「それは僕が人王で、アオイはこの世界の理に囚われないヴィジトゥールだからだよ」

「そんな……」

 目の前で見ても信じられなかったことが今、現実になった。ユアンの言葉にはそれほどの説得力があり、葵は言葉を失ってしまった。閉口したのはユアンも同じで、彼は苛立たしげに髪を掻き毟る。

「アルのバカ、」

 ユアンが吐き出すように零した独白には苛立ちと後悔のような感情が綯い交ぜになっていて、胸が痛くなった葵はとっさに彼の手を取った。ユアンは葵の行動に驚いたようだったが、瞠目していたのは一瞬のことで、すぐに苦笑を浮かべて見せる。

「僕は大丈夫。アオイこそ、大丈夫?」

「大丈夫じゃないよ。何とかならないの?」

「……一つだけ、何とか出来るかもしれない方法があるんだ」

「じゃあ今すぐ、それやろうよ」

「簡単に言わないの。自分の存在を賭けてやらないと、出来ないことなんだから」

「……命懸け、ってこと?」

 葵が確認すると、ユアンは深刻そうな面持ちで頷いた。世界から消し去られた人間を何とかしようというのだから、そのくらいのリスクを負うのは当然のことなのかもしれない。そう考えてみても、葵は不思議と恐れを抱かなかった。自分の命を賭けるよりも前に、恐れなければならないことがあったからかもしれない。

「ユアンは、アルを助けたいと思う?」

「当たり前だよ。アルは僕の、大切な人だから」

「そのためなら命懸けでも、何だって出来る?」

「……何で僕の方が諭されてるんだろう?」

 説得するのは自分の方なのにと言って、ユアンは苦笑いを浮かべた。その態度からはすでに覚悟を決めているような感じを受けて、葵はホッとする。自分がいくらやる気になっていても、ユアンの助けがなければ何も出来ないことを知っていたからだ。

「私に、何か出来ることはない?」

「いいの? さっきも言ったけど、危ないことなんだよ?」

 真顔に戻ったユアンが念を押してきたが、葵は迷うことなく頷いた。今まで、アルヴァには散々助けられてきた。それが自分のことを思っての行為ではなかったにしても、助けられたことに変わりはない。だから出来ることがあるのなら、自分はやらなければならないのだ。葵のそういった意志を汲んで、ユアンは安堵したように息を吐く。

「ありがとう。実は、アオイが一緒に来てくれるとかなり助かるんだ」

「そうなんだ? じゃあ、頑張るよ」

「うん。僕も、頑張らないとね」

 そこで話を切り上げると、ユアンは立ち上がった。手を差し伸べられたので、葵はじっとユアンの顔を見る。目が合うと、ユアンは朗らかな笑みを浮かべた。

「行こう、アオイ」

「うん」

 命懸けなのだというこの先に、何が待ち構えているのかは分からない。だが恐れる心は少しもなく、葵はユアンの手を取った。






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