海から吹きつける塩気を帯びた風が、なだらかな斜面に茂っている青草を揺らしていた。空に雲はなく、すでに水平線を離れた太陽が海の蒼さを際立たせている。太陽に真正面から照らされ、海風に髪やスカートの裾を揺らされながら、宮島葵は断崖の上に佇んでいた。その横にはユアン=S=フロックハートの姿もあり、二人は少しずつ上昇していく太陽を無言で見つめている。ロマンチックなシチュエーションではあったが、彼らは朝焼けを見るためにこの場所へ来たわけではなかった。
「……来た」
長い長い沈黙の後、ユアンが不意に静寂を破った。彼が独白を零した直後、それまで晴れ渡っていた空が急に霞み出す。陸側にも深い霧が煙り、葵とユアンの足元はあっという間に濃霧に呑まれた。
「アオイ、見て」
ユアンの声が聞こえてきたので、足元の霧に気を取られていた葵は顔を上げた。見ると、ユアンは海の方を指差している。その指が示す方に視線を傾けた葵は、そこで目を疑うような光景を見た。先程まで朝日に照らされていた海面が雲海のようなもので覆われていて、一面が真っ白になっていたのだ。その幻想的な光景に目を奪われていると、突然、白雲の海から何か細長いものが飛び出してきた。それは長い体を空中で
(龍……)
それはいつか王都で目にした、大きな翼を持つ竜とはまた違った種族のようだった。細長い体やクネクネと進む動きは蛇に似ている。葵がそんなことを考えていると、陸地の方でも変化が起こった。隣に佇んでいるユアンが海から視線を外したので、その動作を視界の端で捉えた葵もつられて振り返る。すると霧の中から、ライオンのような動物が姿を現した。
龍とライオンのような生物が揃うと今度は大地が隆起し、なだらかな斜面に木が生えてきた。それは瞬く間に大木へと成長し、太い幹が洞を作り出す。龍とライオンのような生物はすれ違いざまに葵を一瞥してから、洞の中へと消えて行った。異形の者達に目を向けられて硬直していた葵は、彼らの姿が消えたことを機に溜めていた息を吐き出す。ユアンに話しかけようとして隣を振り向くと、今度はそこに見知った者の姿を発見した。ユアンと同年代の子供の姿をしている、その人物は……。
「精霊王……」
複雑な気持ちで、葵は独白を零した。葵の心中を察してか、精霊王は少し苦さを含んだ笑みを浮かべる。だが何かを発言することはなく、彼もまた樹の洞へと消えて行った。それを見送ってから、ユアンが視線を傾けてくる。
「行こう」
「……うん」
ユアンに差し出された手を取って、葵も洞の中へと飛び込んだ。内部は暗闇になっていて、入口の光さえも失われてしまっている。しかしどういうわけか、その暗闇の中にいる者達は輪郭をはっきりとさせていた。
「人王、何故この場に部外者がいる?」
葵の姿を見咎めて神経質な声を発したのは、ライオンに似た生物だった。葵は確かに、彼から声がしたと認識したのだが、それは喋ったというよりもライオンの考えが頭に直接流れ込んできたというような感覚だった。接触することで人間と意思の疎通を図る、マトのコミュニケーション方法と近い。
ライオンに似た生物が葵を『部外者』だと言ったのは、この場に集っている者達が
「彼女がここにいるのは世界の意思です。世界が彼女を拒んだのなら、彼女はこの場にいられないはずですから」
「世界の意思を歪曲するな。黙認と容認は違うものなのだぞ」
「
まずは議題を提示してもらわないことには何も始まらない。精霊王がそう言うと、地生類王と呼ばれたライオンは面白くなさそうに獣の唸り声を発した。それが威嚇のように感じられた葵はビクリと体を震わせる。闇を通して動揺が伝わってしまったようで、その場の視線が葵に集ったが、それについては誰も何も言わなかった。
「それでは、始めさせていただきます」
会話が途切れたことにより、ユアンが改まって口火を切った。注目が集る中、ユアンは淡々と言葉を次ぐ。
「まず初めに断っておきたいのですが、今回の召集は会議のためではありません。皆さんにお願いがあって、こうしてお集まりいただきました」
召集が会議のためではないと知ると、ハルモニエ達の間に怪訝そうな空気が漂った。精霊王以外は人型をしていないので表情の変化は分かり辛いが、そうした雰囲気は言葉と同じように直接頭に伝わってくるのだ。ユアンが何をしようとしているのか、詳しいことはまだ何も聞かされていないため、葵は固唾を呑んで成り行きを見守る。少し間を置いてから、ユアンは言葉を重ねた。
「
「
強い非難を感じさせる声を上げたのは地生類王で、他のハルモニエ達も難色を示していた。誰からも許可は得られず、しばらく沈黙が流れていたが、やがて海から姿を現した龍がユアンに向かって言葉を紡ぐ。
「何故、セントル・モンディアルに行きたいのだ」
「大切なものを取り戻すため、です」
「その大切なものとは?」
「友人です」
世界から消されてしまった経緯には触れずに、ユアンはアルヴァについて簡単な説明を加えた。人王が個人的な理由で世界の中心に行こうとしているのだと知ると、地生類王が憤って口を挟んでくる。
「愚劣な。たかだか人間一人のために、何故我らが動かなければならない」
そのような行いは世界の意思に反すると、地生類王はユアンを厳しく責め立てた。しかしそれでも、ユアンの表情が変わることはない。真顔のまま、彼は深々と頭を下げた。
「僕はどうしても、その人を世界から消し去ってしまいたくないのです。どうか、お願いします」
「話にならんな。会議がないのならこれで失礼する。草木王、出口を作ってくれ」
地生類王が空を仰いで呼びかけると、遥か上空から光が差してきた。そこが出口のようで、地生類王は闇の中を移動し始める。その姿を見て、葵は思わず声を上げていた。
「待って!!」
部外者が口を出してきたことに気分を害したのか、振り返った地生類王からは殺気にも似た重圧が感じられた。鋭い眼光に葵は怯んだが、それでもすぐに気分を立て直し、恐れを抱きながらも言葉を次ぐ。
「お願いします! ユアンの言う通りにしてあげて下さい!」
葵が勢い良く頭を下げると、上昇しかけていた地生類王は元の位置に戻った。だが彼の態度が軟化したわけではなく、地生類王は険しい語調で言葉を紡ぐ。
「異界の者よ、お前は何も解っていないのだ。差し出がましいぞ!」
「地生類王よ、落ち着け。異界の娘が怯えているではないか」
「
窘められた地生類王は不満げな調子で呟くと、海龍王と呼ばれた龍を見た。咆哮のような怒鳴り声に身を竦ませていた葵も、意外な面持ちで海龍王を見る。こちらを向いた龍の瞳は地生類王の猛々しいそれとは違い、凪いだ海のように穏やかだった。
「異界の娘よ、よく聞け。ソールス・オブ・メメントには世界の誕生から今この瞬間までの膨大な記憶が蓄積されている。それはセントル・モンディアルと呼ばれる世界の中心にあり、彼の地は我らハルモニエであってもおいそれと立ち入ることは許されていない、不可侵の領域なのだ」
葵にも理解出来るように説明を加えてくれた後、海龍王は『だからユアンの願いを聞き入れることは出来ない』のだと付け加えた。理路整然と説得されてしまい、葵は返す言葉を失う。
「少し、よろしいでしょうか」
容喙してきたのは、それまで黙していた精霊王だった。彼が何を言い出すのかと、その場の視線が集中する。注目を集めている精霊王は、しかし淡々と言葉を重ねた。
「私達がこうして議論をしていることに世界からの反発は感じません。世界が黙認しているのでしたら私達が人王の望みを黙認しても問題はないのではないでしょうか」
「精霊王……黙認と容認は違うのだと何度も言わせないでいただきたい。それに、今は結果が定まっていないから黙認されているに過ぎない。人王の行いを世界が拒絶すれば、今度は人王の存在が世界から消失するかもしれないのだぞ」
アルヴァとユアンでは、その存在の重みがまったく違う。地生類王が苦々しい口調でそう言うと、精霊王は何故か笑みを浮かべた。
「いいえ、同じですよ。ハルモニエでありながら私的な望みを優先させた結果として人王の存在が抹消されるのなら、今生の人王はそれまでの存在だったということです。そのようなことになれば世界はまた新たな人王を選出するでしょうし、何も問題はないと思われますが」
精霊王の物言いは当初からユアンに噛み付いていた地生類王よりも辛辣なものだった。しかし彼は、自らの身を危険に晒してまで葵に伝言を託してくれた人物なのである。言葉はきついが、これは間違いなく助け船だろう。そのことを察した葵は感謝を示したいのをなんとか堪え、胸の前でそっと自身の手を抱いた。
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