「アルはね、僕に裏表を使い分けるってことを教えてくれた。それがうまく出来ると心が安定するんだ」
そのおかげでずいぶん助けられてきたと、ユアンは感慨深そうに語る。やり方はどうあれ、アルヴァはユアンのためを思ってあんなことをしたのだろう。ユアンが普通の子供でないことを思えば安易に非難することも出来ず、葵は複雑な気持ちで苦笑いを浮かべた。
「なるほどね。ユアンがこんな風に育ったのはアルの影響だったんだ」
「精神的には僕の方が、もうアルより大人だよ?」
「そんな、急いで大人にならなくていいんだよ」
ユアンにそう言った後で葵はふと、以前にアルヴァが言っていたことを思い出した。子供でいられるうちは、子供でいればいい。あの発言は普通の子供でいられないユアンと付き合ってきたらこそ、アルヴァの口をついて出たのではないだろうか。そう考えると、言われた時は意外に思った言葉にも納得がいくような気がした。
――……の、……は……
ふと、どこからか声が聞こえたような気がして、葵は周囲に視線を走らせた。ユアンがどうしたのかと尋ねてきたので、葵は彼の方に視線を戻しながら答える。
「なんか今、声が聞こえたような気がして」
「声?」
「うん。アルの、っぽかったんだけどなぁ……」
手を繋いでいるアルヴァを見ても変化は見られなかったので、葵は空耳ということで片付けようとした。しかしユアンが、すぐに異を唱える。
「空耳なんかじゃないよ。アルの意識……魂が、戻って来てるんだ」
世界から消されてしまったアルヴァの魂は葵達の周囲に浮かんでいる光のように輝くことはなく、闇に溶けているのだという。溶融した魂が再構築されるかどうかはアルヴァ自身にかかっていて、葵とユアンはそのキッカケを与えているに過ぎないのだ。だからアルヴァの復元を強く願って彼のことを思い出して欲しいのだとユアンに言われ、葵はイメージが作り出したアルヴァを振り向いた。
(アル……みんなが忘れちゃっても、私とユアンは覚えてるよ。覚えてるんだから、なかったことにも出来ない)
それに忘れてしまった人達も、アルヴァの存在を消してしまうことを選んだわけではない。選択の自由があったのなら、彼らだって忘却を選んだりはしなかっただろう。こんなことになってしまって一番可哀想なのは、アルヴァが身命を賭して護ろうとしていたレイチェルだ。
(レイのためにも、お願い。戻って来て)
強く、強く念じると、輪の中央部から光が溢れてきた。その光は周囲の闇をも塗り替えてしまうほど強いもので、葵は一気に視界を奪われる。それからどれだけの時が流れたのかは分からないが、気がつくと真っ白な世界に佇んでいた。闇の中で作り出したイメージのアルヴァは消えていたが、ユアンの姿は隣にある。
「何が、どうなったの?」
葵が問うと、ユアンは口唇の前で人差し指を立てた。指示に従って口をつぐんだ葵は、ユアンの動きを目で追う。彼が視線を傾けた先には金髪の男の子がいて、その前を同じく金髪の女の子が駆けていた。
《まって! まってよぉ!》
おねえちゃん、と、男の子が泣きながら女の子を呼んでいる。しかし声が届かないのか、女の子は振り返らない。二人の距離はどんどん遠くなって、やがて男の子は足を止めてしまった。
――昔から、あの背中が遠かった
――どんなに必死に走っても、追いつけない
――イジワルじゃないんだ
――あの人は、ただ……
目に映る光景とは一線を画した声が、頭の中で響く。声の主が誰であるのかを察した葵は同時に、今見ている記憶が誰のものなのかも理解した。そして、目の前の映像に意識を注ぐ。
立ち止まってしまった男の子が顔を覆って泣いていると、そのうちに女の子が戻って来た。女の子は男の子が泣き止むのを待ってから、彼の手を引いて歩き出す。あれだけ呼んでいたのに男の子に嬉しそうな様子はなく、彼はむしろ怒ったように顔を赤くして、手を引かれて行った。
――優しくなんてしてくれなくていい
――自分から追いかけていたくせに、手を差し伸べられるといつもそう思っていた
――追いつけないことが悔しくて、恥ずかしかったんだ
――その思いは年を重ねるごとに大きく膨らんでいった
子供たちが白い世界に溶けてしまうと、今度は講堂のような景色に切り替わった。そこには若者達の姿があり、思い思いに談笑している彼らは一様に白いマントを身につけていた。それは制服のようであり、今見ている光景はどこかの学校のようだ。葵がそう考えていると、ユアンがトリニスタン魔法学園の本校だと教えてくれた。
《レイチェルが提出した論文が王室に献上されるそうだ》
《アルも同じ研究テーマで論文を書いていただろう? あれはどうなった?》
アルヴァやレイチェルの名前が聞こえてきたので、葵は近くの席で話をしている三人の男子生徒に目を留めた。一人は十代の頃のアルヴァで、あとの二人もどこかで見たことがある。それがハーヴェイ=エクランドとロバート=エーメリーであることに気がつくと、葵は反射的に身を引いた。しかしユアンが不思議がった程度で、記憶の再現は滞りなく行われている。ロバートからの問いかけに、アルヴァはむすっとした顔をしながら答えた。
《実験の結果が一つ間に合わなかったんだ。だから今回は提出してない》
《期限に間に合わなくても教授に見せればいい。君の論文なら教授も大喜びで読んでくれるだろう》
《それじゃ意味がない》
――二番煎じの論文で私的に教授を喜ばせるだけなんて、冗談じゃないと思った
――スタートラインにすら立てなかったのなら、それはもう無価値でしかないのだから
――意味がないんだ、レイチェルを超えられなければ
――だけど、どんなに努力をしても、いつもレイチェルには及ばない
――それが悔しくて、悔しくて、堪らなかった
そこで講堂の風景が消えると、今度は机も椅子もない広い空間に移動した。室内には淡い光を帯びている魔法陣が描かれていて、その手前には魔法書を手にしているアルヴァの姿がある。
《本当に、やるのか?》
同じ室内にいて、アルヴァに問いかけたのはハーヴェイだった。彼はアルヴァよりも少し後方に佇んでいて、その隣にはロバートの姿もある。振り返って二人を見たアルヴァは頷く代わりにマントを翻し、再び魔法陣に向き直った。
《ラルセナエングナ・ミドユクビワグネ……》
アルヴァが唱え出した呪文は葵が今までに聞いたことのないパターンのものだった。しかしユアンは知っていたようで、息を呑むような音を聞いた葵は隣に顔を向ける。ユアンは顔面蒼白で、葵には構わずに叫び声を上げた。
「やめて、アル!」
これが回想に過ぎないことを分かっていても止めなければならないと思ったようで、ユアンはアルヴァに向かって走り出した。だがすぐに、彼は足を止める。魔法陣の中央部から長く黒い、腕のようなものが出現したからだ。
「な、何あれ!?」
それが出現した瞬間、魔法の使えない異世界の者である葵にさえも、それが間違いなく危険なものだと分かった。寒くもないのに鳥肌が立って、葵はしきりに二の腕をさする。ユアンに至っては棒立ちで、彼は呆けながら成り行きを見つめていた。
《アル、もうやめろ! これ以上は危険だ!》
ハーヴェイが制止の声を上げるのと同時に、ロバートはどこかに姿を消した。魔法陣の前に佇んでいるアルヴァは脂汗を浮かべていたが、呪文の詠唱はやめようとしない。魔法陣から伸びている黒い腕のようなものは陸に打ち上げられた魚が跳ねるのに似た動きを繰り返した後、大きな鎌へと姿を変えた。
「モール・ドゥ・フォスィール……」
ユアンが零した呟きが聞こえたが、葵には彼に目を向けている余裕がなかった。漆黒の大鎌がアルヴァに向かって振り下ろされる直前、ロバートに連れられて室内に姿を現したレイチェルが魔法陣とアルヴァの間に割って入る。勢いよく振り下ろされた鎌はレイチェルの背中に突き刺さり、そのまま腹部を貫通した。
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