二階部分の壁面にぽっかりと穴が空いている塔に辿り着くと、葵は建物の中の階段を上って二階へと出た。そこで出くわした人物に、一瞬ドキリとする。しかしすぐに平静を装って、葵はその人物の傍に寄った。壁に背を預けて床に座り込んでいるのは、栗色の髪にブラウンの瞳といった容貌をしている少年。この学園のマジスターの一人である、ハル=ヒューイットだ。
「何してるの?」
「別に、何も」
普通に接しろと言われているので普通に話しかけると、ハルも普通に素っ気ない反応を返してきた。だが彼の心が平素の状態に戻れているかどうかは、まだ分からない。この場所に一人でいる時のハルは物憂げなことが多いように思えるからだ。
「あんたこそ、何してるの?」
「私は、これ」
ハルが問い返してきたので、葵は手にしていた携帯電話を前面に押し出した。もう何も隠す必要がないので、何を訊かれても堂々と答えられる。ハルが眉根を寄せているのをそっちのけで、葵はそんな些細なことに幸福感を覚えていた。
「それ、何?」
「これは携帯電話っていって、この世界でのレリエみたいなもん。離れた場所にいる相手と話が出来るんだよ」
「……あんた、本当に異世界の人なんだな」
実感があるのかないのか、ハルは抑揚のない口調で独白を零す。無理もないと思った葵は独白には反応を示さず、ハルから少し距離を置いて座り込んだ。そして携帯電話を操作して、メールの文章を作り出す。両手に携帯電話を持って文字を打っていると、ハルが物珍しげに手元を覗き込んできた。
「それは何?」
「これはメールを打ってるの。メールっていうのは……えっと、手紙みたいなもんかな?」
説明をしながら携帯電話をいじっていた葵は文章を打ち終わると、それを異世界にいる友人に送信してみた。屋敷にいる時はメールを送ろうとしても送信出来なかったが、電波の状態がいいこの塔でならどうだろう。そういう実験だったのだが、メールの送信はいとも簡単に済んでしまった。これで友人の
「うわぁ、送れたよ」
「おくれた?」
「ああ、気にしないで。説明すると長くなるから」
それまで携帯電話のディスプレイに集中していたので気付かなかったのだが、何気なく顔を上げた葵はハッとした。
(ち、近っ!!)
携帯電話の画面を覗き込んでいるハルの顔が、すぐそこにある。せっかく保たれていた心の安定が儚くも崩れ去って、動揺した葵は顔を赤くしてしまった。
(やばい……!)
ハルにこんな顔を見られるのは、色々な意味でまずい。とっさにそう考えた葵は携帯電話をハルに預け、彼の意識がそこに集中している間に距離を取り直した。それでもまだ、動機が激しい。顔の熱が、なかなか引いてくれない。
(……何やってんのよ)
次第に動揺がおさまってくると、胸中にそんな呟きが生まれた。つい先日、ハルへの恋情を否定しておいて、これはないだろう。
(でも別に、ウソついたわけじゃないし)
ハルと男女の仲になりたいとは思っていない、そう言ったのは本心からだ。この状況なら傍にいるのがハルではなくても同じ反応をしてしまっただろうということで、葵は赤くなってしまった理由を自己完結させた。
「……帰りたい」
「え?」
携帯電話に夢中だったはずのハルが不意に独白を零したので、葵は彼の方に顔を傾けてみた。ハルもこちらを見ていたので目が、合う。葵に携帯電話を返すと、ハルは言葉を重ねた。
「あんたが言ってたのって、そういう意味だったのか」
「……ああ、帰りたいってやつね」
「ヴァリア・ヴェーテが好きなのも、そういう理由?」
ハルの言う『ヴァリア・ヴェーテ』とは音楽の曲名で、その曲はパッフェルベルのカノンに酷似している。ハルはこの場所でよくバイオリンを弾いていて、その音色を聞きに来ていた頃のことを思い出しながら葵は頷いて見せた。
「あの曲ね、私のいた世界ではカノンって言うんだよ。すごくよく似てるから、ハルが弾いてるのを聞いた時はビックリした」
「それで、あんなに挙動不審だったのか」
「あー、まあ、そうだね。こっちの世界に来てすぐくらいの時だったから、バイオリンの音を聞けるだけでも嬉しくて。ハルが練習してるのしょっちゅう盗み聞きしてたんだけど、知ってた?」
ハルが頷いたので、葵は今更ながらに恥ずかしくなってきた。
「ごめん。ウザかったよね」
「変な女だと思ってた。でも、違ったんだな」
「別に変な女のままでもいいよ」
いまさらイメージを変えようなどとは思っていない葵は何の気なしにそう言ったのだが、それが笑いのツボを刺激したらしく、ハルは吹き出した。
「あんた、やっぱり変な女だ」
ハルに柔らかな笑みを向けられた葵は、出会った頃のときめきを思い出してしまった。全身が火照ってきたのが自分でも分かったので、慌てて顔を背ける。胸が、またドキドキと騒ぎ出していた。
(ふ、普通に! 普通に接する!)
呪文のように自分に言い聞かせていると、いいタイミングで第三者が現れた。壁面に空いている穴から進入して来たのは長い茶髪を無造作に束ねている少年。がっちりした体躯をしている彼はマジスターの一人である、オリヴァー=バベッジだ。
「ハル、ここにいたのか」
隣にいる葵にも軽い挨拶を寄越してきた後、オリヴァーはハルの傍に寄った。
「忘れ物だ」
そう言ってオリヴァーが差し出したのは指輪で、それを受け取ったハルはさっそく自分の指に嵌めている。葵が二人のやりとりを何気なく見ていると、オリヴァーが律儀に説明を加えてくれた。
ハルは一時期トリニスタン魔法学園の本校に通っていたのだが、アステルダム分校に帰って来て以来、オリヴァーの家に居候をしていた。だがようやく家に帰る気になったらしく、昨日引っ越しを済ませたのだそうだ。オリヴァーがハルに渡していたのは、その際に置き去りにされていった指輪だったのだという。
「へぇ、家に帰ったんだ? ハルの家ってあの、テーブルマウンテンみたいな所にある大きなお屋敷でしょ?」
「何で知ってるんだ?」
「てーぶるまうんてん?」
ハルとオリヴァーから同時に疑問の声が上がったので、葵はまずオリヴァーの疑問から答えることにした。
「テーブルみたいな形をした、山」
「ああ、そういうことか。言われてみれば確かに、ハルの実家の辺りってテーブルみたいだな」
オリヴァーが一言で納得してくれたので、葵は次にハルへと視線を移す。
「前に近くまで行ったことがあるから知ってるの。オリヴァーの実家も見てきたんだけど、屋敷ごと水に沈むんだね。あれ見た時はビックリしたよ」
「そうか、アオイにとってはああいうのが珍しいのか」
まだ葵が異世界からの来訪者であるという実感がないようで、眉根を寄せたオリヴァーはしみじみと独白を零した。マジスター達にとっては特に珍しいことでもないらしく、ハルは何も言ってこない。
「そんなに珍しいなら遊びに来るか?」
葵がバベッジ公爵邸について質問を重ねていると、オリヴァーがそんなことを言い出した。彼の実家には非常に興味があったので、葵は喜色を露わにして目を輝かせる。
「いいの?」
「そこまで喜んでもらえると誘い甲斐があるぜ。ハルはどうする?」
「行く。キルとウィルは?」
「あー、声かけないと怒るだろうな」
「それなら、クレアも誘っていい?」
「もちろん」
快く頷いてくれたオリヴァーに、葵はクレアがすでに帰宅してしまったことを告げた。クレアとコンタクトを取る術があるのだというオリヴァーは、葵とハルには先に
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