保健室を出た後、葵は携帯電話を使うために再び『時計塔』に向かった。その途中でまたシエル・ガーデンが見える場所を通りかかったので、そちらを一瞥する。しかしその場所からではあまりに遠くて、内部に人がいるのかどうかを知ることは出来なかった。
(後で、寄ってみようかな)
ユアンがマジスターの前に姿を現した日以来、葵はキリルに会っていなかった。彼には謝らなければならないことがあるし、お礼を言いたいこともある。弥也にメールを送った後で寄ってみようと思った葵は、ひとまず時計塔に向かうことにした。
(あ……!)
時計塔に近付いた葵はその足下に、見知った少年の姿を発見した。遠目からでも分かる私服姿と漆黒の髪は、間違いなくキリルだ。何故か塔を見上げていた彼は葵に気付いておらず、すぐに踵を返してしまう。それを見た葵は慌てて声を上げ、キリルの元へ走り寄った。
普通に話が出来る程度に距離を縮めても、葵とキリルはすぐには会話を開始しなかった。葵は息切れのために、キリルは困惑のために、それぞれ言葉を紡げずにいるのだ。少し間を置いて、呼吸を整えた葵の方から口火を切った。
「げ、元気?」
口をついて出たのは、思っていたのとは別の言葉だった。キリルもそんな科白を投げかけられるとは思っていなかったようで、困惑の度合いを深めている。失敗したと胸中で呟いた葵は頬を引きつらせた。
「いや、あの、久しぶりに会ったから……」
「……元気じゃねーよ」
「そ、そっか……」
「つーか、お前、よく平気な顔してられるよな」
やはり嫌がらせをされたことを怒っているのかと、葵はキリルの一言で固まってしまった。キリルは悩ましげなため息をつくと、所在なさげに髪を掻き上げる。
「気にならねーのかよ、明日のこと」
「え? 明日?」
「……オレのこともウィルのことも、ホントに何にも気にしてねーんだな」
「あ、ああ……そのことね」
キリルが何を言っているのか理解した葵は取り繕った笑みを浮かべた。しかし無関心ぶりはすでに露呈していて、キリルは卑屈な笑みを浮かべる。申し訳ないとは思ったものの、葵には心を変えることは出来そうになかった。
「やめちゃいなよ、私なんて」
「それが出来りゃ苦労しねーんだよ」
「……まあ、そうだよね」
葵にはキリルの想いに応えることが出来ないが、彼の言い分も理解出来てしまう。一度芽生えてしまった感情は、そう簡単に消し去れるものではないのだ。だからといってキリルに、このままでいて欲しいとも思えない。辛い思いをするのは彼なのだから。
「でもさ、私はキリルのこともウィルのことも何とも思ってないんだよ? そんなんでデートとかしても、嬉しい?」
「…………」
「私が逆の立場だったら、やっぱり辛くなると思う。だから本当は、こんな勝負して欲しくない」
「……っ、せーな! しょーがねーだろ!!」
キリルが怒り出してしまったので、身の危険を感じた葵は反射的に後退した。その無意識の動作がキリルを傷つけてしまったようで、彼はハッとした表情をした後、顔を歪める。またこの表情だと思った葵は、罪悪感で胸が苦しくなった。
「……ごめん。こんな話をしたかったわけじゃなくて、ほんとは謝りたかったの」
シエル・ガーデンで故意に傷つけるようなことをして、ごめんなさい。そう言って頭を下げた後、葵はフッと表情を緩めた。
「それと、ありがとう。クレアから聞いたんだけど、私が行方不明ってことになってる時、すごく心配してくれたんだってね。それなのに、ちゃんと話を聞いてあげられなくてごめん」
「……んで、」
「ん?」
面を伏せているキリルが何かを言ったような気がして、葵は彼の顔を覗き込もうとした。刹那、顔を上げたキリルが距離を詰めてきたので葵は反射的に後ずさる。しかし先程も後退していたこともあり、すぐに背中が塔にぶつかってしまった。背後を気にした隙にキリルの腕が視界に入ってきて、葵はギクリとする。
「あ、の……」
「触らねーから」
だから少しだけ、このままでいさせて欲しい。キリルの低い声が耳元で聞こえて、葵は返事をすることも出来ずに硬直した。
(さ、触らないって言ったって……)
確かにキリルはどこにも触れていないが、その顔も体も近すぎる。雪が降る中では服越しであっても微かに体温が伝わってくるし、この距離では吐息が前髪にかかってしまう。
(や、やだぁ)
抱き合ってしまえば顔も見えなくなるが、なまじ触れ合っていない分、少し目を上げただけでキリルの顔が視界に入る。苦悶の表情を浮かべている彼は必死で自制しているらしく、吐息も熱っぽい。気が狂いそうな緊張感の中で葵は、これなら抱きしめられた方がマシだと何度も思った。
「っ……」
キリルの口唇から言葉にならない想いが零れ、掌が、顔が、近付いてくる。だが彼は自分の発言に忠実で、その手も口唇も葵に達する前に留まった。何度、そんなことがあっただろう。小さなきっかけ一つでも崩れてしまいそうな膠着状態は、先に葵の胸をパンクさせた。自分の鼓動しか聞こえなくなって、体からも力が抜け、胸の前で握り締めていた携帯電話が滑り落ちる。その感覚で我に返った葵はもう耐えられないと、悲鳴に近い叫び声を上げた。
「もうキスでも何でもして!!」
「!?」
葵の唐突な発言に驚いたキリルが顔を真っ赤にして体を遠ざける。息も出来ないほどの緊張感から解放された葵は塔の壁を背で伝い、ズルズルと座り込んでしまった。
「お、おま……っ、何……!?」
キリルは動揺からまともに言葉を紡げず、葵は息切れから口を開くことが出来なかったので、その後は奇妙な沈黙が流れる。感情が昂りすぎたせいで涙目になってしまった葵は目元を拭い、それからキリルを睨みつけた。
「もうやだ!! こんなこと二度としないで!」
「はあ? さっきお前、キスでも何でもしろって言っただろ!」
「その方がマシだってくらい緊張したんだよ!!」
「あ、そう、かよ……」
怒鳴りつけられているので喜んでいいものか迷ったらしく、キリルは微妙な返答を寄越してきた。もう自分でも何を言っているのか分からず、葵は携帯電話を拾うと立ち上がってキリルに背を向けた。そのまま走り去ろうとしたのだが、それはキリルによって止められてしまう。
「待てよ!」
「やだ! 離してよ!!」
「いいから聞け! 明日、絶対オレが勝つからな! 勝ったらキスするから覚えとけ!」
「!!?」
何故そういうことになるのかと、愕然とした葵は思わず振り返ってしまった。そして真剣な表情をしているキリルに出会い、絶句する。冗談などではない。彼は本気だ。
「さ、サイッテー!!」
恥ずかしさと憤りで頭に血が上ってしまった葵は他に叫びようがなく、キリルの腕を強引に払うと今度こそ逃げ出した。
葵にサイテーだと叫ばれて逃げられた後も、キリルはしばらく雪が降る中に佇んでいた。校舎の方に向かって走り去って行った葵の姿は、もう見えない。だが先程の出来事を思い返しているうちに次第におかしさがこみ上げてきて、キリルは口元を綻ばせた。
「なに一人で笑ってるの? 気持ち悪い」
どこからか棘を含んだ声が聞こえてきたので、キリルは真顔に戻って顔を傾けた。そこにウィルの姿を認めたキリルは急にばつが悪くなって、苦々しく顔をしかめる。
「見てたのかよ」
「うん。キルがアオイに迫ってるところとか、全部ね」
わざわざ詳細まで報告してくる嫌味っぷりに、キリルは小さく舌打ちをした。しかしすぐ、ウィルの表情がいつもと違うことに気付き、真顔に戻る。
「……怒ってんのか?」
「そりゃね。あんなの抜け駆けでしょ」
「お前、どこまで本気なんだよ」
ウィルはおそらく、葵のことが好きだから付き合いたいと言っているのではない。彼とは長い付き合いなので、そういった話をしたことがなくとも、キリルにはそれが分かっていた。だが予想に反して、ウィルは真面目な表情のまま全て本気だと言ってのける。それから不意に、彼は微笑みを浮かべた。
「さっきキスがどうとか言ってたけど、それって僕が勝ったらアオイにキスしてもいいってことだよね?」
「はあ!? 何だそれ!」
「だってキルは、勝負に勝ったらアオイにキスするんでしょ?」
有言実行する気は満々だったので、そう言われてしまうとキリルには返す言葉がなかった。まんまとキリルを黙らせたウィルは極上の笑みで、明日が楽しみだねなどと言う。そのまま彼が言い逃げをしたので、その場には「ふざけるな!」というキリルの怒声が響き渡ったのだった。
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