「ウィルが来たで」
トリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスターの一人であるウィル=ヴィンスは、今日という休日を共に過ごす相手だ。試練の始まりを告げられた葵は、自分の頬を軽く叩いてからクレアに頷いて見せた。
「じゃあ、行ってくるね」
「うちもジャマしに行くさかい、心配せんでもええで」
「うん。ありがとう」
クレアに笑顔で手を振り、葵は一人で寝室を後にした。二階の隅にある寝室からしばらく廊下を歩くと、踊り場のある立派な階段に辿り着く。その下はエントランスホールになっていて、ウィルは玄関扉の前で葵を待っていた。
「おはよう」
葵に気がつくと、ウィルは平素と変わらぬ様子で声をかけてきた。朝のあいさつを返しながら階段を下りた葵は、少し体を強張らせながらウィルの傍に寄る。葵の出で立ちを見て、ウィルは約束の通りだと言って微笑んだ。
「行こう」
ウィルが手を差し伸べてきたので、葵は頷いてから彼の手に自分の手を重ねた。この世界では「行こう」と言われて手を差し伸べられるケースは、大抵が転移魔法を使う時である。ウィルの申し出も例に漏れないもので、彼は葵の手を握ると転移の呪文を唱えた。
ウィルが葵を連れて移動したのは、屋外ではなくどこかの部屋だった。広々としているその部屋は窓が大きくとられていて、室内のいたる所に観葉植物が置かれている。窓は開いていなかったが、扉が開け放たれているためか、屋内だというのに風が吹いていた。
「ここ、どこ?」
葵が首を傾げながら問うと、ウィルは自分の部屋だと答えた。さらには寝室として使用している部屋だというので、葵はギョッとする。しかし身構えた葵をよそに、ウィルはまったく態度を変えることなく魔法で紅茶を淹れ始めた。
「何もしないから、身構えるだけ徒労だよ」
葵の考えを正確に読み取った上で否定すると、ウィルは座りなよと言ってきた。彼が男女交際に一切の興味がないタイプであることを知っている葵は、変に意識しすぎた自分を恥じながら頷く。しかし周囲を見回しても、ウィルの部屋には普遍的な『椅子』というものが見当たらなかった。
「座るって、もしかしてコレ?」
葵が指差したのはハンギングチェアのような物なのだが、それは天井から吊るしているのでも支えになるような土台があるのでもなく、籠の部分だけが宙に浮いていた。ウィルが頷いたので、葵は恐る恐るその椅子に腰かけてみる。見た目は不安定で危険な感じがしたが、いざ座ってみると心地が好かった。
「あ、これいいかも」
その椅子は籐のような素材で編まれているので、植物の独特な香りがする。それがなんとも言えずナチュラルで、肌触りも自然の香りも気に入った。
「ウィル、センスいいね」
「この部屋は気に入ってるから、そう言われると悪い気はしないね」
「でもさ、ここって寝室なんでしょ? どこで寝てるの?」
見渡す限り、室内にはベッドのような物は置かれていない。葵が発した疑問に、ウィルは空を仰ぐだけで答えとした。その視線の先を辿ってみると、飛び石が螺旋階段のようになって天井に伸びていて、その先にハンモックが吊るしてあるのが見て取れる。室内に吹いている風で穏やかに揺れているそれは、葵に快適な眠りを予感させた。こだわり方が半端ではないと、葵は感心しながらウィルに視線を戻す。
「あそこで寝ると、すごく気持ち良さそうだね」
「アオイも寝てみる?」
本音を言えばハンモックで寝てみたいと思ったが、ここがウィルの部屋であることを考えると簡単には頷けなかった。それにこの部屋は天井が高いので、葵の場合はハンモックから落ちたら転落死してしまいそうだ。
「怖いから、いい」
苦笑してそう言った後、葵は寝惚けて落ちたりしないのかと尋ねてみた。葵にティーカップを渡しながら口を開いたウィルは平然と、そういうこともたまにあるのだという。葵は話を聞いているだけで恐ろしい気分になったが、ウィルはやはり眉一つ動かさなかった。風の魔法を得意としている彼ならば、そういった事態にも簡単に対処出来るのだろう。
「今日は何するの?」
話が一段落したのを機に尋ねてみると、ウィルは葵がいた世界のことを聞きたいと言ってきた。それが昼食を終えた後まで続いたので、彼は初めからまともなデートをする気などなかったのだろう。それならそうと言ってくれれば、あんな勝負をしなくとも済んだのに。そう思った葵は念のため、釘を刺しておくことにした。
「あのさ、こうやって個人的に話したいっていうんだったらいつでも話するから。もう勝負とかしないでね」
「それはキル次第、かな」
「どういう意味?」
「それより、話の続きを聞かせてよ。バラージュが生きてるかもしれないって、どういうこと?」
話は生まれ育った世界のことから最近の話題に変わっていたが、それでもウィルは貪欲に情報を得ようとする。その熱意は尋常ではなく、葵は搾り取られているような感覚を抱きながら説明を続けた。
「アオイにとってアルヴァ=アロースミスってどういう存在なの?」
「え?」
唐突な問いかけをされた葵は即答することが出来ずに、少し考えを巡らせてからウィルを見た。
「何だろう?」
「考えた末にそれ?」
いくらでも答え様はある質問だろうと、ウィルは呆れ顔になって言う。しかし葵にとってアルヴァ=アロースミスという青年は特殊な存在で、それを的確に表現出来る言葉が見当たらなかったのだ。葵がいつまでも悩んでいると、沈黙に見切りをつけたウィルが言葉を重ねた。
「愛してるの? 彼のこと」
「は?」
「そういうわけじゃないみたいだね」
愛してもいない男のためによく戻って来られたねと、ウィルは言う。言葉はきつかったが嫌味ではないようで、その口調に棘は含まれていなかった。そのまま淡々と、ウィルは話を進める。
「今でも帰りたいと思ってるの?」
「思ってるよ。だからバラージュのこと調べてるんじゃん」
「そう」
そこで話を切ると、ウィルは送って行くよと言い出した。そろそろ喋るのにも疲れてきていたので、葵はありがたいと思いながら立ち上がる。ウィルも椅子から下りて、こちらに近付いて来た。
「アオイ、ちょっと後ろ向いて」
唐突な申し出は意味が分からないものだったので、葵は首を傾げながら言われた通りにした。するとウィルが、チェックのミニスカートをめくるという暴挙に出る。驚きのあまり何をされているのか認識出来ずにいた葵は動きを止めていたが、下着をズラされるとさすがに悲鳴を上げた。その直後、開きっぱなしになっている扉の陰から五つの人影が室内に雪崩れ込んで来る。先頭から順にキリル=エクランド、オリヴァー=バベッジ、クレア、ユアン=S=フロックハート、アルヴァだ。
「てめぇ、何しやがった!!」
怒りの形相でウィルに詰め寄ったのはキリルで、彼は胸倉を掴もうと腕を伸ばしたのだが、それはウィルに躱されてしまう。ふわりと宙に浮いたウィルは涼しい顔つきのままキリルの問いに答えた。
「こんなに保護者がいたら何も出来ないよ」
「うそつけ!! だったらさっきの悲鳴は何なんだよ!!」
キリルがウィルを捕まえようと悪戦苦闘している間に、クレアが葵の傍に来た。背後に回した手でスカートを押さえている葵を見て、クレアは眉をひそめながら口を開く。
「尻でも触られたんか?」
触られたというよりは下着を脱がされかけたような感じで、葵はふと、そんなことをしたウィルの真意を察した。
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