key person

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 坩堝島滞在一日目は、まったく収穫がなく日没を迎えた。すでに夕食も済んで、あとは明日に向けて寝るだけなのだが、クレアに二人きりで話したいことがあると呼び出されたため、葵は浜辺で一人、ぼんやりと月を眺めていた。冬の間、ゼロ大陸の空は昼夜を問わず厚い雪雲に覆われているが、ここは南国のような気候なので雪は降らない。雲も切れていて、青味の強い月明かりが夜の海を静かに染め上げていた。

(波の音……)

 生まれ育った世界にいた時は海から遠い場所に住んでいたので、潮騒を聞いて思い出されるのは二月が浮かんでいるこの世界で体験したことばかりだ。歩き疲れて眠かったというのもあって、葵は夢心地に世界を旅した時のことを思い返していた。だから背後で物音がした時、思わずアルヴァの名前を呼びながら振り返ってしまった。

「……キリル?」

 そこに佇んでいたのはアルヴァでも、待ち合わせ相手であるクレアでもなかった。小さく呟いた葵の声は聞こえなかったようで、キリルは無言で近寄って来る。ふと我に返った葵はアルヴァの名前を呼んでしまったのを彼に聞かれなくて良かったと思った。他の男の名前など呼んでしまったら、嫉妬深い彼は怒っていただろう。

(って、別に彼氏じゃないんだから)

 本当はそんなことで、キリルに怒られる謂れなどない。自分もキリルも気にしすぎなのだ。そう思った葵は苦笑いでキリルを迎えた。

「何? どうしたの?」

「話がしたい」

「話? いいけど、クレアと待ち合わせしてるから」

 クレアが来たら、そちらを優先する。葵は事前にそう伝えておいたのだが、キリルがクレアは来ないのだと言う。その一言で、葵はクレアに呼び出された本当の理由を察した。

(やっぱりクレア、キリルの肩持ってるなぁ)

 何故急にそんなことになってしまったのか、今度尋ねておかなければならない。葵がそんなことを考えているうちに腰を落ち着けたキリルは話を始めた。

「帰るのかよ」

「ん?」

「別の、世界に」

「……ああ、そのことね」

 キリルには何度も伝えたような気がするのだが、彼の中では現実味を帯びた話ではなかったらしい。そうでなければ改まって、こんな話を切り出したりはしないだろう。もう一度ちゃんと言っておいた方がいいと思った葵は月を仰いでから言葉を重ねた。

「私の生まれ育った世界ではね、月って一つしかなかった。だから夜空に月が二つ浮かんでるのを見ると、ここが異世界なんだなって実感する」

 召喚された当初は二つ並んで夜空を彩っている月を見るたび、きれいだと思いながらも郷愁に駆られていた。今は夜空を仰いでもあの時ほどの胸騒ぎはしないが、それでも生まれ育った世界に帰りたいという思いは確固たるものとして胸の中にある。キリルには分からないかもしれないが、郷愁とはそういうものなのだ。

「帰るよ。帰れるように、なったらね」

 その時がいつになるかは分からないが、一度帰ってしまえばキリルとも二度と会うことはないだろう。彼がどんなに自分のことを想ってくれていようと、その事実は変わらない。葵は以前からそう思っていたので特別な感慨などはなかったのだが、キリルは顔を歪めた。

「オレは……どう、すればいい?」

「それを決めるのはキリルでしょ?」

「……分かった。今、決めた」

「え……?」

「オレもお前の世界に行く」

「ええっ!?」

 それは即決するような内容ではないし、葵が望んでいる結果でもない。何故そんなことになってしまうのかと葵は驚愕したが、キリルは至って真面目な顔で葵を見ていた。明るすぎる月明かりが表情の細部まで映し出していて、キリルの強すぎるまなざしに気後れした葵は思わず身を引く。

「ちょっと……待ってよ。そんな、簡単な問題じゃないでしょ?」

「簡単になんか決めてねーよ」

「ウソだ! 絶対その場の思いつきで決めた!」

「違うって言ってんだろ!」

「だって、私の世界のことなんて全然分かってないじゃん!」

「だったら教えろよ! お前が生まれた世界のこと」

 キリルが言葉の途中で声のトーンを落としたので、言い合いはそこで終了した。葵も冷静になろうと思い、深呼吸をしてから再びキリルに向き直る。

「あのね、私がいた世界には魔法なんてないの。私はない所からある所に来たからまだいいけど、この世界の人が私の世界に来るなんて絶対無理だよ」

 特にキリルは、魔法を自在に使えるおかげで何不自由なく暮らしてきた貴族である。彼から魔法を取り上げてしまったら、キリルは何も出来ないただの『お坊ちゃん』になってしまうのだ。葵が生まれ育った世界はそんな異世界人が暮らしていけるほど甘い所ではない。それに葵の場合はこの世界の権力者に召喚されたのでまだ何とかなったが、生まれ育った世界に戻ってしまえば葵はただの女子高生なのだ。着いて来られたとしても、面倒など看られない。

「とにかく、無理。どう考えてもそんなの絶対無理だから」

「何で決めつけんだよ。やってみなきゃ分からねぇじゃねーか」

「やらなくても分かるよ! だから、お願い。変なこと考えないで」

「オレはお前と一緒にいたいんだよ!!」

 そのために必要なら、異世界に行くくらいどうということもない。キリルがそこまで言ってのけたので、さすがに葵もあ然とした。

「だ、だって……そんなの、恋人でもないのに……」

 片思いの相手を追いかけてまったく違う世界に飛び込むなど、無謀以外の何物でもない。しかし射るように見据えてくるキリルのまなざしは真剣なままで、彼が本気であることを如実に物語っている。とても見ていられなくて、葵は両腕で抱えた膝に顔を埋めた。

「……バカじゃないの? そんなことしたって、いまさら……」

 キリルには理不尽に殴られたり、道具のように扱われたり、今まで散々な目に遭わされてきた。それが必ずしも彼の本意ではなかったと知っているのでもう恨んではいないが、全てを水に流せてしまえるほど軽い過去でもない。たとえ彼が決死の覚悟で生まれ育った世界を捨てたとしても、心は変わらないだろう。そう思っていたのに、それでも傍にいたいのだと言われ、葵の心は今までにないほど揺れ動いた。だが自分の動揺もキリルの暴挙も、認めるわけにはいかない。

「もう、ほっといてよ。これ以上困らせないで」

「困らせたくて言ってるんじゃねーよ」

「でも困るの! もういい加減、私のことは諦めて!」

「だから! 出来ねぇって言っ……」

 カッとなったのか、キリルが腕を伸ばしてきた。肩を掴まれた葵はビクリとして、それまで膝に埋めていた顔を上げてしまう。葵の顔を見た瞬間、勢い込んで手を出してきたキリルは動きを止めた。それが何故か分かっている葵は口元を手で覆い、キリルの腕を払って立ち上がる。しかし走り去ろうとする思惑は、キリルによって制されてしまった。

「こっち向け」

「やだ! 顔見たらコロス!」

「そ、そんなにか」

「嫌なの! 離してよ!!」

「……嫌だ」

 このままずっと、触れていたい。キリルが恥ずかしげもなくそんなことを言うので、腕を捕まえられている葵の方が体温が上がってしまった。いっそ海にでも飛び込んで、頭を冷やした方がいい。爆発しそうな頭の片隅で葵がそんなことを考えていると、キリルが切なげな声を発した。

「好きなんだ」

「っ……!」

 もう無理だと直感した葵は全力でキリルを突き飛ばし、その後はひたすら浜辺から遠ざかろうとして走った。初めから息が切れていたせいで長い距離は走れなかったが、振り返って確認してもキリルが追って来ているような様子はない。それでようやく人心地ついた葵はその場に勢い良くしゃがみこんだ。

「助けてぇ」

 誰に向けてのものでもなかったが、葵は小さな声で一人ごちた。胸も頭も、もうパンクしてしまいそうだ。

 キリルが何をしてもその思いに応えられないと思うのはおそらく、この特殊な状況と大貴族の息子で学園のアイドルなどという特異な人物像のせいだ。好意を向けてくれる相手がもしも同じ学校に通う普通の男子高校生だったら、ここまで悩まなかっただろう。

(こんなのもうやだ。普通の恋愛がしたいよぉ)

 出来ることなら初恋まで遡って、生まれ育った世界でやりなおしたい。そんな不毛なことを考えながら、葵はしばらく一人で悶えていた。






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