(ウィル、いるかな?)
マジスター達はシエル・ガーデンに集っていることが多いが、必ずしもそこにいるというわけでもない。今朝はハズレで、シエル・ガーデンに行ってみても誰の姿もなかった。他に校内で思い当たる場所と言えば、校舎の五階にあるサンルームくらいだ。そこへ行こうと踵を返した葵は隠された通路を通ってシエル・ガーデンの外へ向かっていたのだが、その途中で目的の人物と遭遇した。
「ウィル」
「おはよう」
「こんな所で何してるの?」
「そろそろ来る頃だと思って、待ってたんだ」
ウィルの発言には主語がなかったが、それが自分のことだとすぐに察した葵は閉口する。帰り道で会うあたり、偶然なのか故意なのかは分からないが、どちらにしても嫌な感じだ。
「結論は出た?」
「その前に、聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「この世界の結婚って式を挙げて、王族にあいさつに行かなきゃならないんでしょ? それ、やっぱりやるの?」
「結婚式は挙げてもらうけど、王室への挨拶は僕が正式な爵位継承者になってからだよ」
王族への挨拶はすぐにということではないとウィルは答えたが、葵にはそれがどういうことなのか分からなかった。首を傾げていると、ウィルは自ら説明を加えてくる。
「すごく不本意なんだけど、現在の爵位継承者はマシェルなんだ。だから王室への挨拶は、僕があいつから継承権を奪った後ということになるね」
マシェル=ヴィンスはウィルの双子の兄弟で、トリニスタン魔法学園の本校に通っている。本校に通うことはそれだけで爵位継承者の証となるらしいのだが、それを奪うとは穏やかではない。やはりウィルは葵を手に入れた後、葵が有する強力なコネクションを存分に利用するつもりなのだろう。それは葵側から見れば周りに迷惑をかけるということに他ならず、ただでさえ進まなかった気がさらに重苦しいものになっていった。
「……結婚した後は、どうなるの?」
「どういう意味?」
「一緒に暮らしたりとかするの?」
「もちろん。アオイには僕の傍にいてもらわないと」
「…………」
「そんなに怖がらなくても、優しくするから大丈夫だよ」
ウィルが唐突に予想外の科白を口にしたため、驚いた葵は反射的に彼から遠ざかった。葵の反応を見て、ウィルは本気とも冗談ともつかない微妙な笑みを浮かべている。その態度は大いに葵の不安を煽った。
(ちょっと、待って)
葵は最初からこの結婚が契約だけのものだと思い込んでいたが、ウィルは本気で『夫婦』になろうとしているのではないだろうか。そうなってくると考え方も心構えもまったく違ったことになってくる。返事をする前にちゃんと確かめておいた方がいいと思い、葵は恐る恐る口火を切った。
「あ、あのさ、結婚したらキスとかしたりするの?」
「アオイ、何言ってるの?」
そんなことは当然だろうと、ウィルはあっけらかんと言い放つ。葵は驚きのあまり、開けた口が塞がらなくなってしまった。
「まあ、無理強いはしないつもりだけどね。そんなのは僕のガラじゃないし」
「ちょっ……それ、思いっきり矛盾してるから!」
そもそもウィルは結婚を無理強いしているのである。そんな卑怯な真似をする人物の言うことなど信じられないし、信じようという気にすらならない。葵がそう捲くし立ててもウィルは平然としたまま言葉を重ねた。
「でも、僕と結婚してくれないと生まれ育った世界には帰れないんだよ?」
「…………」
「一生縛り付けておくつもりはないから、その点は安心してよ。少なくとも十年くらいは、僕の妻でいてもらうようだけどね」
「十、年……?」
その数字はウィルにとっては大したことがないものでも、葵にとっては絶望的な長さだった。ただでさえ十年は長いというのに、この世界と葵が生まれ育った世界では時間の流れ方に差異があるのだ。暗算では細かな計算までは出来なかったが、おそらくこの世界の十年は故郷では一年にも満たないだろう。行方不明ということになってから一年も経っていない世界に、この世界で十も歳を重ねてしまった自分が帰れるのだろうか。
「……分かった。結婚、する」
しばらく沈黙した後、葵は決断を下した。葵が結婚の申し出を受け入れたことで、ウィルの表情が一変する。それは彼らしくもなく純粋に喜びを湛えたものだったのだが、虚ろに目を伏せた葵の瞳にはウィルの変化が映らなかった。
額に軽く口づけた後、ウィルは葵の体を引き寄せた。優しく抱きしめられても、そこに安らぎはない。結婚を承諾してしまった以上、これからは幾度も空虚な気持ちを味わうことになるだろう。それでもいつかは生まれ育った世界に帰れるのならと、葵はやりきれない思いを抱きながらウィルに体を委ねた。
校舎の三階にある三年A一組の教室で、クレアは頬杖をつきながら授業を受けていた。机の上には一応魔法書を広げていたが、視線は教室の前方にあるブラックボードにではなく、窓の方に向いている。窓の外では相変わらず大粒の雪が降っていて、視界を白く染めていた。
教壇に立っている老齢の教師の声を聞きながらしばらくぼんやりしていると、肩に乗っているマトが不意に動きを見せた。何かと思って教室の方を振り向くと、何故か生徒達が一様に廊下の方を見ている。その理由を、クレアはすぐに知ることになった。教室の後方にある扉が開いて、キリルが姿を現したからだ。
マジスターの来訪によって授業は中断し、女子生徒からは甲高い歓声が上がった。キリルが何のために訪ねて来たのかはすでに察していたため、クレアは素早く席を立つ。こちらへ来ようとしていたキリルに目で合図を送ると、彼と連れ立って教室を出た。
「アオイに会いに来たんか?」
校舎の五階にあるサンルームまで移動してから、クレアはキリルに向き直って話を始めた。キリルが頷いたので、クレアは短く息を吐く。
「会いに来るんはええけど、今度から授業中に来たらあかんで?」
「何でだよ」
「さすがに教師が可哀想やわ」
「知るか」
「そないな態度は良くないわ。大貴族の息子やからって他人を見下してええことにはならん。それになぁ、男は優しい方が女の子に好かれるで」
「……マジか」
「マジや。キリルが優しくなったらアオイも見直すと思うで」
葵の名前を持ち出すとキリルは口をつぐみ、真剣な面持ちで頷いて見せた。キリルが素直に意見を聞いてくれたことに満足し、クレアは話題を変える。
「アオイやったら保健室や。せやけど、アルと顔を合わせるとまたケンカになるやろ? 今は行かない方がええわ」
「……またあいつかよ」
アルヴァの名前を聞いた途端、キリルはムッとして忌々しげに言葉を吐き出した。すでに喧嘩腰なキリルの態度にクレアは小さく肩を竦める。
「怒ったら負けやで。寛大な男になってアオイに頼ってもらえるようにならなあかん」
「あいつ、何に悩んでんだよ?」
「それはうちにも分からん。聞いてみたんやけど、何もないって言われてしまったさかいな」
今朝は明るく振る舞っていたが昨日までの様子を見る限り、そう簡単に解決するような悩みとも思えない。おそらくは心配をかけないようにと、気を遣っているのだろう。クレアはそういった相手から無理に話を聞き出すことはしないが、葵の態度を少し寂しく感じていた。
「悩みがあるんやったら言うてくれればええのになぁ」
「なんだよ、落ち込んでんのかよ?」
「落ち込むっちゅーほどやないけど、友人としては少し寂しい気がするわ」
「元気、出せ」
キリルから投げかけられたのは思ってもみなかった言葉で、クレアは驚きのあまり彼の顔を凝視してしまった。視線に気がつくと、キリルは嫌そうな表情を作る。
「なに見てんだよ」
「おたく、変わったなぁ」
「うるせぇ! 変なこと言うな!」
キリルはそっぽを向いてしまったが、ふてくされている横顔が心なしか赤い。こんな一言で照れてしまうあたりは相変わらずだが、彼は恋を知って確実に変わった。もっとキリルのこういった一面に触れられれば、葵もきっと認識を変えるだろう。今はそういった機会があまりないことを惜しみながら、クレアは笑顔でキリルの背中を押した。
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