トリニスタン魔法学園のアステルダム分校があるパンテノンという街では、丘の下の平地に街並みが広がっている。この街は比較的規模が大きく、日用品から
飲食関係の店が立ち並ぶフォースアベニューの雑踏に、アステルダム分校の生徒である少女が一人、歩いていた。重い足取りで一軒のカフェに入って行った黒髪の少女の名は宮島葵という。高級感漂う店内で店員に待ち合わせであることを伝えると、葵は店の奥へと案内された。どうやらVIPルームであるらしいその部屋で、葵を待っていた少年の名はウィル=ヴィンス。彼はにこやかな笑みを浮かべて葵を迎えたが、浮かない顔をしている葵は早々にウィルから視線を外し、空席に腰を落ち着けた。だがウィルは気にせず、平素と同じ調子で口火を切る。
「遅かったね」
「歩いて来たから」
葵が住んでいる屋敷は郊外にあって、徒歩で街まで来ようとすると片道二時間くらいはかかってしまう。この世界には時計がないので詳しい時間は分からないが、今日は嫌々歩いていたので実際はもっとかかっていたかもしれない。ウィルはかなり待ったのかもしれないが、それでも彼は嫌な顔をせずに話を続けた。
「クレアに送ってもらえば良かったのに」
ウィルが何気なく発した一言を、葵は意外に思った。確かに転移魔法で来れば一瞬だが、同居人であるクレア=ブルームフィールドに出掛けることを言えば、必ず『どこへ行くのか』と訊かれるだろう。そうなると、ウィルと会う約束をしていることも言わなければならなくなる。それは事情を話してもいいということなのか確かめると、ウィルは含み笑いを浮かべた。
「もうアオイは頷いてくれたわけだし、交換条件のことさえ言わなければ話してもいいよ?」
ウィルの返答は「言うな」と言っているのと同じことであり、葵はため息をついた。
「じゃあ、まだ言えないよ。ウソつく自信もないし」
「それなら、明日からは僕が迎えに行くよ」
明日は特に大事な日だからねと言うと、ウィルは席を立った。少し休みたかったのだが言い出すことが出来ず、葵もウィルの後に従う。店を出るとウィルが手を差し出してきたので、葵は少し躊躇してから彼の手を取った。転移魔法でも使うのかと思いきや、ウィルはそのまま雑踏を歩き出す。手を引かれて歩きながら、葵は妙な気分だと顔をしかめた。
「大事な日って、何?」
「明日、僕の両親に会ってもらおうと思って」
「……えっ?」
「結婚の報告をしなきゃならないから」
昨日の今日でいきなりそんな話になってしまうのかと、葵は眩暈がしてきてしまった。今日はこれから、明日のためのドレスを新調しに行くのだと知って、目の前が暗くなっていく。同時に結婚という言葉の重みが、改めて心に圧し掛かってきた。
(ほんとに、結婚するんだ……)
一度は諦めたはずなのに、嫌だと思う気持ちが胸の中で膨らんでいく。それはドレスを選んでいる時にピークに達し、試着室で自分の姿を見た葵は鏡に額を押し付けた。
(バカみたい)
心の中には別の人が棲んでいるのに、好きな人とは違う人のために着飾っている。華やかなドレスを身に纏っていることも、この期に及んで報われない恋情を抱いている相手を脳裏に浮かべてしまうことも、全てが滑稽に思えて仕方がなかった。何もかも白紙に戻してしまいたいなどと考えると、その考えすらもバカバカしくて涙が出そうになる。しかし昨日さんざん泣いたため、葵は愁情を振り払った。
(泣いたって、どうにもならない)
何もかもがどうにもならない状況であるのなら、せめて一日でも早く故郷に帰れるよう努力をするだけだ。それ以外は考えるなと自分に言い聞かせていると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「着替え終わった?」
「いいよ、入っても」
入室を許可するとウィルが姿を現した。彼はドレス姿の葵を見ると柔らかな笑みを浮かべ、似合ってるよと言いながら近付いて来る。傍に来るなり額にキスを落とされたので、葵は前髪の上からおでこに手を当てた。
(なんか……ウィルが違う)
葵の知っているウィルは女の子の容姿を褒めたり、気軽にスキンシップを許すようなタイプではない。演技なのか何なのか分からなかった葵がじっと見ていると、視線に気付いたウィルが話しかけてきた。
「なに見てるの?」
「いつもと違うから、何だろうって思って」
「アオイの言う『いつもの僕』ってどんな感じ?」
「…………」
冷徹で底意地が悪くて、利己主義。頭に浮かんだのはそんなイメージだったので、口にすることは出来なかった。しかしウィルは沈黙から正しい答えをすくい上げたようで、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。
「言ったでしょ? 優しくするって」
脅迫していることを抜きにすれば確かに、ウィルの態度は平素に比べるとかなりソフトなものになっている。一度約束をしたことに関してはそれなりの対応をすることにしているのだというウィルの意見を聞いて、葵は久しぶりに元クラスメートの顔を思い出した。
ウィルは以前、葵のクラスメートだったシルヴィア=エンゼルという少女とデートをしたことがある。その時もおそらくは、今のような接し方をしていたのだろう。学園で見せる冷徹さと女の子に優しく接する顔にはかなりのギャップがあるため、シルヴィアは自分がウィルにとって特別な存在なのだと思い込んでしまった。ウィルが片思いの相手だとすればそれも仕方がなかったのかもしれないと、葵は今更ながらに納得した。
「……ウィルってズルイね」
「知らなかったの?」
シルヴィアのことは口に出していないにも関わらずウィルが的を射た答えを返してきたため、葵は呆れた。
「何の話かも聞かずに、よくそんなこと言えるよね」
「じゃあ、何を思ってそんなこと言ったのか聞かせてよ」
「シルヴィアのこと、思い出しただけ」
「誰、それ?」
「…………」
自分が退学に追いやった者のことをいとも簡単に忘れてしまえるのは、やはり彼が酷薄だからだろう。利用価値がなくなれば自分もこんな風に忘れ去られていくのか。そう考えると、葵は次第に腹が立ってきた。むっつりと黙り込んだ葵を見て、ウィルは不思議そうに首を傾げる。
「なに怒ってるの?」
「別に。怒ってないよ」
「怒ってるじゃない」
「怒ってないってば!」
声を荒らげてしまってから、葵はハッとした。余人のいない試着室にいるとはいえ、ここは一応店の中なのだ。口論などしていたら恥ずかしい。
「アオイ」
声をかけられたので振り向くと、ウィルは冷ややかな目でこちらを見ていた。少し怒っているようなその表情は初めて見るもので、葵はドキリとする。
「な、何?」
「怒った理由、ちゃんと説明して」
威圧するように見据えてくるウィルの目が怖かったので、葵は俯きながら考えていたことを白状した。話が終わると抱き寄せられたため、葵はウィルの腕の中で目を瞬かせる。何も反応を返せずにいると、ウィルが優しい口調で言葉を紡いだ。
「同じじゃないから」
葵には言葉の意味が分からなかったが、ウィルは真意を説明しようとはしなかった。体を離すと、彼はニコリと微笑んで見せる。
「こういうの、痴話ゲンカみたいでいいね」
「……どこが」
痴話ゲンカなどという可愛らしい話ではないし、いいとも思えない。そう感じた葵が呆れた声を発しても、ウィルは笑顔のままだった。彼がこれほどニコニコしているのは珍しく、葵はまじまじとウィルの顔を見る。するとまた、額にキスを落とされてしまった。
「口唇に、キスしてもいい?」
「だ、ダメ!!」
「分かった。じゃあ、まだしない」
口では「しない」と言いつつもウィルが顔を近付けてきたため、葵は身を引く。しかし素早く腰に手を回されてしまったので完全に逃れることは出来なかった。キスはしないまでもかなりの至近距離でふと、ウィルは真顔に戻って言葉を重ねる。
「もう他の男にはさせないでよね。そんなことしたら、許さないから」
射るようなまなざしを向けてくるウィルの瞳の奥には、理解出来ない昏さがあった。ゾッとした葵が素直に頷いて見せると、ウィルは体を離して表情を和らげる。
「他のドレスも試着して見せてよ」
店員に持って来させるからと言うと、ウィルは試着室を出て行った。扉が閉まるのと同時に脱力した葵は、その場にペタンと座り込む。
(こ、怖い……)
ウィルには何か、得体の知れない怖さがある。逆らわない方が良さそうだと改めて痛感した葵は二の腕を抱き、震えを止めようと歯を食いしばった。
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