世界の壁を越えて

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 もう間もなく冬が終わろうとしている、秘色ひそくの月の二十六日。朝起きてカーテンを開けると、窓の外は久しぶりの光で満ちていた。この世界では冬の間は一日中雪が降り続くことも稀ではなく、太陽が顔を覗かせることの方が珍しい。晴れた朝は曇りが除かれた心にも相応しく、奇遇だと感じた宮島葵は寝室からテラスに出てみた。

(ん〜、気持ちいい)

 伸ばしてみた体も、深く吸い込んだ朝の清涼な空気も心地がいい。しかしネグリジェだけでは寒かったので、葵はすぐに室内へと引き返した。すると同居人であるクレア=ブルームフィールドの姿があったので、傍へ寄る。

「おはよう」

「外に出てたんか?」

「うん。久しぶりに晴れたから、気持ち良さそうだと思って。でも寒かった」

「当たり前や」

 まだ冬なんだとクレアが念を押すように言うので、葵は笑って同意した。その後、クレアに注視されていることに気がついて、葵は首を傾げる。

「何?」

「今朝はやけにスッキリした顔しとるな」

「ああ、うん。問題が解決したからね」

「せやったら、もう何があったか話せるんか?」

「それが、言えなくなっちゃった。ごめんね?」

 葵が拝むように手を合わせると、クレアは呆れ顔になった。しかしさっぱりした性格の彼女はいつまでも引きずらず、すぐに話題を変える。

「さっきユアン様から連絡があったんや。今日は一緒に、研究室へ行くで」

 ユアン=S=フロックハートが立ち上げた研究室は王城内にあって、そこでは召喚魔法に関する研究が行われている。しかし召喚の理由までは聞いていないようで、何故研究室に行くのかと尋ねてもクレアから答えは得られなかった。この世界には時計というものがないので、待ち合わせは時間によるかっちりしたものではない。特に急ぎというわけでもなさそうだったので、葵とクレアはいつものように朝食を取ってから王城に向かった。

 クレアと共に王城内の廊下を歩いていると知り合いがいたので、葵は足を止めた。向こうもこちらに気がついて、ゆっくりと歩み寄って来る。葵達の前に立ったのは全体的に色素が薄い青年。彼は名を、ローデリック=アスキスという。

「おはようございます」

 葵が朝の挨拶をすると、ローデリックは頷いて見せてからクレアに目を向けた。

「そちらの少女は?」

「私の友達のクレアです。クレア、こっちはローデリックさん」

 葵は自然な流れでクレアにローデリックを紹介したのだが、ローデリックは何故か咳払いをしてから言葉を紡いだ。

「わたしのことはアスキスと呼ぶように」

「? はい。じゃあ、そうします」

「よろしい」

 今度は端然とした態度で頷いて見せると、ローデリックはクレアに視線を移した。

「わたしはローデリック=アスキスという。フェアレディの教育係をしている者だ」

「初めまして、アスキス様。わたくしはクレア=ブルームフィールドと申します」

 クレアがユアンの使用人をしていることを明かすと、ローデリックは彼女のことを凝視した。少しそうしてから、ローデリックはクレアから目を離さないまま言葉を次ぐ。

「紅茶を淹れるのが巧みだという使用人か?」

「巧みであるかどうかは分かりませんが、ユアン様やレイチェル様にはよくお出ししております」

「では、おそらく其方のことだな。レイチェルが絶賛していた」

「光栄です」

「今度、わたしにも味わせてくれるか?」

「喜んで」

 クレアとの形式ばった話はそれで終わったようで、ローデリックは再び葵に目を向けてきた。

「今日は何用だ?」

「研究室に呼ばれてるんです」

「そうか。引き止めてすまなかったな」

 時間があれば用事が済んだ後にフェアレディの元を訪れて欲しいと言い残して、ローデリックは去って行った。彼の白い姿が遠ざかって行くと、それまでキリッとした表情をしていたクレアが途端に顔を緩める。

「アスキス様、カッコええなぁ」

「出た。絶対クレアのタイプだと思ってたよ」

「なんや、文句でもあるんか? カッコええもんをカッコええって言うて何が悪いんや」

「別に文句はないよ。ただ最近、クレアのタイプが分かってきたような気がして」

 美貌はもちろんのこと、立ち振る舞いも洗練されている大人の男がクレアのストライクゾーンなのだろう。そうなってくると必然的に、貴族が多くなる。葵がそう指摘すると、真顔に戻ったクレアも同意を示した。

「言われてみると確かに、カッコええと思ったんは貴族が多いかもしれへん。せやけど、別に身分にこだわっとるわけやないからな?」

「うん。分かってるよ」

 貴族の他にも、クレアをして『カッコイイ』と言わしめた男はいた。猫をかぶっていた時のアルヴァや、葵とクレアが以前に住んでいたアパートの管理人などがそうだ。彼女が身分にこだわらないのは、カッコイイと思ったからといって何かを望むわけではないからだろう。葵と同じで単に、ミーハーなのだ。

(クレアが本気で好きになる人って、どんな感じなんだろう)

 そういった話もしてみたかったがハル=ヒューイットの顔が思い浮かんでしまったため、葵は胸中だけに留めておいた。代わりに、少し気になっていたことを尋ねてみる。

「何でローデリックさんって呼んだらいけないんだろう?」

「そら、親しくないからやろ」

 貴族同士ではあっても余程親しくなければ名前では呼び合わない。クレアが当然のことのように言うので、葵も納得した。

「アオイの世界ではそういう風習はなかったんか?」

「ううん、あったよ。ただ、この世界に来てから色んな呼び方されてるから、感覚がマヒしてきてるみたい」

「まあ、アオイの場合はしゃーないわな。アスキス様も非礼やって思っとるっちゅーより照れ臭いような感じやったし、あんまり気にすることないんやないか?」

「……あれ、照れてたのかな?」

 もしそうだとすれば少し可愛いなどという話をしながら、葵とクレアは研究室に向かった。目的の場所に到着すると見知った人達が勢揃いしていたので、葵は目を瞬かせる。室内には葵達を呼び出したユアンの他、彼の家庭教師であるレイチェル=アロースミス、トリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスター達、そしてアルヴァ=アロースミスに数人の研究員がいた。

「体調はどうですか?」

 真っ先に話しかけてきたのがレイチェルだったので、葵は彼女に疑問を投げかけてみることにした。

「もう大丈夫。それより、この集まりは何?」

「今朝方、ウィルから連絡をもらいまして」

 ウィル=ヴィンスはレイチェルに、葵・クレア・ユアン・アルヴァを集めて研究室に来て欲しいと言ったのだという。その言葉に従って来てみれば、アステルダム分校のマジスターも揃っていた、というのが現状らしかった。発起人がウィルであるということに不安を覚えた葵は、仲間と話をしている彼の方を見る。すぐに視線を察したようで、ウィルがこちらに歩み寄って来た。

「これで全員揃ったね」

「ウィル……何する気?」

「何って、彼を呼び出すんだよ」

 話が聞きたいでしょうと、頬に湿布のようなものを貼っているウィルは笑顔で言う。昨日の名残は頬の傷だけで、態度も口調もすっかりいつものウィルに戻っていた。これから何が起こるのか察した葵が息を呑むと、ウィルは人が集まっている場所から少し離れて呪文の詠唱を始める。

「我が血肉に刻まれし盟約よ。ウィル=ヴィンスの名において契約の履行を命ずる。英霊、召喚」

 ウィルが呪文を唱え出したのを機に、その場の視線は彼に集中していた。呪文が終わると、今度はその視線がウィルの側方へと移動する。そこには召喚によって姿を現した褐色の肌の英霊が、虚ろな面持ちで空に浮かんでいた。






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