「彼の名はバラージュ=バーバー。後はもう、説明することなんてないよね?」
ウィルがその場にいた者達に英霊の名を告げると、驚かなかったのは葵とハル=ヒューイットだけだった。驚愕のためにしばらく間があった後、真っ先に口を開いたのはオリヴァー=バベッジだ。
「どういうことなんだよ」
困惑気味に問いかけたオリヴァーに続いて、キリル=エクランドも眉根を寄せながらウィルに詳しい説明を求めている。しかしウィルは、詳しい説明は後だと二人の疑問をばっさりと切り捨てた。
「アオイ、話していいよ」
ウィルにそう言われた葵はとりあえずバラージュの傍に行ってみたが、いざ話をしてもいいという状況になると、何から話せばいいのか分からなかった。英霊となった彼を船上で見た時はただただ驚きしか湧いてこなかったが、こうして改めて見てみると、バラージュが非常に暗い表情をしているのが気にかかる。伏せられたままの目は眼前に佇む葵を捉えることもなく、何も映してはいないようだった。
葵がなかなか口を開けずにいると、ユアンが隣にやって来た。一度ウィルを見てから、ユアンはバラージュに視線を移して口火を切る。
「はじめまして」
ユアンが声をかけると、それまで無反応だったバラージュが伏せていた目を上げた。陽光を浴びた海のようなグリーンの瞳が、ユアンの姿を捉える。バラージュのくちびるは動かなかったが、彼の意思は声となってその場に届いた。
『人王、か』
「はい。あなたが生きていた時より千年ほど後の、ですが」
『何故、私を眠らせておいてはくれなかったのだ』
蘇りたくなどなかったのにと、バラージュの意思が悲痛に訴えかけてくる。その思念からは絶望と深い悲しみが感じられて、葵は痛み出した胸を手で押さえた。光の差さない海の底で見た光景が蘇ってくる。バラージュの発言から察するに、あんな所に封印されていたのは彼自身がそれを望んだからなのだろう。そうまでして召喚されまいとしていた彼を、自分達は呼び起こしてしまったのだ。
「……ごめんなさい……」
罪悪感に苛まれた葵が小さく呟きを零すと、バラージュの目がこちらを向いた。葵の姿を認めたバラージュは眉根を寄せ、静かに語りかけてくる。
『異世界の者か』
「はい。たぶん、マツモトヨウコさんと同じ世界から来ました」
おそらくは『マツモトヨウコ』という名に反応して、バラージュの顔つきが変わった。彼が驚愕していたので、葵は続けてレムというヴィジトゥールから話を聞いたことを明かす。レムが千年ほど後の世界でもまだ生きていることを知ると、バラージュは嘆息したように見えた。
『レム……半人半魚の娘……まだ、生きていたのか』
自分が人間として生きていた時代のことを思い出したのか、バラージュの独白はしみじみとしたものだった。彼から発せられている重苦しい感情が少しだけ和らいだので、葵はホッとしながら言葉を続ける。
「ヨウコさんは元の世界に帰ったんですよね? 私も帰りたいんです。その方法を教えてください」
『その話の前に、一つ聞きたいことがある』
「何ですか?」
『恋人は、いるのか?』
「え……」
バラージュから思ってもみなかった質問をされたため、葵はドキリとした。この話の流れで何故、そんな質問が飛び出してきたのだろう。意図が分からないまま、葵は小さく首を振る。するとバラージュは「安心した」と呟いたのだった。
『もう誰にも、私と同じ思いはしてもらいたくない。だから私は、私自身と共に召喚魔法を封じたのだ』
「えっと……意味が、よく……」
「初めから、全て話してもらえませんか?」
突然自身のことを語りだしたバラージュに葵が困惑していると、ユアンが助け船を出してくれた。ユアンの提案に応じたバラージュは目を閉ざし、過去に何があったのかを話し出す。
『私はレムやヨウコを初め、様々な世界の者達を召喚した。その中には生まれ育った世界に帰りたいと望んだ者もいた。その者達のために、私は送還魔法を完成させることにしたのだ』
だが送還魔法はすぐには完成せず、少しばかり時間がかかった。その間に、バラージュはヨウコのことを愛し始めてしまったのである。そしてヨウコも、共に暮らしていたバラージュに特別な感情を抱き始めた。
『そして、私達は恋人になった。だが私は、ヨウコを愛するべきではなかったのだ』
バラージュにとってヨウコとの生活は、ただ幸せなものだった。しかしヨウコにとってはそうではなく、彼女は幸せでありながらも郷愁に苦しめられていた。そして最終的に、ヨウコは選択を迫られることになる。生まれ育った世界を捨てて愛に生きるか、愛を捨てて家族や友人の元へ帰るか。苦しみぬいた末に彼女が下した決断は、生まれ育った世界に帰るというものだった。
『私達はお互いに、死に等しい苦しみを味わった。そしてようやく、気がついたのだ。世界の壁を越えることに意味などなく、異世界に生まれついた者とは出会わぬ方が幸せなのだと』
だから元の世界に帰りたいと言った者を送り届けた後、バラージュは自身の研究と共に我が身を葬ったのだという。もう二度と、異世界人同士が出会わないようにするために。二度と、自分のように傷つく者が生まれないために。そうした話を聞いて、実際に異世界人である葵は重苦しい気持ちで納得した。
いつかは生まれ育った世界に帰るのだから、この世界の人を好きになってもどうしようもない。その思いはこの世界に召喚された時から、常に頭の片隅にあった。違う世界に生まれついた者同士が添い遂げるためには、どちらか一方が必ず何かを捨てなければならないのだ。それは決して、幸せな恋愛の形とは言えないだろう。だが、共通の認識を持っている葵やバラージュに反論する者がいた。
「勝手に決めてんじゃねーよ」
バラージュに食ってかかったのはキリルだった。何を言い出すのかと、葵は驚きながら彼を見る。その場の視線を一手に集めたキリルは、しかし周りのことなど気にもせず、バラージュだけを見据えて言葉を続けた。
「会わなかった方が幸せだってのは、お前一人の意見じゃねーか。みんな同じみたいな言い方すんじゃねぇよ」
『苦しんで別れた方が幸せだったと言うのか?』
「ちげぇよ! そんなに好きだったんなら何で着いて行かなかったって言ってんだ!」
キリルが怒声を発するとバラージュは沈黙した。おそらく、考えなかったわけではないだろう。しかし結果的に、彼はその考えを実行しなかった。それは愛が足りなかったとか、そういう問題ではない。現実的な選択をしたバラージュを責めることは出来ないだろう。そう思った葵は尚も食ってかかろうとしているキリルを止めに入った。
「キリル、やめて。前も言ったけど、異世界に行くって簡単なことじゃないんだよ」
「オレだって前に言っただろ! お前が違う世界に行くっていうんなら、オレはお前に着いて行く!」
「ちょっ……! やめてよ、こんな人前で!!」
「うるせぇ!! オレはお前が好きなんだ!」
「キル、落ち着けって!!」
キリルが公衆の面前で告白の言葉を怒鳴り散らしたところで、オリヴァーが止めに入って来た。興奮が収まらないキリルが部屋の外に連れ出されて行くと、室内には異様な沈黙が流れる。それを破ったのはウィルだった。
「あなたも、ああいう風にバカになれたら良かったんじゃない?」
ウィルに話しかけられたバラージュは辛さと笑みを綯い交ぜにしたような表情を浮かべ、目を伏せてしまった。ふわりと宙に舞ったユアンがバラージュの傍へ行き、俯いている顔にそっと手を伸ばす。
「あなたの苦しみや辛さは分かります。でも、出会わなければ良かったなんて悲しいことを言わないで下さい。出会いは何かを生み、それはきっと、いつまでも心に残りますから」
自分がバラージュと出会えて良かったと思えるように、遠く離れてしまったヨウコの心にもバラージュへの想いは残っているはずだ。ユアンがそう言って慰めると、バラージュの頬に涙が伝った。英霊が流す涙は魂の叫びそのもので、彼の感情がその場にいる者達に伝播していく。葵が感じ取ったのは深い愛情と、それと同じくらい深い愁情だった。
『私の研究は全て、あなたに託す。だからもう、眠らせてくれ』
「はい。もう二度と、あなたが召喚されないことを約束します。だからどうか、安らかに眠ってください」
ユアンが手を引くとバラージュは深々と頭を下げ、そして揺らめきながら姿を消した。
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