世界の壁を越えて

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 あと数日で冬が終わろうとしている秘色ひそくの月の二十七日。その日はクレアが朝から仕事だったため、葵は一人でトリニスタン魔法学園に登校した。久しぶりに歩きで丘の上に建つアステルダム分校に登校したため、息を弾ませながら校舎の一階にある保健室へと向かう。目的地に辿り着くとアルヴァに水をもらって、ベッドに腰を落ち着けた葵は一息ついた。

「わざわざ歩いて来なくても、言ってくれれば迎えに行ったのに」

 疲れを癒している葵を見て、アルヴァが呆れた様子で話しかけてくる。歩きたい気分だったのだと言って、葵はその話を終わらせた。

「アル、パーティーのこと聞いた?」

「パーティー? 何の?」

 葵はユアンかレイチェルあたりからすでに聞いているだろうと思っていたのだが、眉根を寄せているアルヴァはまだ知らないらしい。パーティーの目的と日時、親睦会が行われるに至った理由まで説明すると、アルヴァは真顔で「分かった」とだけ言った。

「ところで、ミヤジマ」

「うん?」

「ウィル=ヴィンスに結婚を迫られていたっていうのは本当の話なのか?」

 アルヴァが不意にその話題を持ち出してきたので、足を自分で揉んでいた葵はピタリと動きを止めた。

「誰が、そんなこと言ったの?」

「昨日、ウィル=ヴィンスから聞いた。真実なのかどうか、知りたい」

「ああ……ウィルが言っちゃったんだ」

 一瞬、ハルが誰かに言ったのかもしれないと思った葵は、ウィル本人が明かしたのだと聞いて意外に思った。ウィルにとってこの話は、あまり口外したくない類のものだろう。それなのに何故、それほど仲がいいとも思えないアルヴァに打ち明けたのか。そんなことを考えていると答えるのが遅れてしまい、アルヴァは勝手に納得したようだった。

「その口ぶりからすると事実、なんだね?」

「まあ、もう済んだことだから」

 大事にはしたくないので黙っていてくれるように頼むと、アルヴァは怪訝そうに眉根を寄せた。

「バラージュを召喚して欲しければ結婚しろって言われたんだろう? そこまでされて何故、許してしまえるんだ?」

「だって、結果的にはウィルのおかげで帰れることになったわけだし。それに、結婚したいっていうのもフリだけじゃなかったっていうか……」

「どういうことだ?」

「私のこと、好きなんだって言ってくれたの」

「あの、ウィル=ヴィンスが?」

 ギョッとしているアルヴァがやたらと『あの』を強調して言ったので、その気持ちが分かるような気がした葵は苦笑いを浮かべた。

「意外、だよね。ウィルがそんな風に思ってくれてたなんてビックリしたよ」

「そ、それで? ミヤジマは何て答えたんだ?」

「え? フツウに断ったけど?」

 アルヴァがどもるのは珍しく、葵は不思議に思いながら視線を傾けた。一瞬、動揺した顔を見せたものの、目が合うとすぐにアルヴァは真顔に戻る。葵は首を傾げたが、挙動不審の理由については語られなかった。

「聞くまでもないことかもしれないけど、断った理由は?」

「ウィルのこと、そういう対象としては見れないから」

「それが、一番大きな理由だったのか?」

「っていうと?」

「バラージュが言っていたことが一番のネックなのかと思ってた」

「ああ……」

 異なる世界に生まれついた者同士は恋人になってはならない。確かにそれも理由の一つだと、葵は神妙な表情で頷いた。

「アルはさ、バラージュが言ってたことどう思った?」

「僕は道理だと、思ったよ」

「私もそう思う。でも、キリルの意見を否定することも出来ないなぁって思った」

「それは……キリル=エクランドの同行を許すと言っているのか?」

「そうじゃないけど、気持ちってどうにもならないものじゃない?」

 他人からいくらダメだと言われても、自分でも望みがないと分かっていても、好きだと思う気持ちは止められない。今回の結婚騒動で改めて、葵はそのことを実感していた。想いが叶わなくても諦めることも出来ないのなら、想い続けるしかないのだ。時が経ち、別の誰かを好きになる、その時まで。

 ぼんやりとハルのことを考えていたら不意に物音がしたので、葵はそれで我に返った。アルヴァの方に顔を傾けてみると、彼は何故か立ち上がっている。しかしその場を動くことなく、アルヴァは再び椅子に腰を落ち着けた。

「アル?」

 不審な動作を目撃した葵が怪訝に思いながら問いかけると、アルヴァはデスクに肘を突いて掌に顔を押し当てた。何の仕種だろうと思いながら眺めていると、アルヴァからは「何でもない」という答えが返ってくる。深いため息をついた後、アルヴァは顔を上げた。

「ミヤジマ、やはり僕と付き合わないか?」

 アルヴァの言う『付き合う』は、その振りをするということである。坩堝島に行く前にそういった提案をされていたので、葵は特に驚くこともなく話に応じた。

「心配してくれるのは嬉しいんだけど、ごめん。それはいいわ」

「でも、キリル=エクランドを説得出来るの?」

 バラージュに食ってかかった時の様子から察するに、キリルの決意は固そうだ。アルヴァがそう言うので、同じことを思っていた葵は苦笑いを浮かべた。

「一応、話してみるつもり。話が通じるかどうかは分からないけど」

「それなら、やはり既成事実を作ってしまうのが手っ取り早いと思うけど?」

「うーん、そうなんだけど……気持ちの問題がね」

「気持ちの問題?」

「私、まだハルのこと好きみたい。それが分かっちゃったから、振りでも誰かと付き合うのは難しいかなって」

 ハルの名前を出した途端、アルヴァの表情が険しくなった。硬質さを崩さないままに、アルヴァは改めて口火を切る。

「ミヤジマ、分かってるとは思うけど本気の恋愛は……」

「うん、分かってる。別にハルと付き合いたいとか考えてるわけじゃないから、安心して」

 葵はもうすぐ、生まれ育った世界に帰るのである。そんな状況でこの世界の人と付き合うようなことになれば、バラージュの二の舞になる。バラージュから伝播した悲哀はちゃんと胸の奥に沈んでいて、葵の心を戒めていた。それに……と、葵は苦笑したまま言葉を重ねる。

「もう思いっきりフラれてるんだから。ハルとだけはそんなことにならない自信があるよ」

「……そんな辛い自信は早く捨てた方がいい」

「私もそう思う。でもまあ、あとちょっとのことだから」

 明るく笑って、葵は腰かけていたベッドから下りた。その動作を追って、アルヴァが椅子に腰かけたまま見上げてくる。

「行くの?」

「うん。話聞いてくれてありがと」

「そんなの、いつものことじゃないか。辛くなったらすぐ来るように」

 真顔のアルヴァが冗談めいたことを言うので、葵は笑顔で頷くと保健室を後にした。人気のない廊下で扉を後ろ手に閉めると、その手をそっと胸に当てる。トクントクンと、自分の心臓の動きが掌に伝わってきた。

(ハル……)

 初恋の相手は未だに、脳裏にその姿を浮かべただけで胸をときめかせてしまう。この世界ではもう、彼以上に好きになるような人とは出会えないだろう。それは生まれ育った世界に戻っても同じことかもしれない。初恋はそれくらい特別なのだ。

 今は、この気持ちを大切にしたい。同じ世界にいられる時間があと少しであるからこそ、葵はそう思っていた。






 来訪者が去って保健室が静けさを取り戻すと、アルヴァは椅子の背もたれに体重を預けて体をのけ反らせた。そんな風にして空を仰いだのは、脱力してしまったからだ。

(ミヤジマの気持ちなんて、知っていたことじゃないか)

 学園に通い始めた当初から、葵はハルのことが好きだった。想いは叶わず他に恋人を作ったりしたこともあったが、結局は忘れられなかったということなのだろう。その長い片思いを、一時は成就させようとしたこともある。それなのに心がぐらついているのは、アルヴァの気持ちが変わってしまったからだ。

(まいったな……)

 おそらくはハルのことを考えて遠い目をしていたであろう葵を、艶やかだとさえ思ってしまった。そう感じてしまった次の瞬間には体が勝手に動いていて、あの時は危なかった。共に過ごせる時間はあとわずかだというのに、今失態を演じるわけにはいかないのだ。そんなことを考えていたらふと、ウィルに言われた科白が蘇った。

(卑怯者、か)

 自分も卑怯だがアルヴァはそれ以上に卑怯だと、ウィルには真顔で罵られた。あの時は意味が分からなかったが、ウィルが葵に対して特別な感情を抱いていたのだと知った今なら、その意味が分かるような気がする。好きな人を自分のものにしたいと思って行動を起こした彼は、そのやり方こそ卑劣ではあっても、ある意味では潔いと言えないこともなかった。

 ウィルから言われたことを思い返しているうちにアルヴァはもう一つ、彼の言葉で理解出来なかったものに納得がいった。今はまだ、アルヴァにキリルを止める権利などない。その言葉が自分を煽ろうとしているものなのだと気がついて、体を起こしたアルヴァはため息を吐いた。

(僕に、どうしろっていうんだ)

 確かに葵を愛しているが、想いを伝える気などない。それなのに周りが煽るから、心が揺れてしまうのだ。自分が都合のいい相手と葵がうまくいくよう仕向けていた時、彼女もこんな気分だったのだろうか。その報いを今受けているのかもしれないと思ったアルヴァは苦々しく顔を歪め、重苦しい嘆息をしながら髪を掻き上げた。






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