保健室を出た後、葵は校舎の東にある
「一人?」
ぎこちなくならないよう心がけながら声をかけると、ウィルは傍へやって来た葵をじっと見てきた。その視線にドキリとしてしまったのは告白を断ったことへの罪悪感があるからだ。あれからそう何日も経っているわけではないので、やはりまだ二人きりだと気まずさがある。しかし彼にも聞きたいことがあったので、葵はさっさと座ってしまうことにした。
「ケガ、治ったんだね」
「アルヴァ=アロースミスに治してもらったんだ」
「そういえば、ユアンがそんなこと言ってたかも」
「あの人、何か言ってた?」
「……あのこと、アルに話したんだね。他のマジスター達も知ってるの?」
オリヴァーはともかくとして、キリルがこのことを知ったら大変なことになる。怒り狂うキリルが容易に想像出来たため、葵は恐る恐る尋ねたのだが、ウィルはキリルとオリヴァーには言ってないと答えた。
「ハルに、口止めしたんだってね」
「口止めっていうか、出来れば言わないでねって頼んだだけだけど……」
「それを口止めっていうんだよ。何でそんなことしたの?」
「だって、私のせいでマジスターが気まずくなったらイヤだし。それに、キリルに言ったら大変なことになるでしょ?」
暴走したキリルがウィルを相手にどこまでするかは分からないが、とにかく大変なことになることだけは間違いない。それを止めるのはおそらくオリヴァーで、そうなってくると彼にも迷惑がかかる。葵がそう言うと、ウィルは皮肉げな笑みを浮かべて見せた。
「お人好しだね。そんなところ、好きだったよ」
「えっ……」
「なに狼狽えてるの? ちゃんと過去形で言ったでしょ?」
「…………」
葵は黙るより他なかったが、内心ではいつものウィルに戻ったとホッとしていた。そうした胸中が表情にも出てしまったのか、ウィルは葵を見て意地の悪い笑みを浮かべている。だがからかうような言葉はもう出てこなかったので、赤面した葵はウィルを軽く睨んでから話題を変えた。
「何でアルにだけ話したの?」
「あの人が僕以上に卑怯者だから」
いい気味だとウィルは笑っていたが、葵にはまったく意味が分からなかった。ただ、やはりアルヴァの話題はタブーなのかもしれないと思って早々に話題を変える。
「あの後、やっぱり怒られた?」
「あんな形で醜態を晒せばね。仕方がないよ」
「マシェルは大丈夫だった?」
「あいつなら本校に戻ったよ」
退学にはならなかったらしいと知って、葵は胸を撫で下ろした。何より気になっていたのが彼のことで、巻き込まれただけのマシェルが厳罰を受けでもしたら申し訳が立たないと思っていたのだ。ハルの不法侵入もどうやらバレていなかったようで、ウィルからそのことを聞かされた葵は再びホッとした。
「まさかハルに邪魔されるとは思わなかったよ。助けてって、ハルに言ったの?」
「そうじゃなくて……異世界の友達と話してるところを偶然聞かれちゃったんだよ」
「へぇ。助けも求められてないのに、勝手に動いたんだ?」
「それはウィルのためでしょ?」
ハルは乞われても、あまり自分から動くタイプではない。そんな彼があそこまでしたのは長年の友情のためだろう。いい友達がいて良かったねと、葵はウィルに微笑みかけた。しかしウィルは異論があるのか、うんともすんとも言わない。
「……ねぇ」
しばらくの沈黙の後、ウィルは席を立ちながら声をかけてきた。何故立ち上がったのかと、葵はウィルの行動を目で追いながら話しに応じる。
「何?」
「一回くらい、キスさせてくれない?」
「はあ!?」
甚く突飛なことを言い出されて、葵はあ然とした。冗談なのか本気なのか、ウィルは真顔で近寄って来る。葵は逃げ出そうとしたのだが、ウィルに肩を掴まれて圧力をかけられてしまった。浮かそうとしていた腰が再び椅子に張り付いてしまったため、葵は上半身だけ後退する。
「ちょっと……、冗談だよね?」
顔を引きつらせた葵の問いかけに可愛らしい笑みで答えると、ウィルは額に口唇を寄せてきた。あまりの早業に、抵抗する間もなかった葵はポカンとする。
(な、何だ……)
額へのキスくらい、ウィルにはすでに何度かやられている。この程度のことなら身構えることもなかったと思ったのも束の間、耳元でウィルが囁きを零した。
「キルやハルともしたんだから、一回くらいいいでしょ?」
「えっ!? 今ので終わりじゃないの!?」
「まさか」
「ちょ……!!」
ウィルが顔を近付けてきたので、焦って身動いだ葵は椅子から落ちてしまった。大理石の床にへたり込んだ葵と目線を合わせるように、ウィルもしゃがみ込んでくる。真正面から見据えられ、葵は反射的に手で口元を覆った。
「手、退けて」
「む、無理!」
「一回だけさせてくれたら、それで終わりにするから」
初めての恋の思い出が欲しいのだというウィルが浮かべた表情は、実に寂しげな笑みだった。からかわれているわけではないと知って心が動いてしまった葵は「ちょっと待って」と言い置いて、そっぽを向く。
(き、キスくらい……)
ウィルが気持ちの整理をしたいと言うのなら、協力してあげたいと思うくらいの憐憫は胸の中にある。もうファーストキスでもないのだから、大したことではないのだ。そう自分に言い聞かせて、葵はウィルに向き直った。一回だけだと何度も念を押してから、目を閉じる。しかしそうすると、ハルの顔が浮かんできてしまった。
(や、やっぱり……)
無理かもしれない。そう言おうかと迷った刹那、肌に口唇の感触が降ってきた。しかしそれは、かなり口唇に近い位置ではあったものの口唇には触れていない。驚いて目を開けると、ウィルがいつもの笑みを浮かべていた。
「そんな泣きそうな顔されたらいい思い出にならないよ」
だからこれでいいと、ウィルは柔らかな口調で言う。ウィルに対してもハルに対しても申し訳ないような気持ちになって、葵は本当に泣きたくなってしまった。
「ごめん」
「じゃあ、もう一回させてくれる?」
今度は額でいいからと言うので、葵は泣きたいような笑いたいような複雑な表情を浮かべた。頷くことはしなかったが肯定と受け取ったらしく、ウィルは葵の前髪を掻き分けて口唇を寄せてきた。その直後、背後から叫び声のようなものが聞こえてくる。誰かが来たことに焦って振り返ると、最悪なことに姿を現したのはキリルだった。
「お、お前ら……今、何……」
「何って、キス」
ウィルがあっさりと答えると、すでに体を戦慄かせていたキリルは怒りを爆発させた。葵はウィルに護られたが、美しく咲き誇っていたシエル・ガーデンの花々は一瞬にして灰となってしまう。久しぶりに魔力を暴走させたキリルは怒りの形相でウィルを睨み、彼に殴りかかった。
「ぶっ殺す!!」
葵をその場に残してウィルが空に舞ったので、キリルもそれを追って行く。シエル・ガーデンに来た本来の目的はキリルと話をすることだったのだが、今はとても無理だと思った葵は逃げ帰ることにした。
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