「アルは何してたの?」
アルヴァは葵に、夜の学園で何をしていたのかと尋ねてきた。しかしよくよく考えてみれば、病み上がりのはずのアルヴァがこんな時分に学園にいることの方が、不自然に思える。平素は整然としている保健室が、やけに散らかっているのも気になった。探し物でもしていたのかと付け加えると、アルヴァは小さく首を振って見せる。少し迷うような素振りを見せてから、アルヴァは答えを口にした。
「校医を辞めようと思ってね。それで、部屋の整理をしていたんだ」
アルヴァの返答は、予想もしていなかったものだった。初め、彼が何を言っているのか分からなかった葵はポカンとしていたが、そのうちに言葉の意味が呑み込めてくる。少し遅れて、葵は驚きを露わにした。
「辞める、の?」
「そう。明日からは別の校医が来ることになってるから、もうレイチェルが来ることもない」
「そう、なんだ……」
保健室にいる時、アルヴァはいつもスーツのようなカッチリした恰好の上に白衣を着用していた。それは学園が休みの日であっても夜間であっても変わることがなかったのだが、今の彼はラフな私服姿である。その違和感に納得のいった葵は相槌を打ったが、同時に寂しさを覚えていた。
(アルもレイもいない保健室なんて、考えられないな)
この場所の扉を開けば、そこにはいつもアルヴァの姿があった。最近では病欠の彼に代わってレイチェルがいたが、白衣姿の彼女は見事保健室に溶け込んでいた。そんな彼らがいなくなり、明日からは別の誰かがこの部屋の主になる。慣れ親しんだ場所が、まったく別の空間になってしまうのだ。それは想像するだけで切なく、悲しい。
「そんなに調子、悪いの?」
アルヴァが校医を辞める理由を、葵は療養の延長線上に考えていた。しかしアルヴァは、体は大丈夫なのだと言う。それならば、彼が辞める理由は何なのだろう。そう思ったが、葵は疑問を口にすることはしなかった。口を噤んだ葵に代わって、アルヴァの方から話しかけてくる。
「訊かないんだね」
「ん?」
「僕が校医を辞める、理由」
「ああ……。だって、言いたくないんでしょ?」
すぐに言えるようなことならば、アルヴァはとっくに答えているだろう。こんな風にはぐらかすということは、何か言いにくい理由があるのだ。それならば無理に聞かなくてもいいかと、葵は思ったのだった。だが葵の返答を聞いたアルヴァは、何故か深々と嘆息する。
「さすがだね」
「いや、さすがも何も……見れば分かるでしょ」
今のアルヴァは明らかに、平素の彼ではない。それは誰の目から見ても明らかだろうに、アルヴァは葵がさも聡いように言う。改めて心配になって、葵はまじまじとアルヴァを見た。
「アル、ほんとに大丈夫?」
「大丈夫じゃないのかもしれないね。でも、大丈夫と言えるようにならないと」
「何それ」
「皮肉な巡り合わせだと、思っただけだよ」
意味を理解させようとしない返答を寄越して、アルヴァは自嘲気味に笑んだ。反応のしようがなかった葵が黙り込むと、それに気づいたアルヴァは表情を緩める。そして何かを諦めた様子で、真意を語り出した。
「本当は言わないつもりだったんだ。でも、こうして出会ってしまった。だから、話さなければならないんだと思う」
「えっと、保健の先生を辞める理由のこと?」
「そう。聞いてくれる?」
「う、うん」
アルヴァが妙に改まったので、葵の体にもわずかな緊張が走った。葵の返答を聞いてからは間を置かずに、アルヴァは言葉を重ねた。
「君が好きなんだ」
「…………は?」
どれだけ深刻な理由なのかと身構えていた葵は、予想さえもしていなかった言葉を聞かされて呆気にとられた。目を剥いて、口を大きく開けたからなのか、アルヴァが口元を押さえて笑い出す。またいつものからかいだったのかと、葵は憤慨した。
「もういい」
「ミヤジマ、待って」
怒った葵が背を向けると、アルヴァは冷静に制してきた。歩き出そうとしていた足は止めたが、まだ怒りは残したままで、葵は再びアルヴァを振り返る。
「真面目に聞こうと思ったのに。ふざけないでよ」
「ふざけてないよ。ミヤジマの反応が、あまりに予想通りだったから」
思わず笑ってしまったのだと、アルヴァは悪びれもせずに言う。そして彼は、穏やかな笑みを残したまま話を再開させた。
「さっきの言葉は本心だよ。ミヤジマの傍にいるのが辛いから、校医を辞めることにしたんだ」
「……へえ」
「信じてないね?」
「アルのそーゆー態度に、今までさんざん騙されてきたからね」
「そうだね。僕がそうさせてきた」
近付きすぎず、離れすぎず。いつの頃からか、アルヴァとはそういう関係を築き上げてきた。だから今更、異性としては見られない。それを共通の認識だと、葵は思っていた。だからアルヴァも、悪ふざけのように口説く真似が出来るのだ。それなのに、アルヴァはまだその話を続ける。
「ミヤジマがずっとハル=ヒューイットを好きだったことは、たぶん僕が一番よく知ってる。心変わりが期待出来ないこともね。だから距離を置こうと思うんだ。この学園のマジスター達は優秀だし、僕がいなくても問題ない」
手玉にとられて悔しい思いをしているのに、自分がいなくても大丈夫と言い切られるのは悲しかった。だがそう言ってやるのも癪で、葵はそっぽを向く。子供じみた反応にか、アルヴァは微苦笑を浮かべた。
「これが最後なんだから、そんなに怒らないでもらいたいな」
「……最後?」
「校医を辞めても何かあれば力を貸すし、永遠に会えなくなるわけじゃない。ただ、二人で会うのは今日で終わりにしようと思う」
「何で?」
「気持ちが抑えきれなくなるから」
真顔で答えて、アルヴァは席を立った。空気の変化に困惑した葵は眉根を寄せたまま、近付いて来るアルヴァを見据える。手が届く距離で足を止めると、アルヴァは葵を引き寄せた。耳元で小さく、ごめんと呟く声が聞こえる。その幽かな謝罪も、痛いほど力を込められた腕も、震えていた。
「ミヤジマ……、」
掠れた声で何度も、半ば無意識のように、アルヴァは葵の名を繰り返した。感情が溢れすぎて名前を呼ぶのが精一杯といった必死さは、好きだと言われた時よりもよほど雄弁に彼の気持ちを伝えてくる。縋りつくように抱かれて、葵はようやく理解した。自分がこんなにもアルヴァに愛され、求められていたことを。
「……アル……」
息苦しさに喘ぎながら、呼吸が自然と彼の名前を呼んでいた。だが動かしかけた腕は、アルヴァの突然の行動によって制される。両肩を押される形で体が離れて、葵は我に返った。アルヴァは顔を伏せていて、前髪で隠された表情は見えない。そのまま顔を見せることなく、彼は背を向けた。
「まだ片付けが残っているから帰ってくれないか」
それまで激しく求められていたことが幻だったかのように、アルヴァから発されたのは冷たい声だった。反射で頷いた葵はゆっくりと後ずさり、保健室を出る。扉を閉めると、その後は全速力で夜の校舎を走り抜けた。
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