好き、純情

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 パンテノンの街でオリヴァーやウィルと別れた後、葵はオリヴァーの描いてくれた地図を片手に道なき道を歩いていた。道なき道とは言っても、それは草むらにある獣道のようなものではない。大地が平坦で草木がなく、ただどこまでも同じ景色が続いているのだ。

(すごい所にあるなぁ)

 この世界で言う地図は性能のいいカーナビゲーションのようなものなので、地図さえ持っていれば、道に迷うことはない。それでも街並みが途切れてからは、本当にこのまま進んでいいものか不安になるほど、周囲には何もなかった。街中にある魔法陣からハルがいるという邸宅までは、二時間ほどだっただろうか。やっぱりオリヴァーに送ってもらえば良かったと後悔し始めた頃、葵は目的地に到着した。

 どこからが敷地なのかよく分からなかったが、屋敷に近付くとすぐ、まだ若そうな執事バトラーが迎えてくれた。ハルの友人だと告げた葵を、バトラーは応接室と思しき場所に案内する。そこでしばらく待っていると、眠そうな顔をしたハルが姿を現した。

「ごめん、寝てた?」

 ウィルやオリヴァーと別れてパンテノンの街を出たのが夕方頃だった。それから二時間くらい歩いて来たので、日はすっかり沈んでしまっている。寝るにはまだ早い時分ではあるが、ハルの顔が明らかに平素より眠たげだったので、葵はひとまず謝っておいた。そのことについては触れず、ハルはどうしたのかと尋ねてくる。どう答えるべきか少し迷って、葵は素直な気持ちを言葉にすることにした。

「ちょっと、会いたくて」

 ハルとは昼間、別れたばかりだ。それなのにもう会いたくなるなんて……と、平常時であれば躊躇したかもしれない。だが今は羞恥心以上に、ハルの顔を見れた安堵が強い。なんだか泣きそうだと、葵は口唇を引き結んだ。

「……部屋、行く?」

 ハルが応接室では座らなかったため、葵はその提案に頷いた。ハルが寝室としているらしい部屋は葵が借りている部屋と同じくらいの広さがあり、調度品や寝具などがアースカラーで統一されている。落ち着いた雰囲気の室内で、ハルはベッドの際に腰かけた。適当に座ってと言われたため、葵はハルの隣に腰を下ろす。そしてそのまま、ハルの肩口にもたれかかった。

(……好き、)

 触れた体温が心地良くて、胸の奥底から気持ちが湧き上がってくる。そこには純粋な恋愛感情と同じくらいの罪悪感が混在していて、葵は再び泣きそうになった。

(好き、なのに……)

 保健室でアルヴァに抱きしめられた時、葵は無意識のうちに腕を伸ばそうとしていた。アルヴァが突き放してくれなければきっと、彼を抱きしめていただろう。アルヴァの弱さが、愛おしかった。狂おしいほど求められて、嬉しかった。その想いに応えてあげたいと、思った。結果的には何もなかったが、これを浮気と言わずして何と言うだろう。

(ハル……、ごめん)

 相手がアルヴァでなければ、あんな気持ちにはならなかっただろう。しかし言い訳をしたところで、心が揺らいだ事実は誤魔化しようがないのだ。幸いなことに何もなかったので、この罪悪感は独りで抱えていくことになる。付き合った後の方が言えないことが増えていくと、葵は重苦しい胸中で呟いた。

 頭を肩口に預けたまま葵が悶々としていると、ハルの指が不意におとがいを這った。顔が持ち上げられるのと同時に口唇が重なったので、葵は甘んじて身を委ねる。しかしそのうちに、予期せぬ事態に陥った。

(あ、あれ……?)

 いつの間にかベッドに体を沈められていて、見上げる位置にハルの顔がある。そこで初めて、葵は自分が置かれている状況に思い至った。夜の時分、恋人の部屋で二人きり、さらにはベッドでキスを交わしていたりすれば、この後に続くであろうことを疑いようもない。

 早すぎないかと、一瞬そんな考えが脳裏をよぎった。しかしこういうことはムードの問題で、付き合った長さなどは関係がないのかもしれない。加えて、そういう状況に持っていってしまったのは自分なのだ。いまさら心の準備が出来ていないからなどと言うのは無粋ではないだろうか。

(……ハルは、好きな人なんだから)

 好きでもない相手に強引に迫られるのとは、訳が違う。怖くないと言えば嘘になるが、嫌ではないはずだ。そう思った葵は覚悟を決めて目を閉じた。それを合図にしたかのように、再び口唇を塞がれる。今度は少し、艶めかしい口付けだった。

 ハルが何も言わないので、静かな室内には衣擦れの音と互いの呼吸音だけが聞こえていた。普段は何事にも無関心な様子でいるくせに、ハルは意外と慣れている。想像以上に慣れすぎていたから、なのかもしれない。脚に触れられた刹那、葵は肌を粟立たせた。

「い、いやあ!!」

 気が付けば口から叫びが零れ、ハルの胸を力任せに押し返していた。突き飛ばされたような形で尻餅をついたハルは、瞬きを繰り返している。その呆然とした顔を見て、葵は自分が何をしたのか察した。

「あ、ご、ごめ……」

 とっさに謝ろうとしたものの、もつれた舌はまともな言葉を紡いでくれなかった。羞恥と罪悪感で頭に血が上ってしまい、ベッドを飛び降りた葵は走り出す。ごめんなさいと叫んだが、ハルに届いたかどうかは確かめられなかった。それから後のことは、よく覚えていない。気が付けば、見慣れた屋敷の前に佇んでいた。天空に浮かんでいる二月が煌々と夜を切り裂いていて、静寂の中に噴水が立てる水音が響いている。帰って来たんだと、葵は独り言を呟いた。当然のことだが、どこからも反応はない。しばらくぼんやりと突っ立っていた後、葵はようやく屋敷の玄関扉を開けた。

 扉を開けるとすぐ、エントランスホールでクレアと出くわした。濡れた髪にタオルを巻きつけている彼女は、風呂から上がって私室に戻るところだったらしい。何気なくおかえりと言われたところで、葵は感情のメーターを振り切らせた。

「うわっ、何や!」

 棒立ちのまま突然泣き出した葵を見て、クレアが動転した声を上げる。積りに積もっていたものが爆発してしまい、葵は「もうやだ」と繰り返しながらエントランスホールで大泣きした。

「落ち着いたか?」

 クレアが温かい紅茶を差し出しながら尋ねてきたのは、サンルームに移動した後の出来事だった。すでに泣き止んでいた葵は、鼻をすすりながら頷いて見せる。

「ごめん、ありがと」

「ひっどい声やな。ひとまず水分補給や」

 自身もリクライニングチェアに体を委ねて、クレアは紅茶を一口飲んだ。それを見て、葵も渡されたカップを口に運ぶ。鼻が利かないので香りは分からなかったが、温かい紅茶は乾いた体を優しく潤してくれた。

「で、何があったんや?」

 いきなりズバッと核心を突いてくるあたり、非常にクレアらしい物言いだ。しかし即答出来る内容でもなく、ティーカップをソーサーに戻した葵は口を噤む。その様子を見て、クレアは眉をひそめた。

「言いたくないんやったら、無理せんでもええで」

「ううん、違うの」

 クレアはいつも葵の気持ちを汲んでくれて、無理に話させるような真似はしたことがない。その優しさに甘えることは多々あったが、今回はそれとは勝手が違う。とても自分の胸にしまっておくことなど出来なくて、むしろ聞いて欲しいのだ。そうした心中を打ち明けてから、葵はポツリポツリと先刻の出来事を語った。

「ああ……それは、なんちゅーか……」

 あかんなぁと、苦笑いになったクレアは所在なさげに頭を掻いている。大泣きした理由が他愛なさすぎて、呆れているのかもしれなかった。だが葵にとっては、恋人からの誘いを思い切り拒んでしまったことは由々しき事態である。

「あんな、叫ぶつもりじゃなかったのに」

 一度は合意しておきながら、途中で嫌だと喚き散らしてしまった。ハルは見たことのない表情で呆然としていたが、我に返った時、どれだけ嫌な思いをすることだろう。自分が逆の立場だったらと考えるだけで、血の気が引いていく。

「う〜ん、うちには分からんことやけど、心の準備が出来てなかった、っちゅーことなんやろ? せやったら、仕方ないんとちゃうか?」

「心の準備っていうか……」

 確かに、突然の出来事だった。しかし状況を考えれば、ハルとしては突然でも何でもなかっただろう。それに一度は、葵も覚悟を決めたのだ。それなのに嫌だと叫んでしまったのには、もっと別の理由が存在している。

「なんや、他に何かあるんか?」

 葵の返事が歯切れの悪いものだったからか、クレアも別の事情に思い至ったようだった。嫌だと叫んでしまった時から、薄々その理由に察しがついている。だが葵は、再び言い淀んだ。それを口にすること自体、とても嫌なことだったからだ。

(でも……)

 口に出した方が楽になれることも、ある。クレアは常々そう言ってくれていて、実際、どんな話でも親身になって聞いてくれるだろう。そしておそらく、この事実は日毎に重くなる。話すなら今しかないのだと、意を決した葵は重い口を割った。






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