「前に、理事長に無理矢理……されて、それで、その時のこと、思い出しちゃって、」
ずっと胸に沈殿していた陰鬱を、葵は初めて口に出した。自らの口が紡いだ言葉なのに、聞きたくないと思うほど嫌悪感がこみあげてくる。過去の最低な体験も吐き気をもよおすが、それよりも、最悪な人物とハルを混同した自分が許せなかった。
「理事長って、ロバート様のことなんか?」
トリニスタン魔法学園アステルダム分校の理事長、ロバート=エーメリー。アルヴァの旧友であるこの男は、身分を偽って葵に近付いて来た。そんなこととは露知らず、無警戒だった葵は隙を見せてしまったのだ。思い出したくもない過去が鮮明に蘇って、口元を覆った葵は頷くことで答えとした。葵の反応を確認したクレアは、スッと席を立つ。
「マト、
「……え?」
抑揚のないクレアの声が頭上から降ってきて、葵は伏せていた面を上げた。クレアのパートナーである魔法生物のマトには変態という能力があって、その姿形を自在に変えることが出来る。平素はワニに似た姿をしているマトが、この時既に巨大な鎌へと変化を遂げていた。
「ちょお、刈ってくるわ」
鎌状の武器を手にしているクレアが、無表情であらぬ方向を指差して言う。殺気を漲らせた彼女はそのままサンルームを出て行ってしまい、一人取り残された葵はポカンと口を開けた。
(かる……刈る? 何を!?)
呆気に取られながらもクレアの発言を理解しようとして、とんでもない結論に辿り着いた葵は慌てて席を立った。サンルームを出た後は全速力で、クレアが向かったであろうエントランスホールへと走る。その甲斐あって、玄関扉と中庭の噴水の間にある魔法陣の手前で、いきり立ったクレアをなんとか掴まえることが出来た。
「クレア、待って! 落ち着いて!」
「放しぃ!! どグサレ外道の首、刈ってきたるわ!!」
「やっぱり首!? いいから! そんなことしなくていいから!!」
暴れるクレアを抑え込もうと、葵は全身全霊で彼女を押し倒した。派手に転んだクレアは、それでもまだ怒りが収まらない様子で捲し立てる。
「そないなことされて何で黙っとんのや!! 女の敵の一人や二人排除しても誰も何も言わん!」
クレアが自分のために怒ってくれているのは分かっていたが、葵は次第におかしくなってきてしまった。抱き着いたまま忍び笑いをすると、クレアの憤りは矛先を変える。何を笑っているのかと怒られ、耐えられなくなった葵は隠しもせずに笑った。
「だって、クレアがすごく怒ってくれるから」
「当たり前やろ!」
「すごい、嬉しい。 ……ありがと」
なんだか泣けてきて、葵はクレアを優しく抱きしめた。葵が泣きながら笑っているため、拍子抜けしたらしいクレアも落ち着きを取り戻す。すでにマトも元の姿に戻っていたので、葵は心優しい魔法生物にも感謝の意を示した。
「ずっと嫌でしょうがなかったんだけど、話したら楽になったみたい。ありがとね、クレア」
「うちは欲求不満や。せやけど、アオイがもうええっちゅーなら、もうええわ」
マトを肩口に乗せたクレアが立ち上がったので、葵は彼女と共にサンルームに戻ることにした。お互いがリクライニングチェアに腰を落ち着けてから、話を再開させる。
「ハルとそういう雰囲気になった時、ちょっと早いなって思ったんだ。私も焦りすぎだったのかも」
早いと感じて狼狽えたのなら、やはり受け入れるべきではなかったのだ。心の準備が出来ていなかったのに焦ってしまったから、うまくいかなかった。冷静になるとそう思えたが、話を聞いている側のクレアにはいまいち真意が伝わらなかったようだ。
「アオイは何に焦ってたんや?」
「あ、そっか。その話、してなかったね」
うまく話が出来ていなかったことを理解した葵は、ハルと問題が起きる前にアルヴァから告白されていたことを明かした。クレアは目を瞠っていたが、それはオリヴァーと同種の反応に思えた。
「クレアもアルの気持ち、知ってたんだね?」
「まあ、なぁ。せやけど、アルは言わんと思っとったわ」
「オリヴァーと同じこと言ってる」
「アル見とったら、誰でもそう思うわ」
少し苦い表情になったクレアを見て、葵はアルヴァの気持ちを知らなかったのが本当に自分だけだったのだと実感した。そうとは知らず、アルヴァには何度もハルが好きだと言っていたような気がする。彼がどんな思いでそれを聞いていたのかは、想像に難くない。それでも、自分の前では本心をひた隠しにしてきたアルヴァの苦悩を思い、葵は顔をしかめながら話を続けた。
「アルに好きだって言われた時、最初は冗談かと思ったの。でも、抱きしめられて、体も声も震えてて、本当なんだって分かった」
葵の記憶にあるアルヴァ=アロースミスという青年は、いつでも冷静に自信家だった。それが卑屈の上に積み重ねられたものであることも、ネガティブな一面があることも知ってはいたが、彼があんなにも恋愛に脆いとは思いもよらなかった。葵がそういったことを話すと、クレアも同意を示すように頷く。
「レイチェル様が校医の代理なんてやっとったから、アオイとハルが付き合い出して沈んどるんやろなとは思っとった」
「そっか……。全然、気付かなかったな」
「アルが気付かせないようにしとったから、アオイが思いつかんのはしゃーないわ。せやけど、これでキッパリ終わったんやろ?」
「う、ん。そう、なんだけど……」
「なんや、歯切れ悪いなぁ」
クレアが眉根を寄せたので、葵は正直にときめいてしまったことを明かした。初めから怪訝な顔をしていたクレアが、それを聞いて眉間のシワをさらに深いものにする。軽蔑されることは承知で、葵は言葉を重ねた。
「だって、あのアルが、あんなに本気になってくれると思わなかったから」
アルヴァは恋愛に関して、ひどくドライな人物だった。日毎に用意した『恋人』達は一時の寂しさを紛らわせてくれる存在に過ぎず、彼女達には本名さえも明かしていなかったのだから。そんなアルヴァが、自分に対しては弱々しく縋りついてきた。そうまでして求められたら、応えたくなってしまう。葵がそう言うと、険を解いて空を仰いだクレアは「分かる」と呟いた。
「母性本能くすぐられた、っちゅーやつやな。確かにアルがそないになったら、ギャップがありすぎてときめくんも分かるわ」
だけど、と、真顔に戻ったクレアは葵を見て言葉を続ける。
「アルに告白されてときめいたかて、乗り換えたりするわけやないんやろ?」
「ハルと付き合う前に言われてたら、アルのこと好きになってたと思う。でも今は、そんなこと出来ない」
「キリルに悪いと思うからか?」
「それもあるけど、ハルが好きだから。ハルに好きだって言ってもらえたこと、奇跡だと思うの」
叶わないと知りつつ、葵はずっとハルのことが好きだった。そんな相手が同じ思いを返してくれたことは、まさに奇跡。そう遠くない未来に別れが来るのかもしれないが、だからこそ今は、好きだと思う気持ちを大切にしたい。葵のそうした考えを聞くと、クレアは柔らかく笑んだ。
「義務感で言うてるんやなくて安心したわ。そう思うんやったらハルを大事にしたらええ」
「でも、これって浮気だよね?」
「浮気やな」
「タチ、悪いよね?」
「せやなぁ。肉体関係持たれるよりタチ悪いかもしれへん。 ……ああ、そういうことかいな」
葵がハルとの関係を進めようと焦っていた理由が解ったようで、クレアは得心していた。葵の方は改めて、自分が浮気性であることを実感して気持ちを沈ませる。これからどうしようと考えると、さらに陰鬱な気分になった。
「嫌な思い、させたよね。許してくれるかなぁ?」
「ハルはアルとのこと知らないんやろ? せやったら、大丈夫なんやないか」
心の準備が出来ていなかったのだと釈明すれば筋は通るし、許さないわけにはいかないだろう。その理由で納得してくれないのならハルの方に問題があるし、彼はそこまで狭量な男ではない。クレアがキッパリとそう言い切るので、葵はまじまじと彼女を見た。
「ねぇ、今更なんだけど、クレアとハルって付き合ってた時どこまでの関係だったの?」
クレアとハルは恋人まがいの関係だった時期があり、キスを済ませていることは知っている。葵はそれ以上のことをしたのかどうか気になったのだが、クレアには呆れた顔をされてしまった。
「そないなこと、聞いてどないするねん」
「別に、どうもしないけど……」
「せやったら無粋なこと訊くんやない。聞いて傷つくんは自分やで」
クレアの言葉は確かに、正論だった。しかし答えないということは、それだけで答えているのと同じことではないだろうか。そう思ったら途端に、葵はモヤモヤしてきた。顔をしかめた葵を見て、クレアは「それ見ろ」と言う。
「な? 自分の首絞めるだけのアホな質問やろ?」
「……うん。言わなきゃ良かった」
「分かったんなら、ええ。ハルとはキス以上のことはしてへんよ」
「え?」
クレアが唐突に答えを口にしたので、自己嫌悪に陥りそうになっていた葵は目を瞬かせた。短く嘆息して、クレアは言葉を重ねる。
「ハル見とったら分かるやろ? ヤケクソになっとっても女遊びが出来るタイプやない」
「あ、うん。それは、分かる」
「キスかて、求められてしたことは一度もないわ。せやからそれ以上のことをしようとしたっちゅーことは、それだけアオイのこと好きってことやろ」
目から鱗が落ちるような指摘だった。クレアの言葉はじわじわと胸に沁みてきて、まったくその通りだと思った葵は両手で顔を覆う。泣けてきたのが罪悪感からなのか、単純に嬉しかったからなのかは分からない。ただ感情が、涙となって零れ落ちた。
「そっかぁ、そうだよねぇ」
「気持ちが重なれば自然と体も重ねたくなるもんや。ごちゃごちゃ考えんと、アオイは好きって気持ちだけを大事にしとったらええ」
これからはそうしようと、真底思った葵はクレアに何度も頷いて見せた。泣くのか笑うのかどっちかにしろと呆れられたが、構いはしない。晴れ晴れとした気持ちで涙を流しながら、その後も葵は笑い続けたのだった。
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