「今日はどないするん?」
食後の紅茶を手作業で淹れながら、クレアが話しかけてきた。温かい紅茶が注がれたティーカップをありがたく受け取って、葵は答えを口にする。
「ハルと話そうと思ってる」
話題に上ったハル=ヒューイットという少年は、葵の恋人である。一昨日の夜、葵はとある出来事がキッカケでハルと気まずくなってしまった。その話をクレアにしたところ、彼女は親身になって相談に乗ってくれた。さらに昨日は一日、葵の気晴らしに付き合ってくれたのである。そうした捌け口があったから、葵は冷静になれていた。そしてハルともちゃんと話そうと、思えるようになったのだった。
「頑張りぃ」
爽やかな笑みを浮かべたクレアはそう言って、葵の背中を押してくれた。その後、彼女は出掛けてくると言い置いて席を立つ。自身も食堂を後にした葵は、屋敷のエントランスホールでクレアの外出を見送った。玄関扉が閉ざされると、葵は窓の外に視線を転じる。窓からは陽光が差し込んできているが、それはまだ朝のものだ。
(まだ早いよね)
魔法が存在する世界では、携帯電話の代わりに通信魔法によって連絡を取ることが出来る。時間的な制限などはないのだが、電話をかける時と同じように時間帯は気になった。朝に強いイメージのないハルは、きっとまだ寝ているだろう。連絡を取るのは昼頃にしようと思って、葵は踵を返した。
(……ん?)
私室に戻ろうとしていた葵は、エントランスホールにある階段の中程で動きを止めた。その理由は、背後から物音が聞こえてきたからだ。扉の開閉音を耳にした葵は、クレアが戻って来たのかと思って背後を振り返る。しかしそこにいたのは、想定外の人物だった。玄関扉をくぐって姿を現したのは、赤い髪が印象的な細身の少年。トリニスタン魔法学園アステルダム分校のマジスターの一人である、ウィル=ヴィンスだ。目が合うと、ウィルは朝の挨拶を寄越してきた。階段を下りながら挨拶を返した葵は、彼の他に人影がないことを確認して首を傾げる。
「どうしたの?」
「はい、これ」
ウィルが握ったままの手を差し出してきたので、葵もとっさに両手を出した。葵の掌の上で、ウィルは手を開く。すると小さな欠片が葵の手の上に落ちた。それが何なのかを認識し、葵は瞠目する。
「これって……」
手の中にあるのは、数字。葵がトリニスタン魔法学園の分校を巡ることで集めている、魔法道具の欠片だ。しかもそれは、残り五つが全て揃っていた。驚愕の表情のまま顔を上げた葵に、ウィルは悠々と頷いて見せる。
「法則が解ったから検証してきたんだ。そのついで」
「ついで、って……」
「
そのくらいの報酬はもらっていいよねと、ウィルは笑いながら言う。葵は呆然としたまま申し出を受け入れ、私室としている部屋までウィルを案内した。
これまでに揃えた魔法道具の欠片を、葵は机の上に置いていた。未完成な『時計』には文字盤が欠けている部分が五つほどある。ウィルに促されるままに、葵は欠けている部分に数字をはめ込んでいった。
(時計、だ)
台座を手に入れたあたりから、魔法道具の完成形は見えていた。それでも改めて、完成した『時計』を目の当たりにすると呟かずにはいられなかった。葵が複雑な思いで時計を眺めていると、ウィルがそれを、ひょいと手に取る。
「裏に穴が開いてるね」
両手に収まるほどの時計を手にしたウィルは、その裏面を葵に示しながら話しかけてきた。その独特な形に心当たりのあった葵は、机の脇に置いてあった鞄を探る。取り出したのは時の欠片探しを始める前にトリニスタン魔法学園の学園長からもらった、小さなネジだ。
「たぶん、これじゃないかな」
「見せて」
葵の手からネジを奪い取ると、ウィルは躊躇もなく時計に差し込む。それを押し込んだり回したりしている姿を見て、葵はハッとした。
(ちょっと、待って)
何気なく時計を完成させてしまったが、これは封じられていた魔法道具なのである。この魔法道具を使うことで、この世界に住む人間達の時が止まってしまうのだ。どうやって使うのかは知らないが、いじくりまわしているうちに誤って発動させてしまうかもしれない。そのことに気付いた葵は慌てて、ウィルから時計を奪い返した。
「やめてよ」
勝手にいじるなと怒ってみても、ウィルは飄々としている。周囲を見回した彼はつまらなさそうに、何も起こらないねと独白を零した。
「やっぱり、儀式が必要なのかな?」
「もしそうだとしても勝手に出来ないから。色んな人にちゃんと報告しないと」
「色んな人って?」
「王様とか、学園長とか、色々」
「ふうん」
相槌を打ってはいたが、何かを考えている風のウィルは生返事だった。そのうちに彼は「まあいいか」と言い、葵に目を向ける。
「その
そう言い置くと、ウィルはひらひらと手を振って帰って行った。彼が素直に引き下がってくれたことにホッとしてから、葵は改めて時計に目を落とす。
(完成、しちゃった)
もともと、完成まであと少しだった。だが少しの間だけでも、葵には猶予が与えられていたのだ。しかし完成してしまったからには決断を下さなければならない。このマジック・アイテムを使うか否か――生まれ育った世界に帰るのか、この異世界で定住してしまうのかを。
(…………)
両方を選ぶことの出来ない選択肢が浮き彫りになってから、葵は腐るほどこの難問について考えを巡らせてきた。しかしいくら考えたところで、結局はどちらも選べずにいたのだ。完成形のマジック・アイテムを前にしたところで、いきなりどちらかを選べるわけもない。決断を導く外的要因が欲しいと、葵は切に願った。
(でも、自分で決めなきゃ)
どちらを選んでも悔いが残ることは火を見るより明らかだ。ならばどちらの方が自分にとってダメージが少ないのか。そんなことを延々と考え続けて、どれだけの時が経っただろう。考えることに疲れてしまい、脱力した葵は机に突っ伏した。
(ダメだぁ。決められないよ)
どうしても答えが出ない苦悩を、葵以外にも味わった者がいる。そして決断を下した女性のことを思い、葵は再び時計を見つめた。葵と同じく異世界に召喚された女性、マツモトヨウコ。彼女は異世界で愛する人が出来たが、最終的には別れを選択した。そして生まれ育った世界に帰った彼女は現在、別の男性と結婚しているのだという。会ったことも直接話をしたこともないので分からないが、彼女は今、幸せなのだろうか。生まれ育った世界に帰ることは、本当に幸福なことなのだろうか。
(……電話、しに行こうかな)
今ここにいない人物のことを考えていても、決して答えは得られない。それならばマツモトヨウコと話したことのある異世界の友人と会話をする方が、よほど建設的だ。一日おきに電話を入れろと言いつけられていたこともあり、外出することにした葵は時計を机に戻した。
知らず知らずのうちに重いため息をつきながら、葵は私室としている部屋を後にした。無人となった室内は時が停止したような静謐に包まれていたが、やがて机の上で小さな変化が生まれる。しかし沈黙していた時計が時を刻み始めたことを知る者は、誰もいなかった。
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