静止した時の中で

BACK NEXT 目次へ



 異世界にいる友人と携帯電話で話をする時、通じやすい場所というものがある。電話をするためにトリニスタン魔法学園アステルダム分校を訪れた葵は用事を済ませると、すぐ帰宅の途についた。屋敷から学園までは徒歩で小一時間ほどなので、電話の時間を含めても、外出していたのは二時間ほどだっただろうか。ちょうど昼頃に帰宅した葵は、通信魔法を使ってハルと連絡を取ろうとした。しかしハルからの反応がなかったため、次にレイチェル=アロースミスという女性に通信を持ちかけてみる。この国の王家とつながりがある彼女には、魔法道具マジック・アイテムが完成したことを報告しようと思ったのだ。しかしレイチェルとも連絡はつかず、折り返しの通信を待っているうちに、いつの間にか夜になってしまっていた。

(忙しいのかな)

 ハルが連絡を寄越さないのはわざとかもしれないが、レイチェルは責任感のある人物である。彼女から連絡が来ないのは不自然だが、レイチェルの多忙さを思い、葵は納得することにした。どのみち心も決まっていないのだから、少しでも決断を先延ばしに出来るのはありがたくもある。

(結局、弥也ややにも話せなかったし)

 異世界の友人である弥也という少女は、葵の置かれている状況を正確に把握している唯一の存在だ。しかし、だからこそ、彼女は迷いを許してくれない。マジック・アイテムが完成したのならさっさと戻って来いと、そう言われるのは明らかだった。

(はあ……)

 誰かと話したい気持ちはあるが、この悩みは誰とも共有出来ない。せいぜい愚痴を言って気を紛らわすことしか出来ないのだが、聞いてくれそうな同居人も、まだ帰宅していなかった。

(クレア、帰って来ないなぁ)

 朝方に用事があると出掛けて行ったので、おそらく仕事ではないはずだ。しかし必ず帰宅するとも限らない。仕方がないので、葵は寝てしまうことにした。私室でベッドに転がったのは、平素よりもだいぶ早い時分だったように思う。だが、なかなか寝付けず、うとうとし始めたのは月がだいぶ高くなってからだった。現実と夢の境界線が溶けてしまった頃、その声は唐突に聞こえてきた。


――やっと眠ってくれたよ


(……え?)

 何、と思った葵は反射的に目を開けた。普通なら、そこには見慣れてしまったベッドの天蓋が映るはずである。しかしこの時は、まったく違った光景が瞳に映し出された。

 まず、風景からしておかしかった。境界線のない世界がどこまでも広がっていて、薄紫の靄がかかっている。広大なのにぼんやりとしている世界で、はっきりとした輪郭を持っているのは目の前にいる人物のみ。顔の反面を仮面で覆っている少年と思しき人物は、何故か道化師のような出で立ちをしていた。片方の手を腰に当てている彼は、やれやれといった口調で言葉を紡ぐ。

「基本、夢の中にしか存在出来ないっていうのはこういうとき不便ですね。ねぇ、バクさん?」

 おちゃらけた調子の少年が誰かに話しかけたので、葵は彼の視線を追った。その先には奇妙な生物がいて、驚いた葵は後ずさる。しかし彼らは葵の反応など眼中にない様子で会話を続けた。

「夢魔くんは頑張れば具現化出来るんだからいいじゃない」

 道化の少年に応えたのは、バクと呼ばれた生物だ。口調からメスと推測されるその生物は、ゾウのような長い鼻を持ち、クマのような体つきをしている。体高は少年の膝ほどなのだが、いかんせん、眼光が鋭かった。だが道化の少年との会話はどこかコミカルで、初めは恐怖を感じた葵も、次第に慣れていく。その間も、彼らの会話は続いていた。

「今回もこの娘が寝るまでなんて待たずに、夢魔くんが頑張れば良かったのよ」

「えー、疲れるからイヤですよぉ。それに、ボクだけ具現化したらバクさんと一緒にお話し出来ないじゃないですかぁ」

「アタシに押し付けようって気ね。そうと解ったら従うわけないじゃない。夢魔くんが説明なさいな」

「えー、面倒だなぁ」

 そこで会話が一段落したらしく、彼らの視線は葵の方を向いた。不意に注視されて、怯んだ葵はさらに一歩後ずさる。しかし彼らは、やはり気にしていなかった。一度広げた両手を体の前方と後方にそれぞれ畳み、恭しくお辞儀した少年が改めて言葉を紡ぐ。

「ここは夢の中。私は夢魔で、こちらはバクさんです」

 夢魔とバク、そして夢の中。それらの事柄についてある程度の知識があった葵は、夢魔の発言をすんなりと受け入れることが出来た。普通は驚かないことに驚かれるのだが、彼らはそういったことさえも気にせず話を続けた。

「えー、端的に言うとですね、非常に迷惑なのです」

「……は?」

 本当に端的なことしか言われず、意味の通じなかった葵は眉根を寄せた。何がどう迷惑なのかを説明して欲しいと伝えると、夢魔は大袈裟に肩を竦めて見せる。

「あなた、人間の時を止めましたよね?」

「え」

「もう、ホントに迷惑なんですよ。ゲームの途中だったのに、時の精霊が急にいなくなってしまったんですから」

 茫然と夢魔の主張を聞いていた葵は、途中から意味が解らなくなっていった。夢魔はその後もペラペラと喋り続けていたが、我に返った葵は焦ってそれを遮る。

「ちょっと待ってよ」

 確かに、夢魔の言うようなことをやろうとしていた。しかしまだ、魔法道具を完成させただけで、それを使うかどうかの決断は下していないのだ。それなのに彼は、人間の時がすでに止まっているのだと言う。心当たりのなかった葵は必死に説明したのだが、夢魔の態度は変わらなかった。

「もしかして気付いてない系ですか? それもすごいですね」

 小馬鹿にされて笑われたが、葵には返す言葉がなかった。葵が反応しなかったからか、笑いを収めた夢魔は隣にいるバクを見る。

「これは、実際に自分で確認してもらわないとダメそうですねぇ。ということでバクさん、よろしくお願いします」

「はいはい」

 夢魔の呼びかけに応じたバクは長い鼻を動かし、その先端を葵の方へと向けた。その鼻には掃除機のような吸引力があるらしく、周囲を漂っていた霧が猛スピードで吸い込まれていく。視界がクリアになるにつれて、それまではっきりとした輪郭を持っていたはずの夢魔とバクが、逆にぼやけていった。そのうちに、彼らは完全に視界から消失してしまう。それを合図にしたかのように葵は夢から醒めた。

 覚醒するなり反射的に起き上がった葵はまず、窓の外を確認した。この世界の夜は二つ上る月のおかげでかなり明るいが、昼夜の区別は色味で分かる。黄色味の強い光は、まだ夜が明けていない証だ。そのことを確認すると葵はベッドを飛び出した。

(クレア、)

 夢の中での出来事はハッキリと覚えていた。とっさに同居人を探したのは、彼女に会えば真相が明らかになると思ったからだ。しかし屋敷中を駆け回ってみても、クレアの姿は見当たらない。眠りに落ちる前にも、彼女は帰宅していなかった。これでは夢魔が言っていたように時間が止まってしまったのか、ただ帰宅していないだけなのか分からない。一刻も早く誰かに会いたかった葵は手早く着替えを済ませ、屋敷を後にした。

 葵がクレアと暮らしている屋敷はパンテノンという街の郊外にある。周囲には民家はおろか畑さえもなく、ただただ広大な森林が広がっているのみだ。人が集まる場所で一番近いのが、トリニスタン魔法学園アステルダム分校だった。走り通しで学園に辿り着いた葵は校門の所で呼吸を整えてから、夜の校舎を仰ぐ。見渡す限りに人影はなく、夜の学園は平素の通り、ひっそりと静まり返っていた。

(いつもと変わらない、よね)

 トリニスタン魔法学園には体育の授業というものがないので、生徒達が校舎の外で活動することはほとんどない。そのため登下校時以外は、日中でも夜間と変わらないのだ。まさかとは思いつつも、葵は校舎の中も確かめてみることにした。エントランスホールを抜けて階段を上り、一時は毎日のように通っていた三年A一組の教室を目指す。

(何かの間違い、だよね?)

 夢の内容は、はっきりと脳裏に刻まれている。しかし時間が経ってみると、それさえもただの夢だったのではないかという気がしてきた。妙に鮮明で奇妙なだけの、ただの夢。まさかという感覚を拭えないまま、葵は三年A一組の扉を開けた。その直後、目に飛び込んできた異様な光景に体の自由を奪われる。月明かりが差し込む教室内では生徒が自席に着いたまま、教師は教壇に立ったまま、誰もがその動きを止めていた。






BACK NEXT 目次へ


Copyright(c) 2016 sadaka all rights reserved. inserted by FC2 system