静止した時の中で

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(今、どこから……)

 魔法道具マジック・アイテムである時計が動き出した瞬間に聞こえてきた声の主を求めて、葵は部屋中に視線を彷徨わせた。しかしこの場にいる誰もが、口を開いた様子がない。そうこうしているうちに精霊王が、再び時計を示す。もしかしてと思いながら、葵は時計に語り掛けた。

「今喋ったの、あなた?」

「そうじゃい。まったく、中途半端に呼び出しおって。おかげで退屈だったわい」

 無機質な時計から放たれるコミカルな口調がなんとも奇妙で、葵は得も言われぬ気持ちになった。どう会話を進めていいか悩んでいるうちに、時計は精霊王に向かって話し出す。

「そこに御座すは今生の王ですな。お初にお目にかかります」

「初めまして。世界の根幹を成す古き精霊に会えて光栄です」

「わいには古きも新しきも同じことですからな、この瞬間の幸福をしかと世界に刻みましょう。しかし王よ、これは人間界モンド・ゥマンの問題ではないのですかな?」

 時の精霊と人間は邂逅を果たせないのが、この世界の理である。それはつまり禁忌ということであり、タブーを犯した人間が世界から罰を与えられているのだと受け取ることが出来る。それなのに管轄の違う調和を護る者ハルモニエが介入して大丈夫なのかと、時の精霊は心配しているようだった。彼らの話を聞いていて疑問を感じた葵は、思わず容喙する。

「前にもこんなこと、あったんですよね? その時はどうしたんですか?」

「あん時は、王は御出でにならんかった。そこにいる夢魔が、わいを連れ戻しに来たんじゃい」

 その時も彼らはゲームをしていたらしく、時の精霊が突然召喚されたことにより中座してしまったらしい。いい迷惑だと、仏頂面の夢魔は毒を吐く。それを快活に笑い飛ばしている時の精霊は、夢魔と仲良しなのだろう。

「おまえさんは異世界のもんだな?」

 不意に話を振られて、葵は頷いて見せた。すると時計はしばらく沈黙し、少ししてから再び言葉を発する。

「そこの鞄を覗いてみぃ」

「鞄?」

 時計がどこを示したのかは分からなかったが、葵は手近にあった鞄を引き寄せることにした。それは葵が、異世界から持ち込んだものだ。鞄の何を見ればいいのか尋ねてみると、時の精霊は他人の持ち物が入っているだろうと言う。指摘されてあることを思い出した葵は、鞄の中に唯一入っていた一冊の本を取り出した。

「これのこと?」

 その本の表紙には日本史という文字と、高木弥也の名前が記されている。葵は普段、教科書やノートを持ち歩かない主義だったが、召喚された日はたまたま弥也から教科書を借りていたのだ。しかし、そのまま入れっぱなしにしていた教科書が、一体なんだと言うのだろう。教科書を手にしたまま葵が首を傾げていると、時の精霊が再び口を開いた。

「その本の持ち主とだけ頻繁に連絡が取れることをおかしいと思ったことはないんかい?」

「そういえば……って、何で知ってるの?」

 時の精霊に弥也のことを話した覚えは、ない。それどころかまともに自己紹介すらしていないのだ。一体どうやって、情報を入手したのか。葵が問うと、時の精霊は全てを『見た』と答えた。

「おまえさんはわいの力を借りようと思っとったようだが、それがあれば十分じゃい」

「え? え? どういうこと?」

「異世界からやって来た者は異世界の理に縛られているという話は覚えている?」

 精霊王が容喙してきたので、理解の追い付いていない葵は彼の方を向きながら頷いて見せた。それを受けて、精霊王は淡々と話を続ける。

「人間よりは弱いけれど、物もまた、生成された世界の影響を受けているんだ。その異世界から持ち込んだ本が、君と異世界の友人を強く結びつけていたんだよ。だから世界を隔てていても連絡が取れた」

 その絆を頼りにすれば、時の精霊の力を借りずとも弥也の許に・・・・・帰ることが出来る。そうした精霊王の説明は非常に解り易く、葵の中に深く浸透していった。

(帰れる、んだ……)

 今度こそ本当に、生まれ育った世界に帰ることが出来る。実感を伴ってそう呟いた時、葵はこれまでに感じたことのない喜びを覚えた。その感情こそが、望郷や郷愁といったものだったのかもしれない。泣きたくなってしまったため、葵は口唇を引き結んだ。

「さあて、夢魔よ」

 用事が済んだと感じたのか、葵との話を切り上げた時の精霊は夢魔を呼んだ。承知していると言うように、頷いた夢魔は歩を進める。葵や精霊王の傍までやって来ると、彼は時計を奪い取った。

「今生の王よ、おさらばです。調和を護る者ハルモニエたるもの、あまり冒険ばかりなさらぬよう」

 時の精霊が投げかけた別れの言葉に、精霊王は苦い笑みでもって応えた。挨拶が済んだことを見て取ると、夢魔は左回しにネジを巻いていく。時計の針は凄まじい勢いで逆回転を始め、やがて沈黙した。

「人間とは愚かな生き物だ」

 ぽつりと、独白を零したのは夢魔だった。その口調は静かな怒りに満ちていて、背筋を凍りつかせる冷たさがある。彼は手にしていた時計を片手で握りつぶすと、その破片まで、痕跡すら残らないよう徹底的に滅して見せた。

「時を操ることが不可能であることを、人間は理解したものだと思っていた。だが時が経てば、忘却の彼方なのですね」

 皮肉たっぷりの独白を自嘲気味に零すと、夢魔はつと葵に視線を据えた。ビクリと体を震わせた葵をよそに、彼は言葉を続ける。

「時は自然に流れ続けるもの。この理を歪めることは世界を破滅させるも同じこと。再び時に手を出せば終わらぬ悪夢が始まると、人間達に伝えてください」

 そして、永遠に語り継げ。忌々しそうに吐き捨てると、夢魔は夜明けの空気に溶けていった。その後もしばらく動けずにいた葵は、窓から陽光が差し込んできたのを機に大きく息を吐く。朝が来てこれほどまでに安堵したのは、初めてのことだった。

「時の精霊は自然界モンド・ナチュルルに属してはいるけれど、その在り様は他の精霊達と大きく異なる。世界に還ることさえ許されない精霊は、誰の支配も及ばない夢の中にしか居場所がないんだね」

 悪夢のような夜が去った後、精霊王が淡々とした口調で言葉を紡いだ。何の話だろうと、葵は耳を傾ける。精霊王もそのまま、話を続けた。

「夢魔やバクも夢が誕生した時から在る、古い存在なんだ。彼らがいてくれるから、時の精霊は寂しくないのではないかと思ってね」

「確かに、楽しそうだったかも。でも夢って、人間が見るものだよね? それって繋がっちゃってるってことじゃないの?」

「夢は人間だけがみるものじゃないよ。人間以外の動物も、草木も、世界だって夢をみる」

「世界も?」

「そう、世界も。だから夢は、どことでも繋がっている。けれどこちらからは自由にすることが出来ない、独立した一つの世界なんだ」

「なんだか、難しいんだね」

「夢魔が言っていたことだけ覚えておけばいいよ。人間に永遠の悪夢が訪れないよう、祈っている」

「……うん。そうだね」

 この世界の人間は魔法を使うことが出来る分、葵が生まれ育った世界の者達よりも様々なことを可能にしている。しかしそれは人間の独力ではなく、様々な存在に力を貸してもらうことによって成り立っているのだ。魔法の歴史は古く、現在では大抵の者が何かしらの魔法を日常的に使用している。あまりにも身近な存在になってしまっているが故、人間は恩恵を受けていることを忘れかけているのかもしれなかった。物事の発展に情熱は不可欠だが、同じ世界で共に存在している者に配慮を欠かしてはならない。それはどこの世界も同じなのだと、葵は痛烈な夢魔の批判を思い返した。

「精霊王は大丈夫?」

 時の精霊が随分と心配しているように思えたのは、きっと気のせいではない。葵にはハルモニエの詳しい事情など分からないが、おそらく彼は、今回も危ない橋を渡ってくれたのだろう。だが精霊王は、そのようなことは微塵も感じさせずに柔らかく微笑む。その笑みは、彼の前の精霊王が世界に還った時に見せてくれたものと同じだった。

「あなたに会うのは、おそらくこれが最後になる。お別れだね」

「えっ……」

 唐突に最後と言われた葵は戸惑いを覚えたが、それは至極当然のことだった。生まれ育った世界に帰ってしまえば、もう精霊王と会うことはない。そもそも彼は人間界に干渉することを制限されていて、こうして個人的に助けてもらうことさえ、本来ならばあってはならないことなのだ。それなのに彼は、幾度となく葵を救ってくれた。それこそ彼がいなければ、今の自分はないと思えるほどに。

「今まで本当に、ありがとう」

 最後に伝えたい気持ちは、一言に尽きた。葵の想いをしっかりと受け止めて、精霊王は頷いて見せる。

「世界を隔てた奇跡の出会いを、私は忘れない。この世界の行く末と同じくらい、あなたの幸福を願っているよ」

 さよならと微笑んで、精霊王は朝の光に溶けて行った。明け方の空気が真に澄んでいて、自然と涙が頬を伝う。精霊王が消えた場所に深々と一礼してから、顔を上げた葵は涙を拭った。






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