レイチェルが責任者を務めているのだという
「会議は終わったのか?」
「さっきね。王城どころか世界中、すごい騒ぎだよ」
アルヴァの問いに答えたのはユアンで、彼は何気なく葵の背を押しながら室内に進入した。促されるままに、葵はアルヴァの傍へ寄る。彼と顔を合わせるのは好きだと告白された、あの夜以来のことだった。
「それで、どうした?」
ユアンから会議の行方を聞いた後で、アルヴァは葵に視線を傾けてきた。その口調も表情も、葵がよく知っている彼のままだ。思わぬ脆さを露呈した夜の面影は、もうどこにも見当たらない。そんなアルヴァとどう接していいか分からず、葵はユアンを振り向いた。
「ユアンが言ってたのって、アルのこと?」
「うん。アル、アオイを診てあげてよ」
ユアンが夢魔のことを説明すると、眉根を寄せたアルヴァは葵に視線を傾けてきた。目が合って、ドキリとした葵は体を硬直させる。しかしアルヴァの方は平静で、微塵の動揺も見せない彼は葵に椅子へ腰かけるよう指示を出した。無心に努めて、葵はアルヴァの前に置かれた椅子に座る。
「触れるよ」
そう言い置いてから、アルヴァは葵の髪に触れた。首筋を診察するために邪魔な髪を退けると、彼は葵の顔を少し横に向けさせ、その流れで首に指を滑らせる。心臓が限界を超えそうになった葵は早く時が過ぎるように願っていたが、アルヴァから発せられたのは至って冷静な言葉だった。
「これが夢魔の刻印か。まさか実物を見る日が来るとは思わなかった」
「夢魔に魅入られた者は気付かないうちに夢魔の分身を生んでしまうらしいからね。アオイの場合は未遂だけど、夢魔は刻印をつけた者の夢に繰り返し現れるっていうし、今のうちになんとか出来ないかと思って」
「え、そうなの?」
それまで他のことに意識が行っていた葵は、ユアンの一言で現実へと引き戻された。終わらぬ悪夢が訪れると言われた時の夢魔の顔が蘇って、ゾッとした葵は肌を粟立たせる。あんな存在が繰り返し夢に現れるなど、悪夢中の悪夢だ。
「アオイの場合はレアケースだから、夢魔が再び現れることはたぶんないと思う。だけど夢魔は恐ろしい存在だからね、用心はしておかないと」
ユアンが宥めるように諭してくれたが、一度芽生えた恐怖は簡単に払拭することは出来なかった。青褪めた葵に、ユアンは頼もしい笑みを見せる。
「大丈夫、アルがなんとかしてくれるよ」
「そう、無条件に信頼されても困るけどね」
大口を叩いたユアンに真顔で応えると、アルヴァは研究室内に置かれている棚に向かった。そこから小瓶を持ち帰って来たアルヴァは、それを葵に差し出す。飲んでみてくれと言われたので、葵は即座に小瓶を干した。今までアルヴァが渡してくれた薬に間違いがあった例はない。
「どう? 効いた?」
薬液を飲んだことによってどういった変化が現れるのか分からなかったので、葵はアルヴァとユアンに問いかけた。二人とも葵の首筋を注視していたが、やがてユアンが大きく頷いて見せる。どうやら首筋の痣は、見る見る薄れて消えて行ったらしい。
「皮膚の修復を援ける薬が効くところを見ると、呪いの類じゃないみたいだね。これなら大丈夫だよ」
アルヴァがどこかから召喚した手鏡を渡してくれたので、葵は自分の首元を映してみた。そこにはもう内出血の痕はなく、傷があったことさえ分からないほどきれいに修復されている。安堵するのと同時に、葵は脱力した。
「良かったぁ」
「アルの薬はすごいね。こんなに早く傷跡を消せる薬はレイでも作れないんじゃない?」
「それはミヤジマが特異体質だからだよ。魔法薬が効きすぎなんだ」
「もう、なんでもいいよ。ありがと、アル」
助けられて感謝を述べ、それにアルヴァが頷いて見せる。それはついこの間まで、葵とアルヴァにとっては当たり前のことだった。しかし今は、決して当然のことではない。それがいつの間にか再現されていることに、葵はふと気がついた。
(二人では会わないって、こういうことなんだ)
葵に好きだと告げた後、アルヴァはもう二人きりでは会わないと言っていた。それは第三者の存在がなければ自分の気持ちを抑えられないからで、逆に言えば、第三者の存在があれば今まで通りでいられるということなのだ。気持ちを重ねることは出来なかったが、それでも、別の形で友好的な関係は続けることが出来る。それを選択し、教えてくれたアルヴァは、やはり大人なのだろう。
アルヴァが自然に振る舞ってくれたことで、葵はもう一人、傷つけてしまった人物の姿を思い浮かべた。怒りと憎しみに満ちた顔しか思い出せない彼とは、このまま終わってしまうのだろうか。クレアは葵が幸せになることが贖罪だと言っていたが、それも果たせないかもしれない。
「アオイ?」
ユアンに顔を覗きこまれて、考えに沈んでいた葵はハッとした。どうしたのかと問われたのでなんでもないと答えた後、葵は改めてユアンを見る。彼にはまだ、伝えなければならないことがあった。
「私ね、元の世界に帰るかどうか迷ってた」
ユアンから時の精霊の話を聞いた後、葵はずっと悩み続けてきた。それはこの世界で暮らす者達を危険に晒してまで個人の望みを優先させていいものかという倫理的な面から始まり、最終的には、自分がどちらの世界にいることを望んでいるのかという自己への問いかけになっていった。そうした心境の変化を、ユアンは口を挟まずに聞いてくれた。同席しているアルヴァも、話に耳を傾けてくれている。今の気持ちをどうやったら彼らに届けられるか、葵は考えを巡らせながら言葉を続けた。
「最初はただ帰りたいって思ってた。でもいつの間にか、帰るべきなんだって思うようになったの。学園長に言われて気付いたんだけど、それってこの世界のことも好きだってことなんだよね」
召喚された当初は理不尽に感じることも多く、この世界のことが好きではなかった。しかし一年という歳月を過ごしているうちに大切な人も出来て、世界が優しく感じられるようになっていった。居心地が良くなってしまったからこそ、生まれ育った世界に残して来た者達への後ろめたさが増していったのだ。だから郷里へ帰りたいと願うことは、いつしか義務感に代わっていた。
「今でも、元の世界には帰らなくちゃって思う。でも、ここに残りたがってるのも本音なんだと思うんだ。ユアンもアルも、レイもクレアもマジスター達も、みんな大好きで、みんな大切。これからもずっと一緒にいたいって、思う」
そこで一度言葉を切ると葵は目を伏せた。室内に訪れた静寂は後に続く言葉があることを、二人が察しているからだろう。待ってくれている彼らに、決意を伝えなければならない。拳をきつく握って、葵は伏せていた目を上げた。
「私、やっぱり帰るね」
生まれ育った世界に帰るのか、このままこの異世界で暮らしていくのか。いくら考えてみても答えが出なかったのは、その両方を望んでいたからだろう。しかし現実には、どちらか一方しか選ぶことは出来ない。そしてどちらを選んだとしても、後悔はつきまとうのだ。
(選べないなら考えても意味ない)
感情で答えが導けないのなら、もう本能に従うより他ない。本当に帰れるのだと実感した時の純粋な喜びだけを信じることにして、葵は決断を下したのだった。
「……そっか」
話を聞き終わるとユアンがそっと、相槌を打った。どんな答えを導き出したとしても、彼は甘んじて受け入れてくれただろう。穏やかな表情を浮かべているユアンを見ていると胸が痛んで、葵は顔をしかめた。
「ごめんね」
「どうしてアオイが謝るの? 謝らなくちゃいけないのは僕の方でしょ?」
「……そうだね。そうかも」
そこで会話は途切れたが、葵とユアンはしっかりと目を合わせて笑いあった。この何気ない一時が決して永遠のものではなかったことを噛み締めて、葵はアルヴァを振り返る。
「アルも、今までありがとね」
葵が感謝を伝えるとアルヴァはわずかに口唇を開いたが、言葉を紡ぐことはしなかった。見慣れたその面には、複雑な表情が浮かんでいる。記憶に刻み付けておこうと思い、葵はアルヴァを見つめた。
(アルとも、もう会えなくなるんだ)
アルヴァにはすでに一度、別れを告げられている。しかしそれは同じ世界の中での出来事で、永遠の別れではなかった。だが今度は会おうとしても会うことの出来ない、本当の別れである。アルヴァの心中でどういった感情が生じているのかは解らなかったが、葵は胸に迫る思いがあった。
(寂しい、)
アルヴァが校医を辞めた時も、寂しかった。彼のいない保健室など考えられなくて、あれから一度も足を運んでいない。感傷的になってしまうのは日常が失われたことを認めたくないからだ。それほどまでにアルヴァの存在は、葵にとってなくてはならないものになっていた。
表面上は平素のように振る舞うアルヴァは、もう気持ちの整理をつけたのだろうか。別れの寂しさを感じることもなく、むしろいなくなってくれて助かると思われているかもしれない。アルヴァにとってはそのくらいの別れの方が良いに決まっている。だが葵は、このままアルヴァと別れたくはなかった。しかし、そう考えることさえ卑怯な気がして、とりとめのない思考がぐるぐる回る。
「何か言ってよ、アル」
ネガティブな考えと重い沈黙に耐えられなくなって、葵は声を絞り出すようにして口火を切った。次の瞬間、瞬きによって零れた涙が頬を伝う。泣くつもりなどなかったので、葵は慌てて目元を拭った。
「……バカだな」
嘆息のようなアルヴァの声が聞こえてきて、頭に手を乗せられた。驚いて顔を上げたことで再び零れた涙を、アルヴァが指先で優しく拭う。そして彼は、苦笑を浮かべながら言葉を続けた。
「異世界に帰ると言っても、今すぐのことじゃないだろう?」
泣くのが早すぎる。いつものように呆れた素振りでそう言いながらも、アルヴァの表情は今までに見たことがないくらい柔らかなものだった。その微笑みに慈しみの情を感じた葵は、堪え切れずに両手で顔を覆う。するとアルヴァが、優しく抱きしめてくれた。
「アル……、ごめんね、」
アルヴァの優しさに身を委ねながら、葵は好きだと告げられた時には言えなかった思いを言葉にした。分かっていると言うように、アルヴァは葵の頭を軽く叩く。そうして赤子をあやすように、アルヴァは葵が泣き止むまで傍にいてくれたのだった。
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