「うわ、なんやその顔」
仮住まいとしている屋敷に戻るなり、クレアが発した第一声がそれだった。ひどい顔をしていることは自覚していたので、葵は腫れぼったい目をさらに細めて苦笑して見せる。葵を屋敷まで送って来たユアンが、それを見て小さく吹き出していた。そんな玄関先でのやりとりの後、その場にいた者達はサルーンに移動する。クレアが魔法を使わずに淹れてくれた紅茶がテーブルに並ぶと、葵は改めて口火を切った。
「クレアに話があるの」
そう切り出しただけで、クレアには何の話なのか分かったらしい。無言で頷いた彼女が目線で続きを促したので、葵は深呼吸をしてから言葉を重ねる。
「私、元の世界に帰るね」
「断言したっちゅーことは、帰る方法が分かったんやな?」
「うん。時の精霊が教えてくれた」
時の精霊から聞いたことをそのまま話すと、クレアは拍子抜けしたような表情になった。その表情はユアンやアルヴァに伝えた時と同じもので、心中を察した葵は同意の微苦笑を浮かべる。クレアは深々と嘆息して、ティーカップに手を伸ばした。
「灯台下暗し、っちゅーやつやな。そないに単純なことやったんなら、わざわざ時の精霊っちゅー危ないもんを召喚することなかったな」
「でもさ、時の精霊に教えてもらわなければ気付けなかったと思うよ。だからどのみち、必要だったんだ」
「それもそうやな。で、アオイはいつ帰るんや?」
それまでユアンと会話をしていたクレアが不意に矛先を向けてきたので、紅茶を飲もうとしていた葵は手を止めた。そのまま手は下ろして、葵はクレアに向き直る。
「ユアンが、私が帰る前に実験した方がいいんじゃないかって」
「実験?」
「うん。理論は完璧だけどやっぱり、いきなり人間で試すのは怖いなって思って」
なんとかなるだろうと試みて失敗したことは星の数ほどもある。クレアの疑問に答えたユアンはそう言って楽観的に笑っていたが、失敗の一例でもある葵は笑えなかった。無知だった頃は怖いもの知らずだったが、様々な知識を得た今となってはユアンの『大丈夫』があまり信用出来ない。
「大丈夫だよ、アオイ。僕はアオイが大好きなんだから、絶対に無茶なことはしない」
疑っている傍からユアンに大丈夫と豪語されたため、葵は乾いた笑みを浮かべることしか出来なかった。クレアも苦笑いしていたが、ユアンは気にせずに話を続ける。
「それにアオイも、皆にちゃんとお別れを言いたいでしょ?」
挨拶回りが済んでから帰ればいいとユアンが言うので、葵は真顔に戻った。この世界との別離はすでに時間の問題で、他人の口から言われると改めて、そのことが身に沁みてくる。複雑な心境になった葵が無言で頷くと、次にクレアが口を開いた。
「ハルのことはどうするつもりなんや?」
「あ、それは僕も気になってた。話し合い、してるんでしょ?」
結論が出ているかどうかは別にして、そこに至るまでに必要な説明などはすでに済ませているものだと、ユアンは考えているようだった。しかし、ハルとまともな話し合いをした覚えのなかった葵は答えられずに黙り込む。代わりにクレアが、ユアンに説明を加えた。
「ハルが知っとるんは、アオイが元の世界に帰るかどうか迷っとるっちゅーところまでや。そこから進展、ないんやろ?」
クレアに尋ねられたので、葵は無言のまま頷いて見せる。ユアンは眉をひそめ、葵に向かって言葉を重ねた。
「ハルはなんて言ってたの?」
「分かった、って」
「それだけ?」
再び口を噤んだ葵が小さく頷くと、ユアンは微苦笑を浮かべて見せる。
「ハルらしいと言えばハルらしいね」
「せやけど、なんにも分からんわ」
「うーん、アオイ自身はどうしたいの?」
自分がどうするかの答えは、すでに出ている。それならばハルとの未来を考える上で、考えられる選択肢は二つだけだ。ハルが生まれ育った世界を捨てて葵のいた世界に来るのか、またはお互いが生まれ育った世界で生きることを選ぶのか。ハルの考えは不明だが、葵が選択できる答えは一つしかないように思われた。
「着いて来て、なんて言えないよ」
異世界で暮らすことの辛酸を、葵は身を持って知っている。様々な幸運に恵まれた葵はなんとか適応することが出来たが、ハルの場合は葵以上に過酷だ。現実的に考えて、有り得ないと断言してもいい。葵がそう答えると、ユアンは慎重な様子で問いを重ねてきた。
「別れる覚悟は出来てる、ってこと?」
「そう……なのかな?」
曖昧に答えはしたが、胸中ではそうなのかもしれないと認める自分がいた。ハルと付き合ってからのことを思い返せば、いつもどこかで別れを意識していたような気がする。それは恋人としての関係が終わるということよりも、自分が在るべき世界についての問題だったようだ。それほどまでに帰還を望んでいたことを、葵はユアンとの会話の中で初めて知った。そして同時に、ハルへの申し訳なさが込み上げてくる。
「やっぱり、付き合うべきじゃなかったのかも」
「ハルのこと、実はそんなに好きじゃなかったってこと?」
「違うよ!」
何を言っているのだと葵が喚くと、クレアは目を瞬かせ、質問をしてきたユアンは笑みを浮かべた。カマをかけられたことを知って、葵は気恥ずかしさに口を閉ざす。その後を引き受けて、ユアンが再び口火を切った。
「知ってるよ。アオイはずっと、ハルのこと好きだったもんね?」
「出会いとかキッカケとか、うちはよう知らんけど、ホンマにハルのこと好きやったんやなぁ」
クレアにまでしみじみと言われてしまい、肯定も否定もし辛かった葵は黙り込むより他なかった。ユアンの言う通り、確かに葵は長いことハルに片思いをしていた。それも、芸能人以外では初めて好きになった男の子だ。そんな人物と両思いになれたことは感慨深く、今でもまだ夢の中にいるのではないかと感じる時がある。そしてそんな日々は、間もなく本当の夢に変わってしまうのだ。
「そういえば、ハルに
クレアが不意に話題を変えたので、暗い気持ちになりかけていた葵は目を上げた。
「何か……言ってた?」
ハルと最後に会ったのは、体の関係を持とうとして拒んでしまった夜のことだった。気まずいまま別れたきりだったので反応が気になったのだが、クレアは何もと言う。いつものハルだったと聞かされて、葵は拍子抜けしつつもひどく納得してしまった。
「そういうこと、誰かに話すようなタイプじゃなかったね」
「せやな」
葵とクレアが二人で頷き合っていると、事情を知らないユアンが容喙してきた。説明を求められたため、なんと言っていいか分からなかった葵は視線を逸らす。するとクレアが、何の躊躇いもなくズバッと核心を口にした。
「ハルに迫られて拒んでしまったんやて。それで、アオイが気にしとるいうわけやな」
クレアは良くも悪くもストレートで、常人なら言い辛いと感じる話題でも直球で切り込んで行く。それを補って余りある気遣いが出来る人物なのだが、この話題に関しては気配り必要なしと思われたようだ。葵は目を剥いたが、ユアンは得心して笑う。
「初々しい悩みだね」
「ユアンに初々しいとか言われたくないから!」
彼の女性経験は聞くのが怖いが、三つも四つも年下の男の子に諭されたくはない。恥ずかしさも相まって憤慨した葵を、軽くいなしたユアンは飄々と話を続ける。
「でもそんな状態だったなら、未遂で済んで本当に良かった」
ユアンの発言に主語はなかったが、葵は何を言われているのかすぐに理解した。一人首を傾げているクレアに、ユアンは夢魔の存在とその生態を説明している。話を聞いているうちに夢魔に襲われた時の記憶が蘇ってきて、背筋を冷やした葵は肌を粟立たせた。クレアへの説明を終えると、ユアンは再び葵を振り向く。
「ねぇ、アオイ。帰る前にハルと、ちゃんとしといた方がいいんじゃないかな」
「ちゃんと、って……」
話の流れからしてユアンが言わんとしていることは分かっていたが、葵は恐る恐る、そういうことなのかと問い返してみた。ユアンが真顔でそういうことだと言うので、眉尻を下げた葵は空を仰ぐ。
「そんなこと言われても……」
「怖い?」
「……ううん」
焦りすぎて気持ちがすれ違ってしまった時は、怖かった。しかし夢魔と遭遇した今となっては、もっと恐ろしいことを知っている。初めての相手は絶対に好きな人がいいし、ハル以外には考えられない。だが、思い切り拒んでしまった後なのだ。どうすればいいか、経験の乏しい葵にはさっぱり分からなかった。
「抱いて、って言えばいいやんか」
葵が胸中を打ち明けると、クレアがサラリととんでもない答えを返してきた。絶句した葵とは対照的に、ユアンは爆笑している。そんな中で一人だけ真面目な顔をしているクレアが言葉を続けた。
「ごちゃごちゃ考えるからあかんて、前にも言うたやろ?」
こういうことはストレートでいいのだと言うクレアは、いつになく堂々としている。笑いを収めたユアンも、それくらいがいいのではないかと同調し始めた。
「お互いに好きなのはもう分かってるんだし、いいと思うよ」
「そんな、簡単に……」
「じゃあ、こういうのは?」
その後、ユアンが色々と案を出し始めたため、いつの間にか作戦会議のようになってしまった談話は夜が更けても続いた。
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