葵が足を止めたのは、丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校の校門にあたる場所だ。転移魔法を使える者は、この校門付近に描かれている魔法陣に一瞬で移動出来るのだが、葵は小一時間ほどの道程を歩いて来た。学園に通うことになった当初は遠すぎると不満を抱いたものだが、今ではすっかり通い慣れた道である。さほど疲労を感じることもなく、少しだけ休憩した葵は再び歩き出した。
トリニスタン魔法学園アステルダム分校は敷地内の中央部に校舎があり、その東側には一部の生徒のみが利用している特別な施設群がある。そのうちの一つである『時計塔』を訪れた葵は、壁に大きな穴が開いている二階へと足を運んだ。この場所は学園のエリート集団であるマジスターが楽器の練習に使っているようなのだが、そのような姿を見かけることは滅多にない。無論、それが目的というわけでもなく、葵は自らの用事を済ませるために携帯電話を取り出した。
「あ、もしもし?」
電話の相手は異世界の友人である
「ごめん。昨日はちょっと、色々あって」
『色々って何?』
「そっちに帰れることになったよ」
不機嫌に会話をしていた弥也だったが、葵の話を聞くと途端に黙り込んだ。しばらくしてから本当かと念を押されたため、葵は頷く。
「弥也、日本史の教科書なくしてない?」
『え、何で知ってるの?』
「ごめん、借りっぱなしだったみたい。でも、そのおかげで帰れそう」
『何? どういうこと?』
弥也が電話の向こうで眉をひそめる顔が見えた気がして、葵は懐かしさを感じながら補足した。
「私が元々いた時間……弥也がいる、そこに帰れないかもしれないっていうのは前に言ったよね?」
『うん、聞いた。だから松本さんは未来の世界に帰っちゃったってやつでしょ?』
葵と同じ世界から召喚され、送還魔法によって元の世界に帰ることが出来た女性、マツモトヨウコ。弥也は彼女と話したことがあり、その時に、彼女が未来へ帰還してしまったという話を聞いていた。そして葵に情報を伝えてくれたことによって、時の欠片集めが始まったのだ。葵がそうだと頷いたことで、弥也はそのまま話を続ける。
『その問題が解決したってことなんだよね?』
「うん。借りてた教科書が私と弥也を結び付けてくれてたみたい。だから弥也とだけ、こんなにしょっちゅう話が出来たんだって」
『へ〜。アタシの教科書、グッジョブじゃん』
弥也の言い回しがおかしくて、ひとしきり笑った後で葵は話を進めた。
「それでね、弥也の所に帰るっていう感じになるみたいなんだけど、それがどういう風になるのか分からなくて。私がそっちに行く前に実験させてほしいんだ」
『実験? って、どんな?』
「えっとね、まずは小さい物をそっちに送ってみるから、それがどういう風に出て来たのかとか説明して欲しい」
『ああ、なるほど。今?』
「今でも大丈夫なの?」
『要は人目につかない所にいればいいんでしょ? 平気だよ』
「じゃあ、ちょっと待って」
いったん電話を切ることを伝え、葵は通話を終わらせた。次にスカートのポケットからレリエという、通信魔法に使用する
『早っ』
再び電話をかけると、弥也の呆れた声が聞こえてきた。こちらの世界で過ごす一か月が弥也のいる世界の一日に相当するので、彼女にしてみれば、本当に一瞬電話が切れただけだったのだろう。魔法のない世界に戻るのだから、そろそろ感覚を戻しておかなければならない。そんなことを考えつつ、葵は話を進めることにした。
「何を送るの?」
ユアンに向かって問うと、彼は自分の指から引き抜いた指輪を示して見せた。それは無色透明の石が嵌めこまれた指輪で、無属性魔法を佑けるものなのだろう。床に置いた指輪を中心として魔法陣を描いてから、ユアンは葵を見上げた。
「行くよって伝えて」
「分かった。弥也、指輪がそっち行くからね」
弥也からの返事を受けた葵が指でOKサインを作ると、ユアンは呪文を唱えた。「アン・ルヴィヤン」は葵も聞いたことのあるもので、帰還を示す呪文だ。どうやら特殊なのは魔法陣の方らしく、呪文は至ってシンプルだった。
「弥也、どう?」
魔法陣の上から指輪が消えたことを目視し、葵は弥也に問いかけてみた。彼女からの返答は、指輪が降ってきたというものだ。
「降ってきた?」
『うん。目の高さくらいの所にいきなり出てきて、落ちた』
それはちょうど、以前に葵が突然現れた時のようだったと弥也は言う。弥也の言葉をそのまま伝えると、ユアンは口元に手を当てて考え込んでしまった。
「アオイ、石の色を訊いてくれる?」
「え? うん、」
質問の意図を掴めないまま、葵はユアンの言葉を弥也に伝えた。弥也からの返答は無色透明というもので、その結果を今度はユアンに伝える。石の色に変化がないことで、ユアンは何かに納得したようだった。
「転送したとき宙に浮いた状態になっちゃうのは、向こうに魔法陣がないせいだよ。大地を直接指定することも出来なくはないんだけど、さすがに異世界の大地は無理かな。アオイには着地に気をつけてもらって、アオイの友達には頭上に気をつけてもらうしかないね」
「……分かった、伝える」
ユアンの発言は要するに、細かな指定が出来ないから自分達で衝突を回避しろということだ。それを聞いた弥也は苦笑いしていたが、運動神経に自信のある彼女は不安ではなさそうだった。
「無機物が大丈夫って解ったから、次は有機物で試してみたいな。ちょっと待ってて」
そう言い置くとユアンが一人で姿を消してしまったので、葵は弥也と会話をすることにした。実験は一時中断であることを伝えると、弥也の方から話題を振ってくる。
『今一緒にいるのってどんな人なの? 例のイケメン?』
「例のイケメン?」
『金髪の、前に写メ送ってくれた人』
「ああ……。その人じゃないよ」
ユアンも金髪だが、メールで写真を送った『イケメン』は別の人物だ。そんなこともあったなと思い返しながら、葵は言葉を重ねる。
「弥也も見たことあるよ。私が一回そっちに帰った時、一緒にいたから」
『じゃあ、あのガイジンの子供?』
「そうそう」
『……あのさ、葵とあの子ってどういう関係なわけ?』
弥也から不審そうに問いかけられて、質問の意図が解らなかった葵は首を傾げた。
「どういうって、どういうこと?」
『キス、してたよね?』
まさか彼氏と言い出すのではないかと、弥也は危惧しているようだった。思ってもみなかった質問をされた葵はキョトンとした後、笑い声を響かせる。
「あれはアイサツっていうか、そんなんじゃないから安心してよ。大体、弥也は私の好み知ってるでしょ?」
『加藤大輝』
加藤大輝は葵が最も愛する芸能人で、即座にその名前が出てくるあたり、さすがは幼い頃からの付き合いだ。しかし弥也は、まだ納得していない様子で話を続ける。
『あの子さあ、可愛い顔してなんか手馴れてる感じがしたんだよね。あの手のタイプはチャラ男になるよ』
すでにチャラいですとも言えず、葵がなんとも言えない気持ちになっているところへ当の本人が帰還した。女子トークのことなど知らないユアンは何故か花束を抱えていて、それを先程の魔法陣の上に乗せる。有機物である純白の花束は、その可憐さを損なうことなく弥也の元に届いたようだった。
「アオイが話してる相手って、異世界で会ったあの女の子だよね? 彼女には白が似合うと思って買ってきちゃった。指輪と花束はプレゼントだって伝えてくれる?」
先刻の弥也との会話があっただけに、葵はどういう顔をすればいいのか分からなくなってしまった。伝言を受け取った弥也も、何も言えずに沈黙している。その様子をユアンが、不思議そうに眺めていたのは言うまでもない。
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