幸福の選択

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 数日中にはそちらに帰れるだろう。そう弥也に告げて、葵は異世界との電話を終わらせた。実験は大成功で、これなら安全に帰れるだろうと、ユアンも太鼓判を押している。数日中と猶予を設けたのは、この世界で出会った者達にちゃんとした別れを告げるための時間だった。

「アオイ、これからハルの所に行かない?」

 すでに帰還を告げた者は別として、まずは誰に会いに行くべきか。考えを巡らせていた葵はユアンが発した一言にドキリとした。恋人であるハル=ヒューイットは、本来ならば真っ先に会いに行かなければならない人物だ。しかし今は、色々な意味で顔を合わせ辛い。そうした動揺は顔に出てしまっていて、ユアンが諭すように言葉を次いだ。

「勇気が必要なのは分かるよ。でも、後回しにすればするほど会いにくくなるんじゃないかな」

「……そうだね」

 今までも、後回しにして良いことなどなかった。ユアンの言葉は正論で、頷くしかなかった葵は拳を握る。するとユアンが、その上から優しく包み込んできた。

「大丈夫。アオイは何も考えず、ハルに任せればいいんだよ」

 ユアンが言っているのは郷里に帰ることを告げる話ではない。昨晩の、作戦会議のことだ。その内容は思い出すだけでも恥ずかしく、葵はユアンを睨み付けた。

「そっちが一番の目的じゃないから」

「でもさ、話し合いの後だと言いにくくない? 先に済ませちゃった方がいいと思うな」

 葵が考えている『話し合い』を要約すると、元の世界に帰るから別れましょう、ということになる。ユアンの言う通り、そんな話の後ではとても言い出せることではない。一理あると思った葵は考え込んでしまったが、ユアンはあくまで明るく促した。

「昨日会議したこと、ハルの顔見たらすぐに言っちゃえばいいんだよ」

 さあ行こうと快活に告げ、ユアンは葵の返事を待たずに転移の呪文を唱える。彼はハルの情報をすでに入手していたようで、転移した先は見覚えのある屋敷の玄関前だった。

「じゃあ、頑張って」

 ウインクをして手を振ると、ユアンは葵を残して去って行った。その場から動けずにいた葵の前に、やがて若そうな執事バトラーが姿を現す。以前にも会ったことのある彼は葵を客人と認めているらしく、何を言ったわけでもないのに、ハルの部屋まで案内してくれた。

(ど、どうしよう)

 心の準備をする時間は十分にあったし、ハルには言わなければならないことがたくさんある。それなのに考えれば考えるほど、動悸が激しくなって思考を塞いでいった。まず口にするべきは『ごめんなさい』だ。そう結論は出ていたのに、ハルの顔を見た途端、考えていたことは全て吹き飛んだ。

「ハル、あの……」

 勢いで言葉を紡いでみたものの、その先が続かない。何度も同じ科白を繰り返す葵を見て、ハルは冷静に『何?』と問いかけてくる。彼があまりにもいつも通りだったことも、葵のパニックを助長した。真っ白になってしまった葵は何か言わなければと焦り、助言されたことを言い放つ。

「だ、抱ひて!」

 顔を合わせた瞬間にそう言えと言っていたのは、同居人であるクレア=ブルームフィールドだ。彼女は平然と助言していたが実際口にしてみると、その衝撃はメガトン級だった。

(言っちゃった! でも噛んだ!!)

 恥ずかしい科白を口にしたこともさることながら、ハルの反応が怖くて顔を上げられない。葵は何かしらのリアクションを待っていたのだが、いつまで経ってもハルは何も言わなかった。沈黙が長すぎて、舞い上がっていた葵も次第に冷静さを取り戻していく。

(あ、あれ?)

 気付かぬうちに、ハルはいなくなってしまったのだろうか。そんな疑いを持ちつつ顔を上げてみると、彼はまだそこにいた。真っ直ぐにこちらを見ていたが、予想していたような表情は浮かべていない。驚くどころか白けた様子で、ハルはゆっくりと口を開いた。

「思い出づくり?」

「……え?」

「帰れることになったから最後に、そういうこと?」

 身も蓋もない、言い方だった。しかしこれ以上ないほど、的を射ている。返す言葉のなかった葵が立ち尽くしていると、短く息を吐いたハルは背を向けた。

「聞かなかったことにする」

 その一言は、何を意味していたのだろう。真意を探ることも出来なくて、葵は全身から力が抜けていくのを感じた。ハルの背が、溢れてきた涙で滲んでいく。

(なんで……)

 ハルの立場からすれば、思い出づくりになど協力したくないという気持ちも分かる。だが他に、どうすれば良かったというのか。気持ちを残したまま別れなければならないのに、最後の最後でこの仕打ちはあんまりではないだろうか。

「なんで、私ばっかり」

 思わず零れた呟きを拾って、ハルが振り返った。真顔で聞き返されたため、葵は拳を握る。感情の暴走がもう、限界を超えていた。

「どうして私だけこんなに悩まなくちゃいけないの!? そんなこと言うんだったらハルが私の世界に来てよ!!」

 そんなことは無理だと、頭では解っていた。だからハルにも求めなかったし、自分がこちらの世界に残るか悩んだりもした。しかしそれは、あまりにも理不尽ではないだろうか。独りで悩まなければならなかった挙句、好きな人に冷たくされたら目も当てられない。

(ううっ……)

 せめて、きれいな思い出として残したかった。それなのに行動を起こした結果は、喧嘩別れという最悪のパターン。自分の幼稚さが恨めしくて、葵は次から次に溢れてくる涙を乱暴に拭った。ハルは無言のまま、近付いて来る。傷つく予感がさらに強まったが、彼は予想に反し、葵を優しく抱きしめた。

「いいよ」

 耳元でハルの声が聞こえてきたが、何を言われているのか解らなかった。しばらく呆けた後で、葵は改めて困惑を露わにする。

「いいって……何が?」

「アオイと一緒に行く」

「……え? はあ!?」

 何がどうしてそうなったのか、葵にはさっぱり解らなかった。葵が発した素っ頓狂な叫びを機に、体を離したハルは真顔のまま言葉を続ける。

「何も言わないから、置いて行かれるかと思った」

「ちょっと、待って」

 眩暈を感じた葵は自身の手で顔を支え、一呼吸置いてからハルに向き直った。

「置いて行かれるって、何? ハルは最初から私と異世界に行くつもりだったの?」

「アオイが帰るなら、そうしようと思ってた」

「全然知らない世界に行くのに、そんな簡単に決めちゃっていいの?」

 異世界での生活を想定していたのなら、それなりの準備をしなければと考えるのが普通だろう。しかしハルからは、生まれ育った世界についての質問をされた覚えがない。雑談程度に話題に上ったことはあるだろうが、それしきの情報で本当に大丈夫なのか。そうした危惧を問うと、ハルはどうでもいいと答えた。

「アオイがいるなら、それでいい。好きなのに手を離すことは、もうしたくないから」

「……っ、」

 ハルはかつての恋人であるステラ=カーティスと付き合っていた時、変わらぬ気持ちを抱きながらも自分から別れを選択した。同じ過ちは繰り返したくないと、彼は初めから言っていたのだ。

(本気、なんだ)

 場の空気に流されて言ったわけでも、考えなしなわけでもない。ステラの話を持ち出されたことで、ハルの本気は骨身に沁みた。不安はあったが、ただどうしようもなく嬉しくて、葵の頬を先程とは種類の違う涙が伝う。

「もっと早く、言ってよ」

「アオイが望んでなかったら重荷になる」

「そんなわけないじゃん。ずっと、一緒にいたいよ」

「俺も」

 良かったと囁いて、ハルはキスを落としてきた。甘くとろけるような、触れ合うだけの口づけ。その後、不意に真顔に戻った彼は葵の肩にポンと手を置く。そして会ってもらいたい人がいると、告げたのだった。






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