「ちょお、待ってぇな」
沈黙を破り、一番初めに口を開いたのはクレアだった。彼女は困惑した様子で、葵に向けて言葉を続ける。
「何がどうしたらそういう話になるんや」
生まれ育った世界に帰るから、ハルとは別れるつもりだ。クレアにそうした話をしたのは、二日前の出来事だったように思う。それがいきなり結婚と言われたのでは、クレアでなくとも驚きを隠せないだろう。彼女の心中を慮って、葵は苦笑を浮かべながら答えを口にした。
「あの後、色々あって」
「おたくは色々ありすぎや!」
クレアからは鋭いツッコミを頂戴してしまったが、嘆息した後、気分を切り替えたらしい彼女は笑みを浮かべる。
「ま、良かったんやないの?」
気持ちを残したまま別れることになるよりも、頑張れることがあるのなら努力してみればいい。クレアがそう言ってくれたので、葵ははにかみながら「ありがとう」と応えた。
「いや……驚いたな」
まだ呆然としたまま、独白のように言葉を紡いだのはオリヴァーだ。その横で、すでに真顔に戻っているウィルも口を開く。
「もう挨拶回りは済ませたの?」
「うん。ハルの実家と、あと王城に行ってきた」
「この国の結婚っちゅーのはどういうもんなんや?」
疑問を呈したクレアは
「アオイとハルは先に王城に行ったみたいだけど、普通は結婚式を挙げてから王家の方々に報告に上がるな」
公爵家は特に、王家から借り受けた土地を治めている立場上、この報告が重要となる。だが親類縁者を含めると膨大な数になってしまうため、通常は直系のみに留めるのが暗黙のルールだ。そう補足した後で、オリヴァーは葵を見た。
「陛下も驚かれていただろう?」
「……目が点になってた」
「心中、お察しするぜ」
オリヴァーが苦笑いを浮かべたことで、クレアも同様の表情になった。おそらく二人とも、その時の光景がありありと想像出来てしまったのだろう。ただ一人だけ、真顔のままでいるウィルが淡々と話を続ける。
「フレデリカさんはなんて言ってたの?」
「爆笑してた」
ハルが答えると、ウィルはオリヴァーと顔を見合わせた。どうやら彼らは、フレデリカに会ったことがあるらしい。二人とも訝しげな顔つきで、ハルに質問を重ねる。
「あのフレデリカさんが、爆笑?」
「ハル、フレデリカさんに何言ったの?」
「俺じゃなくてアオイが……」
ハルが何を言おうとしているのか察した葵は、慌ててその話題を止めにかかった。しかしそのことが、逆にオリヴァーとウィルの興味を引いてしまう。何を言ったのかしつこく尋ねられたが、葵は頑として口を割らなかった。
「もう、その話はいいから」
恥ずかしい科白をなんとか隠そうとしていると、オリヴァーとウィルが不意にあらぬ方向に視線を傾ける。その仕草は何度も見たことがあるもので、葵はシエル・ガーデンに新たな来訪者があったことを知った。
シエル・ガーデンは広大な花園であり、葵達はその中央部に設けられた花を愛でるための場所で話をしていた。その場でしばらく待っていると、やがて来訪者が姿を見せる。ユアンと、彼の家庭教師であるレイチェル=アロースミスだ。ユアンを主人と仰ぐクレアがすかさず紅茶の準備を始めていたが、ユアンはやんわりとそれを制す。それから彼は、葵に目を向けてきた。
「アオイ、それとハル。話があるんだ」
「話?」
なんだろうと眉をひそめた葵はその場で話を聞こうとしたのだが、ユアンはつと視線を動かした。ユアンに目を向けられたのはクレア・オリヴァー・ウィルの三人で、彼らはすぐさま席を立つ。ありがとうと言って、ユアンが彼らを見送った。
(これって……)
当事者以外の者達に、席を外させた。そのうえで切り出される話には悪い予感しか湧いてこない。不安になった葵はハルを仰いだが、彼は真顔を崩すことなくユアンを見つめていた。
「アオイとハル、結婚するんだってね」
ユアンにはまだ、その話を伝えていなかった。それなのに彼が知っていたのは、どうも国王から話を聞いたためらしい。レイチェルも知っているようだったが、彼らから祝福の言葉はなかった。真顔のままでいるユアンは、ハルの方を向いて言葉を続ける。
「ハルに確認しておきたいことがあるんだけど」
「何?」
「アオイと結婚したいのは分かったけど、ハルはこれからどうするつもりなの?」
ハルの家族には葵と共に異世界へ行くことを伝えたが、国王にはその辺りのことを言っていなかった。そのためユアンも、ハルの考えを知らなかったようだ。まして葵は、ユアンにハルと別れると話してあった。そのことを思い返せば、この質問は当然のことのように思われる。
「アオイと異世界に行く」
葵から説明を加えようとした刹那、ハルが問いの答えを口にした。改めて宣言してくれたことが葵にとっては感慨深かったのだが、ユアンは表情を動かさないままに淡々と話を続ける。
「アオイが元々いた世界がどんな所なのか、ちゃんと理解してる?」
ハルは、答えなかった。それが否であると受け取ったようで、ユアンは少し表情を険しくしながら言葉を重ねる。
「僕は実際に、この目で見てきた。束の間だったし、世界のほんのわずかしか目にしてないけど、それでも、歴然とした世界の違いがあった」
今いる世界とは何もかもが違う、異世界。そこへ何の情報もなく飛び込んで、本当に大丈夫なのか。そうしたユアンの気遣いが、葵には痛いほど伝わってきた。普段の彼からは想像がつかないほど強い口調だったが、それは心配してくれているが故だ。
「……大丈夫かどうかは、分からない」
ユアンが口を閉ざしてから少しして、ハルが答えを口にした。続けてハルは、それはやってみないと分からないことだと言う。ユアンは頷いていたが、納得はしていないようだった。
「ハルの言い分は確かに一理あるね。だけど、そう思うことと情報収集しないことは別問題だよ」
「そうなのか?」
誰に尋ねているのか分からない呟きを零すと、ハルは考え込んでしまった。誰もが口を噤んでハルの回答を待ったが、結局彼は考えることを止めてからも黙ったままだった。何故そこで、会話が途絶えてしまうのか。ハルと話をしていると、そういうことは間々ある。
「あのさ、私がこれから教えるから」
意味の分からない沈黙に耐えかね、葵から提案を出してみた。しかしユアンは、それでは不十分だと言う。
「アオイが教えるって言っても限界があるでしょ? ここは実際に体験してもらった方が早いと思うんだよね」
「実際に、体験?」
「うん。ハルには
「えっ……」
久しぶりに聞く名に、葵は驚きを隠せなかった。葵達が現在いるのは東の大陸で、フロンティエールは西の大陸に位置する国の名前である。この国は世界的に見ても特殊で、一切の魔法を使うことが出来ない。自発的に使うことを制限するのではなく、全ての魔法が封じられてしまうのだ。環境面で言えば、葵の生まれ育った世界とこれほど酷似した場所もないだろう。しかし、フロンティエールには……。
「分かった、行く」
危惧する葵をよそに、ハルはいとも簡単にユアンの提案を受け入れた。眉一つ動かしていないハルは、本当に分かっているのだろうか。別のことを危惧した葵はそれとなくハルを諌めようとしたのだが、彼の結論は変わらなかった。
「いつ行けばいい?」
「詳細はレイから聞いてよ。一ヶ月くらいアオイと会えなくなるけど、いいんだよね?」
ユアンに念を押されて、ハルは初めてそのことに思い至ったようだった。しかし決断は変わらず、淡泊に「じゃあ」とだけ告げたハルはレイチェルに連れられて去って行く。背中を見送るしかなかった葵には、ユアンが声をかけてきた。
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