「えらい、丸くなってしもうたな」
アルヴァが去った後、クレアがぼそりと呟きを零した。それについては同意を示したうえで、オリヴァーは言葉を続ける。
「気持ちの整理がついて、心にゆとりがあるってことだろ? 悪いことじゃないぜ」
「せやなぁ……。キリルもいつか、あんな風になるんやろか」
「どうだろうな」
それについては、キリルがどういう答えを出すかによる。アルヴァのように叶わなかった恋を過去のものと割り切れればいいのだが、キリルが彼と同じ境地に辿り着くとも限らないのだ。ハルの裏切りを、いつまでも恨んでしまう可能性もある。そして恋をしていた過去を思い出したくない記憶として封印してしまうのは、とても悲しいことだ。
「キリルなら大丈夫だよ」
不意に、予想もしていなかった場所から話に割り込まれた。声の主はすでに分かっていたため、オリヴァーとクレアは慌てて背後を振り返る。すると案の定、そこにはユアンの姿があった。破顔して軽く手を振って見せると、彼はそのまま話を続ける。
「なんたって、クレアとオリヴァーっていう頼もしい友達がいるんだから」
満面の笑みでそんなことを言われてしまえば、クレアとオリヴァーには苦笑する以外に術がなかった。その表情のまま、クレアがそれとなく話題を変える。
「いつからおったんや」
「基本的にはずっと見てたよ」
結婚式では進行役を務めたユアンだったが、パーティーに移ってからの彼は裏方に徹していた。ワケアリ荘の住人達と再会した時は傍にいたのだが、その後は別行動になったため、彼がどこにいたのかクレアは知らない。しかしユアンは、その後もずっと近くにいたのだという。クレアやオリヴァーがそれに気づかなかったのは、ユアンが魔力を完全に消してしまえる指輪を所持しているからだ。それはもう覗き見と大差なく、クレアは心臓に悪いと遠まわしに非難していた。だが承知の上で行動しているユアンは、どこ吹く風で話題を変える。
「アオイとハルも帰っちゃったし、そろそろパーティーもお開きかな」
主催者であるユアンの一言にドキリとしたのは、クレアもオリヴァーも同じだった。パーティーが終わるということは葵やハルとの別れが、いよいよ迫って来るということだ。
「寂しいね」
クレアとオリヴァーの顔を見て、困ったように微笑んだユアンは独白を零す。それは二人の胸裏を代弁したものであり、彼自身の思いが込められた言葉でもあった。本当に別れが近いのだと、改めて実感した様子のクレアは空を仰ぐ。
「明日から、家に帰ってもアオイがおらんのやな。妙な気、するわ」
クレアと葵が暮らしている屋敷には、二人の他は使用人もいない。そのことを知っているオリヴァーはすぐさま、いつでも声を掛けてくれと申し出た。クレアは苦笑して、曖昧な相槌を打ってから話を変える。
「オリヴァーはどうなん?」
「ハルがいなくなることについて、か?」
腕組みをしたオリヴァーは、そのまま考え込んでしまった。その結果出て来た答えは、よく分からないというものだ。
「クレアみたいに一緒に住んでた奴がいなくなるってわけでもないし、もともと気が向いた時に集まるってことが多かったからな」
それにハルの場合は、気付けばそこにいそうな感じがする。オリヴァーが真顔でそう言ったためか、クレアが小さく吹き出した。
「確かに、そこらで寝てそうやわ」
「まあ、でも、アオイが学園に来てからは賑やかだったからな。そういうのが無くなるのは、やっぱり寂しいと思う」
「せやなぁ……」
本人が悪いわけではないのだが、葵はある意味トラブルメーカーのような存在だった。彼女の周囲では常に何かしらの事件が起こっていて、日常が変化に富んでいたのだ。これからは、そうしたこともなくなってしまう。決してトラブルを求めているわけではないのだが、騒がしかった学園での日々を回顧したクレアとオリヴァーはしんみりしてしまった。
「……飲もか」
「そうだな」
しばらく沈黙した後でクレアとオリヴァーが出した答えに、今度は傍で話を聞いていたユアンが吹き出した。いいねと笑いながら、彼は言葉を紡ぐ。
「明日は準備が整い次第連絡するから。あんまり飲みすぎないようにね」
最後にしっかりと釘を刺してから、ユアンは手を振って去って行った。クレアとオリヴァーは、ウィルも誘おうという話をしながら歩き出す。彼らが会場を去ってしばらくすると、別れの宴は終焉を迎えた。
親しかった人達に別れを告げて王城の大広間を出た後、葵とハルはパンテノン郊外にある屋敷に戻って来ていた。ここは葵とクレアが暮らしている場所なのだが、何故ここになったのかというと、ハルが希望を出さなかったからだ。思い返してみれば、どこに帰るか尋ねた時から半分意識が飛んでいたのかもしれない。ドレスからの着替えを終えた葵が寝室としている部屋に戻ると、ハルはすでにベッドの中で熟睡していた。
(……緊張して損した)
今夜はいわゆる、新婚初夜というやつである。葵もそれなりの覚悟を持って、ハルを部屋に招き入れた。それなのに肩透かしを食らってしまい、脱力した葵はとりあえずベッドの際に腰を下ろす。スプリングが軋んでもハルが目を覚まさなかったため、葵はその寝顔をじっと見つめた。
生まれ育った世界では異性関係に縁のなかった葵だが、この世界に召喚されてからは、幾度か貞操の危機に晒されたことがある。その最たるものが、先日この部屋で襲って来た夢魔だ。運良く未遂で済んだことで葵は改めて、初めては好きな人がいいという思いを強くしていた。一度は拒んでしまったが、結婚式の後ならばシチュエーション的には最適である。ましてや今日は、この世界で過ごす最後の夜。思い出づくりというわけではないが、ハルと出会えたこの世界で一つになりたいと、葵はそんなことを考えていた。それなのに、現実は……。
(ま……いっか)
晴れて夫婦となったのだから、何も焦ることはない。気持ちよさそうに眠るハルを見ているうちにそんな気分になって、葵は自然と笑みを浮かべた。
「おつかれさま」
ハードスケジュールをこなしたハルを労って、葵はそっと口唇を寄せた。それは相手が寝ているからこその行動だったのだが、体を起こそうとしたら逆の力に引かれてしまう。虚を突かれた葵は瞬きを繰り返して、それから恐る恐る言葉を発した。
「起きてたの?」
「……寝てた」
「眠いなら寝てていいんだよ?」
「ん〜……」
寝言のような言葉を発しながらなんとか会話を成立させているハルは、葵を抱きしめる腕に力を込めてきた。それは縋りつくような抱き着き方で、ときめきよりも愛おしさを覚えた葵はハルの髪に手を伸ばす。頭を撫でると、ハルはされるがままに大人しくしていた。
(気持ちいい)
柔らかな布団の感触と、指通りのいいハルの髪と、溶け合う体温が眠りを誘う。このまま寝てしまおうと思った葵は目を閉じたのだが、ふと、ハルが抱きしめる力を緩めて言葉を紡いだ。
「怖くないの?」
「……え?」
夢見心地でいた葵はハルが何を言ったのか、とっさには理解出来なかった。寝言かとも思ったのだが、ハルは葵を解放して体を起こす。起き上がって見ると、彼は寝起きとは思えない真顔でこちらを見ていた。先程の問いかけを思い返して、心当たりのあった葵は「ああ……」と独白を零す。
「怖くないよ」
「何で?」
以前は拒絶したのに、何故今は平気なのか。ハルは言葉にこそしなかったが、そう問われていることは明白だった。葵は意を決するために一つ息を吐いてから、問いの答えを口にする。
「この前は、ごめん。ああいうことするのにちょっとトラウマがあって、急に怖くなっちゃったの」
そのトラウマの原因となった出来事まで、葵はハルに話して聞かせた。無表情を変えない彼は葵の過去を聞いても眉一つ動かさなかったが、そのブラウンの瞳は真っ直ぐにこちらを見据えている。葵も目を逸らさないまま、少し顔を歪めて言葉を重ねた。
「ハルは、軽い気持ちでああいうこと出来るタイプじゃないもんね。それだけ私のこと好きでいてくれたのに、突き飛ばしちゃってごめんなさい」
クレアに言われてハルの行動の重みに気が付いたのだから、考えなしだったと言う他ない。一度は受け入れたのに拒絶されて、彼はどれだけ傷ついたことだろう。自分が逆の立場だったらと思うと居たたまれなくて、葵はさらなる謝罪の言葉を続けようとした。しかしそれは、突然口唇を奪われたことによって遮られる。驚いた葵が目を丸くしていると、ハルは真顔のままで小さく首を振った。
「もう、いい」
「ハル……っ、」
赦してくれるのかと問いかけようとしたところ、葵は再び言葉を失った。それはもう会話は必要ないということで、緩やかに体を倒された葵はハルを見つめる。ただ愛おしくて、葵はそのままハルの頬に触れた。
「好きだよ」
平素であれば恥ずかしくて言えないような科白が、自然と口唇から零れ落ちる。こんな時でも真顔のままでいる彼は、葵の耳元に顔を寄せてある言葉を囁いた。それは葵が口にしたことよりも激しい愛の言葉で、戦慄を覚えた時のように、背中の辺りが疼く。そこからはもう言葉など意味を成さず、夫婦になって初めての夜はゆっくりと更けていった。
Copyright(c) 2017 sadaka all rights reserved.