「遅い」
神経質そうな口調で文句を零したのは、全身を白で統一している青年。髪や肌まで真っ白な彼は、この国の王女の教育係であるローデリック=アスキスという。ローデリックの隣にはこの国の王女であるシャルロット=L=スレイバルの姿もあって、彼女はヴィクトリアン・モーヴの瞳を、苛立っている自身の教育係に向けている。その視線を感じ取っていないはずはないのだが、ローデリックの苛立ちは収まりそうもなかった。
王女であるシャルロットがアステルダム分校に来ているのは、今生の別れとなる友人の見送りをするためである。送られる側の二人はすでに来ているのだが、まだ見送る側の人間が揃っていなかった。現在は遅刻者を待っている状態なのだが、付き添いで来ているだけのローデリックにはそうした事情など関係がないのだろう。今にも貧乏ゆすりを始めそうなローデリックを見て、その場にいた青年が傍にいる人物に声をかけた。
「連絡はしてあるのですよね?」
金髪に碧眼の青年は、名をアルヴァ=アロースミスという。彼が声をかけたのは、金髪に紫色の瞳が印象的な少年だ。ユアン=S=フロックハートという名の彼は、アルヴァの問いかけに頷いて見せる。だが思う所があるのか、ユアンは遠い目になって後に言葉を続けた。
「昨夜は飲み明かすって言ってたからねぇ」
ユアンが話題に上らせているのは、クレア=ブルームフィールド・オリヴァー=バベッジ・ウィル=ヴィンスという三人の少年少女のことだった。他の者達はすでに集まっているのに、彼らだけがまだ姿を見せていない。遅刻の原因であろう出来事をユアンから聞かされて、苦笑いを浮かべたアルヴァは自分が迎えに行こうと申し出てくれた。
「あっちはアルに任せて、僕達は移動しようか」
アルヴァが転移魔法によって姿を消すと、ユアンがその場にいる者達に声をかけた。彼の先導で、一行は塔の内部へと移動する。壁面に開いている穴から二階部分に進入すると、そこにはすでに魔法陣が描かれていた。その中央部に風呂敷包みを発見して、白のワイシャツにチェックのミニスカートといった出で立ちをしている少女が首を傾げる。
「あれ、何?」
風呂敷を指差しながらユアンに声をかけたのは、これから異世界へ旅立つ宮島葵だ。開けてみなよとユアンが言うので、風呂敷に近付いた葵は封を解いてみる。すると中には、金銀財宝が山積みになっていた。
「アオイの世界でも価値がありそうな物を見繕っておいたんだ」
当面の資金に使ってよとユアンは軽く言うが、これだけの貴金属があれば一生遊んで暮らせそうな気がする。しかし妙な緊迫感を覚えたのは葵だけだったようで、葵と共に異世界へ行くことになっているハル=ヒューイットなどは、平然とユアンに礼を言っていた。彼は大貴族の息子なので、こうした物は見慣れているのだろう。価値観の相違を改めて目撃した葵は先行きの不安を覚えたが、そんなことを今更気にしても仕方がない。何があるか分からないのだから金はあるに越したことはないと、ありがたく餞別を頂戴することにした。
「アオイの荷物は、それだけ?」
ユアンが確認してしまうほど軽装の葵が持っているのは、共に異世界へとやって来た鞄だけだった。ハルに至っては、手ぶらである。
「アオイのいた世界には魔法が存在しないのですから、荷物は少ない方がいいでしょう」
葵とハルが荷物をあまり持っていないことについて私見を述べたのは、金髪に碧眼の女性。理知的な雰囲気を助長する縁なしの眼鏡をかけている彼女は、アルヴァの姉であるレイチェル=アロースミスだ。冷静沈着な彼女には、世話になった記憶しかない。昨夜のパーティーではろくに話せなかったため、葵は改めてレイチェルに向き直った。
「レイ、色々ありがとね」
「元はと言えばユアン様の悪行を阻止出来なかったわたくしにも責任がありますから、お気になさらずに」
当然の助力をしたまでだと、レイチェルは淡々と語る。その決して揺らぐことのない冷静さに最初は怯ませられたものだが、様々な経験を共有した今となっては、彼女は誰よりも頼もしい存在だ。もう困った時のレイチェル頼みが出来なくなるのだと思うと、葵は妙な寂しさを覚えた。
「レイみたいなお姉ちゃん、欲しかったなぁ」
「え〜? そうかなぁ」
葵の願望に異を唱えたのは、実際にレイチェルと家族同然の生活をしているユアンだった。厳しく指導されるよとユアンが言うので、葵は呆れながら反論する。
「それはユアンの行いが悪いからでしょ?」
「そんなことないよ。ハルなら僕の気持ち、分かってくれるんじゃないかな」
ユアンが唐突にハルを巻き込んだので、葵もそちらに視線を移した。しかしその場の注目を集めているハルは無表情のままで、うんともすんとも言わない。ノーコメント、ということなのだろう。
雑談が一段落したところで、ローデリックがわざとらしい咳払いをした。それが何かの合図であったかのように、ローデリックを一瞥したシャルロットが歩を進めて来る。葵の傍まで来た彼女は、そろそろ戻らなければならないのだと告げた。
「そっか。なんか、ごめんね」
シャルロットはスレイバル王国の王女であり、本来ならばこのような場所にいる身分の者ではない。いくら一瞬で移動が可能な世界とはいえ、王女があまり王城を空けているのは好ましくないのだろう。ローデリックにも一応の謝罪を入れてから、葵はシャルロットに向かって言葉を次いだ。
「指輪、大切にするから。元気でね、シュシュ」
結婚式にもらった指輪を見せながら言うと、こくんと頷いたシャルロットは抱き着いてきた。小柄で、綿菓子のようにふわふわしている彼女を優しく抱き止め、別れの抱擁を交わす。最後は笑顔で手を振って、シャルロットは王城に帰って行った。
シャルロットとローデリックが去ってしばらくすると、アルヴァが戻って来ないという話になった。このまま待ち続けるかとユアンに問われたため、葵はハルにも確認をとる。ハルの答えは「どちらでもいい」というもので、相変わらずの淡泊だと感じた葵は苦笑を浮かべた。
「他にはもう、お別れをしてない人はいない?」
クレア達を待つべきなのか葵が迷っていると、ユアンが再び声をかけてきた。改めて言われると、思い当たる人物がいないわけではない。しかし会うことは難しそうで、葵は口にすることが出来なかった。答えが返って来なかったからか、ユアンが言葉を重ねる。
「ザックとリズからは伝言を預かってるよ」
「……え」
ユアンの口から彼らの名前が出て来たことに、驚きを隠せなかった葵は瞠目した。どうして知っているのかと尋ねてみれば、ユアンは不敵に笑って見せる。
「思いつく限り全部、招待状を送ったって言ったでしょ?」
確かに、結婚式の準備を全てやってくれたユアンはそう豪語していた。しかしザックとリズとの付き合いはごく短い間のことで、クレアでさえ、彼らのことについては詳しく知らないのだ。それなのに情報が筒抜けになっていることに、葵は改めてユアンの恐ろしさを感じた。
「ユアンには隠し事、出来ないね」
「え、隠してることだったの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
話が妙な方向に流れ出したので、葵は早々に修正することにした。先を促されたユアンも表情を改めて、話を元に戻す。
「アオイの事情も話して、結婚式の招待状も渡したんだけど、恐れ多いって断られちゃってね。それで、伝言だけ預かってきたんだ」
「そうだったんだ……」
「アオイにひどいこと言ったって、リズがすごく後悔してたよ。謝りたいけど合わせる顔がないって」
「……いいのに」
誤解するのもやむを得ない状況だったし、リズの立場であれば大切な兄を傷つけた者を許せはしなかっただろう。絶縁を宣言された時はショックだったが、今となっては彼女の言い分も理解出来る。そのままにしておくのは可哀想で、葵はユアンに頼みごとをすることにした。
「私は気にしてないから、リズも気にしないでって伝えてくれる? いつでも、いいから」
「うん、分かった。確かに伝えておくよ」
「ありがと。ザックは、なんて?」
「おめでとう、って。幸せになって欲しいって言ってたよ」
伝言という形ではあったが、ザックの言葉を聞いた葵は泣きそうになった。嬉しいとも切ないともつかない、ただただ温かい気持ちで胸が満たされていく。
(まったく、もう……)
こういうことをやってのけてしまうから、ユアンは憎めないのだ。嬉しいサプライズの礼に、葵はユアンを抱きしめた。
「私、この世界に来れて良かった。ありがとね、ユアン」
「僕の方こそ、ありがとう。アオイと巡り合えた奇跡を世界に感謝して、ずっとずっと幸福を祈ってるよ」
「うん……、うん、」
一度涙が零れてしまえば、あとは頷くことしか出来なかった。ユアンが笑ってと言うので、涙を拭った葵は笑みを作る。ユアンは多くの秘密を共有し、数々の苦難を共に乗り越えて来た、もはや戦友のような存在である。この世界で誰よりも心を通わせたのは、もしかしたら彼かもしれない。そんな特別な少年が口唇を寄せてくるのを、葵は笑顔で受け入れた。それは葵とユアンにとってはごく自然な別れの挨拶だったのだが、口唇を離した後、ユアンが「まずい」という表情を作る。
「あ、ごめん」
反射的にといった様子で発された謝罪は、葵にというよりはハルに向けられていた。理解があるのだか無関心なのだか、ハルは特に反応を寄越してこない。挙句の果てにはユアンから、ここは怒るところだと諭されていたが、その件について、ハルが何かを言うことはなかった。ただ突如として行動を起こした彼は、ユアンの額を指で弾く。予測不能且つ目にも留まらぬ早業で、その場にいた者達は呆気に取られた。
「どういうリアクションなの、それ!?」
不意打ちを食らったユアンが喚いていたが、ハルからは特に説明のようなものはない。こんな光景も、今日限りで見られなくなってしまうのだ。そう思ったら目が離せなくなって、葵はユアンとハルのやりとりを笑いながら見つめていた。
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