王立の名門校であるトリニスタン魔法学園のアステルダム分校は丘の上に建っている。魔法陣を模った校舎は敷地内のほぼ中央にあり、白いローブを纏った生徒達は久しぶりの朝日に照らされながらそこへ向かっていた。一斉に登校してきた生徒達で一時は廊下が賑わったが、その波もすぐに引いて校内は再び静寂を取り戻す。校舎一階の北辺にある保健室内で人の流れを感じていたアルヴァは、背後で扉が開く音を耳にして振り返った。始業の鐘と共にやって来たのは、ミヤジマ=アオイという少女。彼女は一応アステルダム分校の生徒ということになっているが、トリニスタン魔法学園の制服である白いローブは着ていない。去年の夏にも見た、白いワイシャツにチェックのミニスカートといった格好だった。
「暑くないの?」
朝の挨拶もそこそこに、葵はアルヴァを指差しながらベッドに歩み寄って行く。アルヴァは白衣を着用しているので、彼女の目には暑苦しく映ったのだろう。実際には空気調節の魔法がかかっているので、夏の気候に長袖を着ていても暑くはない。
「ミヤジマは涼しそうだね。その恰好、夏には似合ってるよ」
「あ、それ。季節感ってやつだよ」
この世界にはそれが足りないのだと葵は言うが、アルヴァには何のことなのかよく分からなかった。特別に深刻な話というわけでもないようで、葵はアルヴァが理解していなくてもお構いなしに話を変える。
「頬、まだ痛む?」
「いや。あの後、クレアとは何か話した?」
「それが、朝帰り。私が出掛ける時に会ったんだけど、お酒臭かった」
「誰かと飲んでいたのか」
「うん。オリヴァーだって」
それではさぞや、悪口を言われたことだろう。クレアが酒を飲みながら息巻いている姿が容易に想像出来て、アルヴァは少し笑ってしまった。それを見咎められて、葵に怪訝そうな表情をされる。
「それ、何笑い?」
「自嘲、かな」
「何で? クレアはアルに聞けって言ってたけど、何があったの?」
ベッドの上で居住まいを正した葵が直視してくるので、アルヴァの方は視線を逸らしてしまった。昨夜、ユアン=S=フロックハートという少年に言われたことが頭をかすめていく。
『アルは、アオイに触れなくても大丈夫だっていう自信があるの?』
そんな自信は、ない。本音を言えば今この瞬間さえも、触れたいと思っている。だが本気でそれをやってしまうと、葵はもう真っ直ぐな目を向けてくれなくなるだろう。他の誰よりも時間をかけて育んできたものが、一瞬にして壊れてしまうのだ。
(何故、もっと早く彼女を好きにならなかったんだ)
男に疎い葵のことだ、こんな状況でなければ口説き落とすことも出来ただろう。だが今は、どんなに甘く愛を囁いたところで徒労にしかならない。彼女の心の中にはたった一人の男しか棲んでおらず、それは自分ではないのだから。
「そんなに言いにくいことなの?」
沈黙に痺れを切らした葵が再び口を開いたことで、アルヴァは思考のループから抜け出した。アルヴァに異性として見られていることなど知らない葵は、ただ純粋にアルヴァとクレアの関係が悪くなることを心配している。どう答えるべきか少し迷って、アルヴァは微かな笑みを浮かべた。
「そのうち教えるよ」
「今は言えないってことね? 分かった。じゃあ、聞かない」
「もう少し粘ってくれたら話したかもしれないのに」
「……アル、なんか変だよ?」
「僕はいつもこんな感じだろう?」
軽薄に見えるよう笑んで言うと、葵はあっさりと納得した。これには少し苦い気持ちになったが、アルヴァは胸裏を面に出すことなく話題を変える。
「ミヤジマは、大丈夫?」
昨夜は彼女の身にも、色々なことがあった。問いかけられた葵は一瞬だけ真顔に戻ったが、すぐに破顔して大丈夫だと言う。強いなと、アルヴァは思った。
「ね、アル。今からユアンの所に行けないかな?」
「予定を聞いてみよう」
デスクの引き出しを開けたアルヴァはレリエという棒状の
「落ち込んでいるのですか?」
別室で二人きりになるとレイチェルが問いかけてきた。何のことを言われているのかすぐに察したアルヴァは苦笑いを浮かべる。
「そう見えるのか?」
「平常心ではないことくらい、分かります」
「そうだね。確かに、心が乱れているよ」
それも、今までにない程に。そう付け足してソファーに腰を下ろしたアルヴァは深々とため息をついた。紅茶を淹れる魔法を唱えていたレイチェルはアルヴァを一瞥した後、淡々と言葉を紡ぐ。
「アオイのことですか?」
「ユアンから聞いたか」
「ええ。初めてですね、アルヴァが恋愛に悩む姿を見るのは」
「弟の苦悩を笑い飛ばすなんて、嫌な姉だ」
「では、女心を踏まえてアドバイスでもしろと?」
「それは、いい。参考にはならなさそうだ」
「残念です」
「したかったのか?」
完全無欠なレイチェルから、恋愛に関してどんなアドバイスが飛び出すのかは想像もつかない。微かな笑みを浮かべているレイチェルはもう口を出すつもりはなさそうで、アルヴァは助言を聞かなかったことを少しだけ後悔した。それから自分の思考の異様さに気がついて、自嘲する。
(身内に恋愛相談するなんて、僕はいくつの小娘だ?)
しかもあれだけ萎縮させられていたレイチェルと、そんな他愛もない話をしているのだ。笑わずにはいられなかった。
「人間、変われば変わるものなんだな」
「そう思うのなら、アルヴァはもう少し変わった方がいいでしょう。せめて、ユアン様に見下されない程度には」
「見下されているのか?」
「ええ。アルヴァよりご自身の方が余程女性の扱いに長けていると、自慢にもならないことを誇らしげに仰っていますよ」
十歳以上も年下のユアンに異性の扱い方を教えてやったのは、他ならぬアルヴァである。それが今では、すっかり立場が逆転してしまっているようだ。この調子ではそのうち教えてあげようかなどと言われかねないと思い、アルヴァは何とも言えない心持ちをため息で表現した。
「レイチェルまで責付くつもりか?」
「可愛い弟の幸せを望まない姉など、いないでしょう」
近頃はレイチェルともだいぶ話が出来るようになった。しかし『可愛い弟』などと言われると未だに違和感を覚える。激しくむず痒い気持ちになるのでやめてもらいたいのだが、計算高い彼女はきっと分かっていてやっているのだ。
(なんて厭らしい激励なんだ)
アルヴァが頭を抱えたくなったところに、都合良く葵とユアンが姿を現した。室内に入るなり微妙な空気を察したらしく、ユアンが小首を傾げながら口を開く。
「盛り上がってたみたいだけど、何の話してたの?」
「大した話じゃない。それより、そっちの話は終わったのか?」
葵が深刻そうな顔つきをしていたのでもっと時間がかかるかと思っていたのだが、意外に早かった。アルヴァがそうした私見を述べるとユアンも早々に雑談を切り上げて本題を口にした。
「トキの精霊って知ってる?」
ユアンが口にした精霊に覚えのなかったアルヴァは、レイチェルの顔色を窺った。視線をすぐに察知したレイチェルは顔を傾けてきたが、口を開かないところを見ると彼女も知らないようだ。そのことを確認してから、アルヴァはユアンに視線を戻した。
「どんな精霊なんだ?」
「それが、僕も知らないんだよね」
ユアンから返って来たのは意外な答えで、てっきり説明を加えてくれるものと思っていたアルヴァは眉をひそめた。彼の話によればトキの精霊とやらを見つけ出せば問題を解決してくれるかもしれないと、精霊王に告げられたのは葵なのだそうだ。そして精霊王の助言に従った葵は、
「ユアンでも分からないものを、どうやって探すんだ?」
人王であるユアンは、人間の中では誰よりも世界のことを知っている。その彼が分からないと言うのなら探しようがないというのがアルヴァの意見だったのだが、その疑問にはユアンではなく葵が答えた。
「私達の身近にいるんだって精霊王が言ってた。目には映らないけど、確かにそこにあるんだって」
「それは、精霊そのものの概念ですね」
手掛かりと言うにはあまりに弱く、それだけの情報ではどういった切り口から捜索手段を見つけていいのかすら分からない。レイチェルがそう言っているのを聞いて、アルヴァも同意を示した。すると少しは期待していたらしい葵が、目に見えて肩を落とす。アルヴァやレイチェルが閉口するしかない中で、世界と深くつながっているユアンだけが、明るく彼女を慰めた。
「僕の方で少し調べてみるから。アオイも何か思い当たることがあったらいつでも連絡してよ」
「……うん。ありがと」
落ち込みそうだった葵はユアンの一言に元気づけられたらしく、笑みを浮かべて応えている。根拠や自信がなくとも任せてくれと言えるのはユアンの特権であり、ユアンが言うからこそ、葵も安堵出来るのだ。その信頼関係を、アルヴァは少し羨ましいと感じてしまった。
(何を考えているんだか)
いずれはスレイバルという大国を治めることになる身であり、それとは別の次元で人類を統括するという重大な義務を負っているユアンの立場は、決して羨ましがれるものではない。なにより葵は、ユアンと恋愛関係になることをまったく想定していないからこそ無垢な信頼を寄せているのだ。どこに羨ましいと思う要素があるのかと、アルヴァは自分の思考に呆れてしまった。
ふと視線を感じたので、アルヴァは顔を傾けてみる。するとレイチェルが、じっとこちらを見ていた。表情は動かさなかったつもりだが、見透かされてしまったのかもしれない。実際に疚しいことを考えていたため、アルヴァは葵とユアンに視線を戻しながら微かに肩を竦めた。
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