丘の上に建つトリニスタン魔法学園アステルダム分校では敷地内の中央部に校舎があり、そこから東のエリアは学園のエリート集団であるマジスターの領域とされていた。学園側が定めた区分というわけではないのだが、マジスター達が一般の生徒がうろつくことを拒んだため、アステルダム分校では自然とそうなった。そんな事情のある特別区域の中には幾つかの建造物があるのだが、東のエリアの中でもかなり北寄りに聳え立っている塔の足元に私服の少年の姿がある。黒髪に黒い瞳といった世界でも珍しい容貌をしている彼の名はキリル=エクランド。この学園の、マジスターの一人だ。
キリルが見上げている塔は壁面に大きな穴が開いていて、そこから夏の日差しが内部に差し込んでいる。一階部分にある扉ではなく、宙を泳いで二階部分に開いている穴から内部に進入すると、そこには誰もいなかった。人探しをしていてこの場所を訪れたのは、以前に友人であるハル=ヒューイットが、この塔でその人物を見かけることが多いと言っていたからだ。その話を聞いてからたまに足を運んでいるのだが、キリルは滅多に出会えたことがない。その差は何なのだと舌打ちをしたら、ただでさえ穏やかではなかった胸中にさらなる波風が立った。
(くそっ、)
探しているのは異世界からやって来た、ミヤジマ=アオイという少女だ。彼女には会って、尋ねなければならないことがある。だが答えは半ば分かっているため、訊くのが怖くもあった。そのため探し出さなければならないという使命感に似た思いと、出来れば会いたくないという拒絶が混在していて、キリルを惑わせている。
少し塔の内部で躊躇した後、キリルは踵を返した。飛び下りようと思って壁に開いている穴の前に立つと、眼下に人がいるのが目に留まる。トリニスタン魔法学園の制服ではなく、白いワイシャツにチェックのミニスカートといった私服姿の少女はキリルが探していた人物だ。しかし、いざ当人を目の前にするとキリルの足は止まってしまった。キリルなどは近くに人がいると姿が見えなくても魔力で察知出来るのだが、それが出来ない葵はキリルの存在に気付かずに塔の足元を通過していく。動けなくても目で葵を追っていたキリルは、彼女の姿が建物の陰に隠れてしまうと脱力した。
(……バカじゃねーの)
これでは何のために探していたのか分からない。何のために、ろくに会ったこともなかった
『アオイは無理やって、ようやく気付いたんか?』
頭を抱えていると、昨夜クレアに言われたことが蘇った。そう言われた時は認めたくなくて逆上してしまったが、本当はキリルにも、もう分かっている。葵の心に自分の居場所がないのだ。そのことを昨夜、痛感した。
(それでも好きとか、ありえねぇだろ)
必要ないと露骨に示されたにも関わらず、まだ好きだと思っている自分が心底嫌になる。自分が嫌になるくらいならやめてしまえばいいと頭では分かっているのだが、心が思い通りにならないのだ。どうすればいいのだと苛立ちを募らせていると、不意に背後から声をかけられた。
「キリル?」
知った人物の声に、ギクリとしたキリルは動きを止める。しゃがみこんだ体勢のまま固まっていると、話しかけてくる声は少しずつ近付いて来た。
「何してんの?」
「何でもねぇよ!」
怒鳴った勢いで立ち上がって振り向くと、そこには予想した通りの人物が立っていた。急に怒鳴られたためか、葵は面食らった様子で瞬きを繰り返している。どうやらキリルの視界から消えた後、彼女は塔の内部にある階段を上ってここへ来たらしい。
「機嫌、悪いみたいだね」
真顔に戻った後、葵は眉をひそめながらそんなことを言った。彼女の態度も口調も平素の通りで、昨夜の出来事を引きずっている様子は微塵もない。さっさと切り替えられてしまっていることが、キリルには信じられなかった。
「お前……何で平気でいられるんだよ」
吐き捨てるように不満を口にすると、葵は「ああ……」と呟きを零した。その反応から察するに、昨夜のことを忘れたわけではなさそうだ。だが少し顔をしかめただけで、彼女は淡々と言葉を重ねる。
「そのことで、ちょっと話がしたいと思ってたの」
ここへ来たのはその話をするためではなかったようなのだが、葵はちょうど良かったと言って話を続けた。
「昨日のこともあるからもう分かってるとは思うけど、私、ハルが好きなの」
葵の口から致命的な発言が飛び出した刹那、キリルは自分の中で何かが壊れたのを感じた。平素なら憤りを感じる場面だが、今はそれを虚しさが凌駕してしまっている。もう問い詰める気にもなれなくて、引き際を悟ったキリルは空を仰いだ。
「話って、そんなことかよ」
「一応、初めに言っておこうと思って。私が好きだからってハルとどうこうなるわけじゃないけど、そう簡単には気持ちを変えられないと思う。でもキリルがそれでもいいって言うなら、もう止めない」
どうするかと葵が尋ねてきたので、キリルは皮肉な笑みを浮かべた。
「バカじゃねーの? いいわけねぇだろ」
「……だよね。異世界で暮らすって大変なことだし、出来ればやらない方がいいもん」
「……異世界?」
「うん?」
葵がキョトンとしたところで、キリルは話が噛み合っていないことに気がついた。キリルには『ハルを好きでいることを許してくれるなら自分のことを好きでいても構わない』と上から目線で言われているように聞こえたのだが、葵はそういった意味で言ったのではないらしい。異世界の話がどう絡んでくるのかも分からなかったので、葵に最初から説明するよう促す。すると彼女は、思わぬことを口にし始めた。
「キリルは私のいた世界に来たいんでしょ? 今までは反対してたけど、もう反対するのはやめようと思って」
葵がどれだけ反対したところで、最終的に決断するのはキリル自身だ。ただ、一緒に異世界に行くのなら覚えておいて欲しいことがあると言い置き、葵は言葉を重ねた。
「さっきも言ったけど、私はハルのことが好きだから。それに、一緒に異世界に行ってもキリルじゃない人のこと好きになるかもしれない。だから結論を出す前に、もう一度よく考えて欲しいの」
それでも決意が変わらなければ、一緒に行こう。葵がそんなことを言うので、キリルは困惑してしまった。
「何だ、それ。何で急に……」
「クレアから聞いたんだけど、婚約解消したんだってね。別に頼んでないから、ありがとうとも嬉しいとも言えないけど、それって私に誠意を見せてくれたってことなんでしょ?」
だから自分も、キリルの本気に対して誠意を見せなければならないと思った。葵が真面目な顔でそう語るので、キリルは腰砕けになってしまった。
(何で今になって、そんなこと言うんだよ)
もう諦めようと思ったのに、本気を肯定されてしまっては引くに引けない。こうなったらとことん追いかけるしかないのかと、キリルは葵を睨み見た。
「お前が悪い!!」
「……何が?」
「オレは悪くねーからな!!」
「だから、何の話?」
怪訝そうにしている葵にはまったく伝わっていなかったが、こみあげてくる衝動に耐えかねたキリルは彼女の手を取った。そのまま腕の中に引き寄せて、強く抱きしめる。
「ちょ……痛い!」
「どうすればオレのこと好きになる?」
抗議の声を聞き流して自分の要望を伝えると葵は沈黙してしまった。答えは、やや間があってから返ってくる。
「じゃあ、とりあえず謝って」
意味が分からなかったので腕の力を緩めると、その隙に抜け出されてしまった。警戒しているのか少し距離を置いて、葵は言葉を重ねる。
「殴られたりとかケータイ壊されたりとか、今まで散々なことされてるけど、考えてみたらキリルからちゃんと謝ってもらったことって一度もないんだよね」
特に携帯電話を壊されたことは忘れたくても忘れられないと言って、葵はその時にどういう気持ちになったのかも明かした。キリルが葵の携帯電話を破壊したのは、彼女が異世界と通信出来ることを知って少し希望を抱いた時だったらしい。その矢先に通信手段を破壊されて、絶望の底に突き落とされた。葵が過去の悔しさを口調に滲ませながらそう言うので、キリルは言葉を失った。それは、殴られても仕方がなかったかもしれない。悪いことをしたと、素直に自分の非を認められたキリルは謝ろうとして口を開いた。しかし謝罪の言葉が、喉でつかえてしまって出てこない。こんなことは以前にもあったので、キリルは顔を歪めて閉口した。
キリルは以前、実兄であるハーヴェイ=エクランドに人格を矯正される魔法をかけられていた。キリル自身は知らなかったのだが、それは幼い頃からのことで、つい最近までキリルの言動に大きな影響を及ぼしていた。自分がどう思っていても兄の言葉は絶対であり、逆らうことが出来なかったのだ。
『キリル、エクランド公爵家に名を連ねる者が易々と謝罪などしてはならない。何があっても、お前は堂々としていればいいのだ』
幼い頃、兄によく言われていた科白が蘇った。心の中では悪いことをしたと思っていても、それを口に出すことが難しいのは、おそらくこの言葉に従おうとしているからなのだろう。すでに魔法は解け、ハーヴェイの言葉からは強制力が失われているのだが、キリルの体には従順でいる習慣が付いてしまっている。だが無言で謝罪の言葉を待っている葵の顔を見て、キリルは拳を握った。
(出来る、はずだ)
魔法にかけられている時にも一度だけ、キリルは兄の言葉に逆らったことがある。反抗するのは並大抵のことではなかったが、それでも兄の意思に反する言葉を伝えることが出来たのだ。自らの意思を貫くことが出来たのは他でもない葵がいてくれたからで、その彼女に、謝れないはずがない。
「悪かった!」
大きく吸い込んだ息を、キリルは謝罪の言葉と共に吐き切った。頭を下げても屈辱感などはなく、むしろ胸の中がスッキリとした気持ちで満たされていく。こんなに清々しい気持ちになれるのなら、もっと早くに謝っておくべきだった。そんなことを考えたら自然と口角が上がり、キリルは笑みを浮かべた。
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