謝ることを躊躇った時間があった後、キリルが深々と頭を下げた。そうすることは彼にとって、一大決心が必要なものだったらしい。頭を上げた時のキリルが見たことのない表情をしていたので、葵はそう思った。
「どうだ?」
キリルがスッキリした表情を見せていたのは一瞬のことで、すぐ真顔に戻った彼は問いかけてきた。何が『どう』なのか分からなかった葵は眉をひそめる。
「何が?」
「これでオレのこと好きになるか?」
「……考えてみる」
これまでは考えてみたことさえなかったのかと言われればそれまでの答え方だったが、そこまで気が回らないキリルは葵の返答が「無理」から少しだけ前向きになったことを喜んでいるだけだった。単純なキリルをじっと見つめ、葵はさっそく
(そんなすぐには無理だよねぇ)
キリルも異性ではあるのでキスをされたり抱きしめられたりすれば動揺はするが、好きになるという気持ちはそれとは別次元の問題だ。きちんとした謝罪を受けたことで多少は心も動いているが、それが直接恋愛感情に結びつくということもない。ただ結果的に好きにはなれなかったとしても、彼の本気だけは汲んであげなければ。今までのように受け流していてはならないのだと、葵は心に刻んだ。
「あのさ、」
「何だ?」
話しかけると、キリルに笑顔で振り向かれた。不機嫌な顔は見慣れているが爽やかな表情にはどう対処していいのか分からず、葵は強張った笑みを浮かべる。今のキリルは幼い頃からの友人であるマジスター達から見ても、きっと不気味だろう。
「私の世界のこと、もっと知ってもらいたいんだよね」
事前に知識を得ているのとそうでないのとでは、実際に異世界に行った時に雲泥の差がある。葵が比較的早くこの世界に馴染むことが出来たのは、魔法などの超常現象に予め理解があったからだ。それがなければもっとパニックに陥って、大変なことになっていただろう。そうならないためにも、キリルには様々なことを教えておかなければならない。そう思っての、提案だった。
キリルが素直に提案を受け入れたため、葵は携帯電話で撮った画像を使って異世界の説明を行った。とても一回で済まされるものではないので、今後も折を見て説明していくということで話がまとまる。しかし肝心のクローシュ・ガルデについてはキリルが何も知らなかったので、葵が独自で始めた情報収集はいきなり頓挫してしまったのだった。
雲一つない夜空に黄色い二月が浮かぶ時分、アルヴァは旧友であるハーヴェイ=エクランドを伴って、同じく旧友であるロバート=エーメリーの元を訪れた。あちこちの夜会に顔を出すロバートは夜になると不在になってしまうことが多いのだが、この日はハーヴェイに渡りをつけてもらっていたため屋敷にいた。しかしアルヴァが来ることは知らせていなかったので、応接室で来客を迎えたロバートは瞠目する。
「アルも来たのか」
「ああ。どういうわけか、ロバートにアポイントメントをとってくれと頼まれた。私の方には用件もないので、二人で好きに話すといい」
無駄に口を挟むつもりはないようで、ハーヴェイはさっさと傍観者の立場を表明した。グラスに注いだ琥珀色の液体を優雅に含んでいるハーヴェイを一瞥してから、アルヴァはロバートに視線を移す。ロバートもアルヴァを見て、口火を切った。
「こうして会うのは、あの時以来か」
「そうだな」
「私が君を拒絶すると思って、ハーヴェイに仲介を頼んだのか?」
「それは違う。ハーヴェイを連れて来たのは自分を抑えるためだ」
ここに第三者がいなければ顔を合わせた途端に殴りかかっていたかもしれない。アルヴァが冷ややかにそう言うとロバートは笑みを浮かべ、ハーヴェイは目を剥いた。
「ロバート……一体、何をした?」
アルヴァの物言いがいつになく物騒だったためか、傍観者を決め込んでいたはずのハーヴェイが口を挟んできた。アルヴァがロバートに対して怒りを感じているのは、彼が葵を手篭めにしようとしたからである。ロバートが自身の口からその事実を明かすと、ハーヴェイは苦々しい表情になった。
「それは私も困ると、以前に言っておいただろう。君の性癖をとやかく言うつもりはないが、大概にしておけ」
「誰を愛そうと私の勝手だと思うが?」
「欲望を愛だと勘違いしているあたり、嗤わずにはいられないね。君はただ、異世界からやって来た稀少な少女の貴重な
ロバートを皮肉ったアルヴァの発言はあまりにも刺々しく、口調には旧友に対する嫌悪が露骨に表れていた。その内容が率直的すぎたためか、ロバートから視線を移してきたハーヴェイが眉間のシワを深くする。漆黒の瞳が「言葉が過ぎる」と諌めていたが、アルヴァは無視することにした。
「僕は手短に用件を済ませて帰りますので、あとはお二人で話でもしてください」
「アル、落ち着け。確かにロバートの言動は褒められるものではないが、君の態度も大人気ない」
「ハーヴェイ、私は構わない」
アルヴァとハーヴェイの会話を遮ったのは、ロバートの落ち着き払った一言だった。旧友達の視線を一手に集めると、微笑を浮かべたロバートはハーヴェイに向かって言葉を次ぐ。
「アルはミヤジマ=アオイのことを愛しているのだよ。それが分かれば、彼の怒りも理解出来るだろう?」
「ロバート!!」
余計なことを口走られてしまったため、アルヴァは慌ててロバートの口を塞ごうとした。しかし彼の胸倉を掴み上げたところで、一度零れてしまった言葉はなかったことには出来ない。過剰な反応はロバートの発言を肯定することにしかならないと気が付いて、アルヴァは苛立ちながら手を離した。だが時すでに遅く、背後からハーヴェイの声が聞こえてくる。
「アル……今の話は本当なのか?」
振り返ってみるとハーヴェイは驚愕の表情を浮かべていた。こうなってしまってはもう隠しても意味がなく、アルヴァは重いため息を吐き出す。
「否定は、しない」
「そうか。それは……複雑だな」
ハーヴェイが苦笑いを浮かべてしまったのは、彼の弟も葵のことが好きだからだ。兄としてはきっと、弟の恋を応援してやりたかったのだろう。だからハーヴェイには話すつもりがなかったのにと、アルヴァは何食わぬ顔をしているロバートを睨んだ。しかしロバートは、おどけた仕種で大袈裟に肩を竦めて見せる。
「私を睨んだところで君の気持ちが変わるわけではないだろう?」
「アル、キリルのことは気にしなくていい。今は君の話を聞かせてくれ」
ロバートの余計な一言のせいでハーヴェイもすっかり興味を持ってしまい、自ら進んで酒宴の席を整えていく。逃してはもらえないことを察したアルヴァは諦めの息を吐いた。
「僕が思っていることを話せば、もうミヤジマには近付かないと約束出来るか?」
ミッドナイトブルーの瞳を見据えながら問うと、ロバートはいとも容易く頷いてみせた。これが二人だけで交わした約束であれば反故にされる可能性が大だが、今はハーヴェイという証人がいる。さすがのロバートも、ハーヴェイを敵に回すほど愚かではないだろう。それにしてもやけにあっさりと承知したと思い、アルヴァは眉間にシワを寄せた。
「いつから、気付いていた?」
「君がミヤジマ=アオイの
ロバートが口にしたナイトというのは、おそらく葵達と共に夜会に行った時のことだろう。その時にどういった心持ちでいたのかは覚えていないが、進級試験の時には確かに気持ちが変化していた。そんなに前から勘付いていたのでは、前回会った時のロバートの言動の意味合いが変わってくる。
「嵌めたな」
「嵌めたのではない。焦らせたのだ」
ロバートがいけしゃあしゃあと言うので、頭痛を感じたアルヴァはこめかみに指を当てがった。彼の目的はいつしか、葵を手に入れることからこの場を設けることへと変化していたらしい。そのことに気付かず袋小路へと入り込んでしまったのだから、それを嵌められたと言わずに何と言おう。
Copyright(c) 2016 sadaka all rights reserved.