クローシュ・ガルデ

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 トリニスタン魔法学園アステルダム分校を後にした葵は、レイチェルと共に王都にある本校を訪れていた。トリニスタン魔法学園の本校といえば一流の人間だけを集めたエリートの巣窟であり、そのエリート達も厳しい校則で縛られているという、異様な窮屈さを感じさせる場所だ。葵は自然と本校に対して厳かなイメージを抱いていたのだが、今のところその実感は薄い。転移した先が室内だったため本校の全容を把握していないことや、まだ誰とも出会っていないからそう思うのだろうか。

「なんか……やけに静かな所だね」

 葵はレイチェルに先導される形で廊下を歩いているのだが、無音に近い静けさの中では自分の足音が気になって仕方なかった。気を紛らわせようとレイチェルに話しかけてみたのはいいが、その声も想像した以上によく響く。だがレイチェルはこの雰囲気に慣れているようで、いつも通りの調子で返答を寄越してきた。

「ここは静かですが、校舎は活気に満ちていますよ」

「? ここ、校舎じゃないの?」

「ここは本校の敷地内にある、トリニスタン卿の邸宅です」

「あ、そうなんだ?」

 どうりで学園内という雰囲気ではないはずだと、葵は一人で納得した。レイチェルからはそれ以上の言葉が続いてこなかったため、再び葵の方から口火を切る。

「ねぇ、学園長ってどんな人?」

「お会いになれば分かります」

「……それは、そうだよね」

 レイチェルの反応はにべもないものだったが、正論である。しかし無言でいるのはやはり苦痛で、葵は話題を変えることにした。

「今日、ユアンは?」

「クレアと共に屋敷にいらっしゃるはずです」

「ふーん。こういうことには首突っ込んできそうなのに、意外」

「本校の生徒は皆優秀です。いくらユアン様といえど、小細工は通用しませんから」

 小細工というレイチェルの言い回しに葵は苦笑いを浮かべた。ユアンはよくレイチェルの目を盗んで抜け出して来ているが、本当は全て露見しているのではないだろうか。そう思ったが、さすがだという言葉は胸中で留めておいた。

 しばらく廊下を歩くと、やがてレイチェルが足を止めた。こちらを振り返った彼女の背には扉がある。この先に、トリニスタン魔法学園の学園長がいるのだろう。

「失礼いたします」

 葵に目だけで合図を送ると、レイチェルは一声かけてから扉を開けた。室内には老齢の女性がいて、葵とレイチェルの姿を認めるなり、彼女は穏やかな笑みを浮かべる。てっきり長いローブに杖などを持った、魔法使い然としたお爺さんがいるのだと想像していた葵は意表を突かれた。

「こちらがトリニスタン卿です」

 葵に向かって学園長を紹介した後、レイチェルは彼女に向き直って葵のことを紹介した。呆気にとられていた葵が慌てて頭を下げると、トリニスタンは柔らかな口調で姿勢を正すよう告げる。

「奥へどうぞ。今、お茶を淹れます」

 葵とレイチェルを長椅子に座らせると、トリニスタンは室内に溢れている緑を摘み取って飲み物を淹れてくれた。それはこの世界で愛飲されている紅茶ではなく、緑茶に近い飲み物で、その味を久しぶりに堪能した葵は深く感嘆の息を吐く。空になったグラスから目を上げると、ニコニコと笑っているトリニスタンと目が合った。

「お口に合いましたか?」

「はい。とても、おいしかったです」

「よろしければもう一杯、お茶を淹れましょうか?」

 笑みを絶やさないトリニスタンにつられて、葵も笑顔で頷いた。空になった葵のグラスを満たすと、トリニスタンはレイチェルにも視線を向ける。

「レイチェルもいかがです?」

「いえ、わたくしはもう結構です」

 レイチェルがやんわりと断るのを見て、葵もこの場所を訪れた本来の目的を思い出した。ここへ来たのは決して、老女と仲良くお茶をするためではない。

「あの……訊きたいことがあるんですけど」

「存じています」

「え?」

「時の鐘について、ですね」

 トリニスタンが自ら本題に触れたので、どんな話が聞けるのかと身構えた葵は口を閉ざした。トリニスタンは笑みこそ収めたものの、柔らかい表情を保ったまま言葉を次ぐ。

「時の鐘は構内にあります。ですが、構内のどこにあるのかを知っているのは鐘の番人クローシュ・ガルデである私だけなのです。レイチェルも知らないでしょう?」

 トリニスタンが親しげな口調で問いかけると、レイチェルは頷くだけで答えとした。その反応を見てから、葵は再びトリニスタンに視線を戻す。すると予想通り、彼女は時の鐘が公にしてはならないものだから秘しているのだと付け加えた。

「話せないこと、なんですか?」

 トリニスタンは穏やかな表情を崩していないが、決して積極的に話をしているわけでもない。そうした空気を感じ取った葵は半ば諦めながら、それでもトリニスタンが否定してくれるのではないかと期待もしながら、問いかけてみた。トリニスタンは即答せず、何故かレイチェルに視線を移す。するとそれを合図にしたかのように、レイチェルが席を立った。

「構内にいますので、話が終わりましたら連絡してください」

 トリニスタンに言い置くと、レイチェルは部屋を出て行った。扉が閉まるまで見送った後、葵は眉根を寄せながらトリニスタンを見る。レイチェルを退席させた理由について、彼女はすぐ答えをくれた。

「時の精霊について私が知っていることを、あなたにはお話しします。ですが私が話した内容は、口外しないでいただきたいのです」

 そうした事情を察したが故に、レイチェルは自ら席を外したのだという。トリニスタンからそう聞かされて、葵は心の中でレイチェルに礼を言った。それから改めて、トリニスタンに向かって口火を切る。

「教えてください、時の精霊のこと」

「分かりました」

 深く、ゆっくりと頷いて見せると、トリニスタンも表情を改めて語り出した。

「まずは、鐘の番人クローシュ・ガルデについてお話ししましょう」

 鐘の番人クローシュ・ガルデとはその名の通り、時の鐘を管理する者のことを指す。これは代々の学園長に課せられた使命らしいのだが、することと言えば決まった時刻に鐘を鳴らすことくらいらしい。

「この世界には時の計りというものがあります。鐘の番人クローシュ・ガルデは時の計りを見ることによって、世界の動きを知ることが出来るのです。そして世界の動きに従って鐘を鳴らし、人々に時を教えています」

 トリニスタンの言う『時の計り』とは、即ち時計ということだろう。この世界の時計がどういったものなのかは分からないが、葵の脳裏には高等学校の教室にあったアナログ式時計の姿が浮かんでいた。葵の理解が追いついているか確認した後、トリニスタンは話を進めていく。

「次に時の精霊についてですが、この精霊の存在はごく一部の者にしか知らされていません。その理由を、これからお話しします」

 時は目に見えないが、不変の法則でもって常に流れ続けているもの。それが世界の理であり、世界の理とは、世界が在るべき姿を保つために必要なものだ。決して、歪めることは許されない。だから『時』は人間が安易に触れてはならないものなのだと、トリニスタンは重々しい口調で語った。それはつまり、人間は誰しも時の精霊と出会うことが出来ないということではないだろうか。そう解釈した葵は絶望感を抱きながら確認してみたのだが、トリニスタンは分からないと言う。

「人間と精霊は同じ世界で共に生きていますが、それぞれが身を置いている時間はまったく別のものなのです」

 そこで一度言葉を切ると、トリニスタンは指を使って空中に絵図を描き始めた。彼女が描いたものは途端に物質化し、葵とトリニスタンの間に壁が現れる。それは程なくして色彩を失くしたが、葵とトリニスタンの間には依然として、透明な壁が立ち塞がったままだ。

「ここに、絶対に越えることの出来ない壁があるものとします。人間と精霊の時はこのような壁によって隔てられていて、重なり合うことはないものなのです」

 ですが……と言葉を続けて、トリニスタンは空に手を伸ばした。その手はガラスのような壁に触れて、そこで静止する。促されるまま、葵は壁越しにトリニスタンと手を重ねた。

「越えることは出来ずとも、こうして互いに近付くことは出来ます。このような状態が整って初めて、魔法が生まれるのです」

 この世界に生きる人間は何気なく魔法を使っているが、それは精霊の側が人間に近付いて来てくれなければ成り立たないものなのである。人間とどの程度距離を縮めるかは精霊次第らしいのだが、時の精霊は自らこの壁に近付いて来ることはない。そう、トリニスタンは断言した。

鐘の番人クローシュ・ガルデの伝承によれば、世界の時が動いているときには時の精霊の時間は止まっているのだそうです。精霊の時を動かすこと自体は出来ると言われていますが、その時には世界の時間が止まります」

「……えっと、つまり?」

「人間と時の精霊の時間が重なることはない、ということです」

 それはつまり、時の精霊とは会えないことはないが、会っても意味がない、ということではないだろうか。トリニスタンの言葉を反芻した末にそうした結論に辿り着いた葵は、極度の疲労と失望を感じて茫然とした。しかしまだ、トリニスタンの話は終わらない。






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