クローシュ・ガルデ

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 まだ中天に達する前の太陽が世界を遍く照らしていた。夏月かげつ期の陽光は強く、その部屋の窓辺には斜光の魔法がかかった薄いカーテンが引かれている。窓は開け放たれていて、自然の戯れで吹き込んでくる風にカーテンが揺れていた。その柔らかな風は、窓辺に置かれたリクライニングチェアでくつろいでいる少年の頬をも、優しく撫でていく。とある貴族の屋敷に、その少年の姿はあった。鮮やかな金髪を風になびかせている彼の名は、ユアン=S=フロックハートという。白銀の月に十三歳になった彼の顔にはまだ多分に幼さが残っていて、瞼を下ろしている姿は平素よりもさらにあどけない。室内にはユアンの他に人の姿はなかったが、今の彼を見る者があったのなら、その者は愛らしい寝顔に頬を緩めていたことだろう。

 一見するとユアンは、うたた寝をしているように見える。しかし瞼を下ろしているだけであり、その意識は眠りの底に落ちてはいなかった。彼は今、風となり水となり大地となって、世界に融けているのだ。そして金色の光が海のように揺蕩う場所で、ユアンはある人物と会話をしていた。

「ふーん。時の精霊って、そういう存在なんだ?」

『……あまり人界のことに干渉するのは良くないと思うのだけれど、君の認識不足は大いに問題があると言わざるを得ないよ』

 ユアンの独白にどこからか応える声が聞こえてきたが、この場所ではっきりとした輪郭を持っているのはユアンだけである。それ以外には光の海しかないのだが、この場には確かに、ユアン以外の者が存在していた。その者の姿が見えないのは、そもそも彼が固有の形というものを有さない存在だからだ。

「でもさ、精霊王。僕たち人間は精霊と違って不自由が多い生き物なんだよ? いくら僕が人王でも、そうそう世界の全てを把握出来るわけじゃない」

『他の人間は、そうかもしれないね。けれど人王、君にその理屈は当て嵌まらないよ。そんなことは君が一番よく解っているだろうに』

 屁理屈をこねるのではないと、精霊王が文句を言う。それでも彼の柔らかな声音が崩れることはないので、ユアンはいつも、ついつい調子に乗りたくなってしまうのだ。その後もああだこうだと軽口を叩いていると、精霊王は嘆息して言葉を失う。それを機に、ユアンも口調を改めた。

「それで、時の精霊は協力してくれそうなの?」

『それは、時を動かしてみなければ分からない。なにしろ世界の理に触れるわけだからね、ある程度のことは覚悟しておいた方がいいと思うよ』

「それって、アブナイってことじゃないの?」

『けれど、彼女の望みを叶えるためにはそうするしかない。何かあったら全て君のせい、ということになるね』

「うわっ、丸投げ? アオイに時の精霊のことを教えたのは君なんだから、何かあったら半分くらいは君のせいでしょ?」

『……そうだね。今回の私の言動は調和を護る者ハルモニエとしての域を超えるものかもしれない』

 調和を護る者ハルモニエとはその名の通り、世界の調和を保つために奔走する使命を持った者のことだ。人王であるユアンも、精霊王も、世界から選出されてハルモニエとなった。しかし時の精霊に関することで葵に何かがあった場合、自分はハルモニエの任を解かれるかもしれない。精霊王がひどく真面目な調子でそう語ったので、軽口の流れを引きずっていたユアンも真顔に戻った。

「そんなに、まずいの?」

『彼女がこの世界の理に囚われない者とはいえ、人間界の問題には違いないからね。不干渉の約束を違えていると地生類ちせいるい王あたりに咎められてしまえば、言い逃れは出来ない』

「……ごめん。ありがとう」

 精霊王がそれほどの覚悟をもって葵に助言してくれたのだとは知らず、ユアンは神妙に己の不謹慎さを詫びた。しかし精霊王からは、朗らかな笑い声が返ってくる。

『謝らなくていいよ。君のためにしたことじゃない』

「えっ……?」

 精霊王に自分のためではないと言われた瞬間、ユアンの脳裏にはある想像がよぎっていた。まさかとは思いながらも、ユアンは恐る恐る問いかけてみる。

「アオイのため……なの?」

『自分のため、かな。いけないことと解ってはいるのだけれど、人間と関わりを持つということが楽しくて嬉しいんだ』

「なんだ……僕はまた、精霊とヴィジトゥールの恋なんていう前代未聞なことを想像しちゃったよ」

『私が人間に生まれていれば、そうなっていたかもしれないね』

 ほんの軽口のつもりが思いもよらない答えが返ってきて、驚いたユアンは目を剥いた。ユアンがそのまま絶句していると、精霊王は口調に苦さを滲ませながら言葉を重ねる。

『私もまだまだ未熟だね』

「ちょっと、待って。精霊王、本当にアオイのことを……?」

『私が人間だったのなら、彼女か君を恋しく思うような気がするよ』

「ええっ? 何、どういうこと?」

『精霊が世界に還るのは幸福なことだ。それは人間でも知っている。けれど、もしも今、私が世界に還るとしたら、君と彼女だけは私のために泣いてくれるだろう?』

 かつて、ユアンは雨の精霊が世界に還った時に、葵は元精霊王が世界に還った時に、別れを惜しんで涙を流した。それは他の人間とは決して共有し得ない感情であり、精霊王はその繊細な心が愛おしいと語った。彼の発言はハルモニエとしてのボーダーラインを越えたもので、肝を冷やしたユアンは世界の変化に意識を注ぐ。しかし余人が立ち入ることの出来ない空間での密談ということもあり、世界は許容してくれたようだった。

「過激な発言には気をつけてよ。そういうのは僕だけで十分なんだから」

『……人王、』

 世界に変化がなかったことでユアンは安堵していたのだが、精霊王が発した声は硬質さを残したものだった。気を緩めていたユアンも同調して、真面目に応える。

「何?」

『実は、君があのヴィジトゥールの少女を召喚した時から気になっていることがあるんだ』

「それは、世界に関係すること?」

『もちろんだよ。私が思うに、もしかすると世界は……』

 そこで何故か、精霊王は言葉を切った。続きを待ってみても反応がなかったため、少し間を置いてからユアンは首を傾げる。

「精霊王?」

 光の海に向かって呼びかけた刹那、ユアンはハッとして目を開けた。そこはもう幻想的な光の空間ではなく、彼の紫色の瞳にはメイド服を着用した少女の姿が映っている。肩口にワニに似た魔法生物を乗せている彼女は、ユアンの私用人であるクレア=ブルームフィールドだ。

「お目覚めですか、ユアン様」

「……ああ、うん……」

 ユアンの肩に手をかけていたクレアは、返事を聞くと背筋を伸ばした。世界の切り替わりが性急だったため、まだ意識が戻りきれていないと感じたユアンは体を起こしてから小さく頭を振る。

「珍しいですね」

 そんなことを呟きながら紅茶の準備をしているクレアは、ユアンが窓辺でうたた寝をしていたのだと思ったらしい。平素であれば誰かに起こされる前に人の気配で目が覚めるのだが、世界に意識を融合させている時はそうもいかない。それで彼女は、珍しいと感じたのだろう。

「何か、予定でも入った?」

 精霊王と語らうにあたって、ユアンは予め一人にして欲しいと言い置いていた。それでも彼女が私室に来たということは、何か変事があったからだろう。そうしたユアンの読み通りに、クレアは来客があることを明かした。

「誰?」

「トリニスタン魔法学園の、学園長だそうです。レイチェル様と一緒にいらっしゃいました」

「トリニスタン卿?」

 トリニスタン魔法学園と言えば、今日は葵とレイチェルが本校にある学園長の邸宅を訪ねていたはずだ。そのまま揃ってここへ来たのかと思いきや、葵だけが一緒ではないのだという。妙だと思ったユアンはクレアが淹れてくれた紅茶を一口だけ含むと、それを彼女の手に戻してから椅子を下りた。

「応接室?」

「はい。後ほど、紅茶をお持ち致します」

 クレアに礼を言うと、ユアンは先に私室を出た。応接室に向かって足を動かす間に、先程の精霊王との対話を思い返して思案に沈む。

(何を言おうとしたんだろう)

 絶妙のタイミングで起こされてしまったので肝心な部分が聞けなかったが、精霊王が言おうとしていたことは世界の重大事に違いない。しかし具体的な内容には見当もつかず、ユアンは一人で唸りながら、こちらもまた不可解な客人が待ち受けている応接室へと足を踏み入れた。






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