溝、深く

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「でね、これが私の通ってた学校。転移魔法なんてないから電車で行くんだけど、あっ、電車っていうのは……」

 大空の庭シエル・ガーデンにて、テーブルの向かい側にいるキリルに向かって携帯電話の画面を見せながら異世界の説明を続けていた葵は、そこで仕方なく口を閉ざすことにした。葵が黙ると、シエル・ガーデンには静寂が訪れる。先程から無意味な緊張を強いられていた葵は密かに拳を握り、逸らしていた視線をキリルに戻してから再度口火を切った。

「ちゃんと聞いてる?」

 異世界の勉強が始まった当初から、キリルは携帯電話の画面すら見ようとせず、ひたすら葵だけを見つめているのだ。その視線の強さときたら目を合わせないよう努めていても感じてしまう程で、葵はほとほと困り果てていた。

「聞いてる」

 キリルが平然と言い張るので、その真偽を確かめようと思った葵は試しに、異世界に関する質問を幾つかしてみた。するとキリルは、難なく答えてみせる。どうやら本当に話は聞いていたようで、意外に思った葵は目を上げた。しかしキリルの顔を見た直後、真っ直ぐこちらに向いている漆黒の瞳に射抜かれて、再び視線を逸らす。

「そんな、じっと見ないでよ」

「別に、いいだろ」

「居心地悪いんだってば!」

 キリルの視線は無言のうちに『好きだ』と言っているようなもので、受ける側はたまったものではない。葵が声を張ったためか、キリルはいったん視線を外す。だが少し間を置くと再び凝視されて、これはダメだと思った葵は嘆息した。

「もしかして、何か聞きたいことでもあるの?」

「ある」

「え?」

 尋ねたいことがあるのではないかというのは、むしろ葵がそう思いたいがための方便だった。しかしキリルから意外な答えが返ってきたため、表情を改めた葵は彼に向き直る。

「何?」

「ステラの様子、どんなだったんだよ」

「ステラ?」

 またしても意外な質問を受けて、葵はキリルの意図が分からないまま答えを口にした。普通に元気そうだったと語ると、キリルは「そうかよ」と言ったきり閉口してしまう。結局、何だったのかよく分からなかった葵は眉をひそめた。

「っていうか、パーティーの時に会ったじゃん」

 ほんの短い間の邂逅だったが、キリルは自分の目でステラの現状を確認している。それもつい最近のことなのに、キリルは何故、ステラの様子を気にかけるのだろう。そう考えていた葵はキリルがパーティーという単語に微かな反応を示したのを見て、胸中で「ああ……」と独白を零した。

(聞きたいのはハルのことか……)

 ハル=ヒューイットという少年はアステルダム分校のマジスターの一人で、キリルの友人である。王城でパーティーが行われた夜、葵はキリルの制止を振り切ってハルの元へ行った。そこで葵とハルがどんな会話をしたのか、おそらくキリルは知っているのだろう。

 ステラに会って感じたことを、キリルに話してみてもいいのかもしれない。そう思った葵は口を開きかけたのだが、言葉を発する前に、キリルがあらぬ方向に顔を傾ける。その仕種から、葵はシエル・ガーデンに来訪者があったことを知った。転移の魔法陣が描かれている方角に目を向けていると、やがてクレアがオリヴァーを伴って現れる。オリヴァーから何の話をしていたのかと問われたので、葵はキリルを一瞥してから答えを口にした。

「昨日、ステラに会ったから。そのことをちょっと」

「……そうか」

 ステラの名を聞くと、オリヴァーも少し表情を曇らせた。おそらく彼も、パーティーの夜のことを気にしているのだろう。そう思った葵は自ら言葉を重ねた。

「ステラとハル、たぶんうまくいったよ」

 葵が問われてもいないことを語り出したためか、オリヴァーはギョッとしていた。オリヴァーとクレアが現れたことで隣に席を移していたキリルも、顔を傾けてきたのが分かる。クレアは眉をひそめていたが、何も言わなかった。

「大丈夫、なのか?」

 しばしの沈黙の後、慎重な口調で問いかけてきたのはオリヴァーだった。その一言が持つ意味をしっかりと受け止めて、葵は頷いて見せる。

「大丈夫だよ」

 言葉とは不思議なもので、口に出した瞬間、葵は本当に自分が『大丈夫』なのだと感じた。ハルのことは未だに好きだが、もうその感情は体を突き動かしてしまうほど激しい想いではない。

「ステラから直接ハルのこと聞いたわけじゃないんだけど、ステラが明るくなってて嬉しかった。ハルにもステラにも幸せになってもらいたいから、これで良かったんだと思うよ」

 ハルとステラのことをどう思っているのか、クレアやマジスターに語ったのはこれが初めてだった。彼らはハルやステラと深い関わりがあるため、今まで本心を打ち明けられなかったのだ。そのわだかまりを越えて本音を口に出せたのは、ようやく初恋が終わったからなのかもしれない。そう思った葵は晴れ晴れとした気分だったのだが、心配性なオリヴァーは顔をしかめてしまった。クレアの方は切り替えが早く、彼女は明るい表情で口火を切る。

「女の友情っちゅー感じやな。ちょお、妬けるわ」

「クレアのことも大好きだよ」

「アホ。そういう科白はうちなんかのために使わんと、特別な時のためにとっときぃ」

「あはは……っ、」

 クレアの軽口に笑っていた葵は突然、ビクリと体を震わせた。それまで明るかった表情が一瞬にして凍ったことにより、クレアやオリヴァーからどうしたのかと質問が飛んでくる。慌てて笑みを作った葵は二人に「何でもない」と言った後、テーブルの下で密かに拳を握った。

 葵が突然体を震わせたのは、隣に座っているキリルに不意打ちを食らったからだった。テーブルの影で重ねられている手は、こちらが力を込めた分だけ強く反応を示す。まるで、自分がいるから大丈夫だとでも言うように。

(…………)

 これは、決して口が達者ではないキリルなりの慰め方なのだろう。クレアやオリヴァーにいつ気付かれるかと思うとヒヤヒヤするが、心遣いは嬉しくなくもなかった。そのため手を振りほどけず、視線を隣に移すことも、出来ない。

「そろそろ本題に入るか」

 人知れず体を硬直させていた葵は、オリヴァーが話題を変えたことで我に返った。手の甲から伝わる熱いくらいの体温はそのままに、意識をオリヴァーとの話に集中させる。

「オリヴァーはトゥムソルって花のこと、知ってる?」

「ああ。とりあえず、行ってみるか?」

 葵がすぐさま頷くと、オリヴァーは移動のために席を立った。その流れで全員が立ち上がることになったのだが、さすがにこの時になると、キリルは自分から手を離す。クレアやオリヴァーに気付かれなかったことに安堵して、葵は気持ちを改めてからオリヴァーの後に従った。






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