アン・カルテという魔法で世界地図を描き出した時、そこには大陸が二つ存在している。地図のちょうど東西に位置している大陸は西の大陸をファスト、東の大陸をゼロという。ファスト大陸の三倍ほどの面積を有しているゼロ大陸はスレイバルという王国が統治していて、その首都(王都)であるラカンカナルの街並みは壮大秀美なものだった。王都は丘陵の頂にある王城を中心として栄えていて、王城からは中世ヨーロッパ風の街並みが一望出来る。その風景を見るとはなしに眺めながら、王城内の一室で窓辺に佇んでいるアルヴァは考え事をしていた。思い出されるのはつい先程の、トリニスタン魔法学園アステルダム分校での出来事だ。
王城に来る前、アルヴァはアステルダム分校の保健室で葵と話をしていた。それ自体はいつものことなのだが、ある質問に答えられなかったため、葵の機嫌を損ねてしまったのだ。もういいと言われて葵に背を向けられた時、アルヴァは今までに感じたことのない恐怖を覚えた。あの瞬間のことは、今思い返してみても体が震えそうになる。それほどまでに心が、彼女を失うことに怯えているのだ。とっさに取り縋ってしまった自分を苦々しい気持ちで振り返ったアルヴァは、重症だと胸中で呟きを零した。
葵は怒っていたわけではなかったが、納得したわけでもない。彼女の不満を取り除いてあげない限り、また同じことが起こるかもしれないが、クレアと不仲になった理由を彼女に説明するのは至難の業だ。いっそのことクレアから明かしてもらえればと思わないでもないが、それをしないのがクレアという人物であることをアルヴァはよく知っていた。だからこそ彼女には素の自分を隠さなかったわけであり、こんなことを考えるのはおこがましすぎる。
「何を唸っている?」
不意に第三者の声がして、思考の迷路にはまっていたアルヴァはハッとした。いつの間にか伏せていた顔を上げてみると、室内に白い人物が佇んでいるのが目に留まる。髪も肌も白く、服装までも白で統一している青年は王女の教育係であるローデリック=アスキスだ。慌てて姿勢を正したアルヴァは、自分を召喚した者に向けて一礼した。
「いらっしゃったことに気付かずに、失礼いたしました」
「それは構わないが……君らしくないな」
ローデリックとはある出来事を通じて知り合い、それからはしばしば会って話をする間柄となった。立場の違いもあるので友人といった関係ではないが、ある程度にはお互いのことを知っている。そんな彼に『らしくない』と言われてしまうほどに、今の自分は普通ではないのだろう。その自覚もしっかり持ち合わせているので、アルヴァは乾いた笑みを浮かべた。
「何か悩みでもあるのか?」
「取るに足らないことです」
ローデリックのような根っからの貴族にはそうであるだろうし、以前の自分もそうだった。それがいつの間にか、少女一人の言動に心を右往左往させている。恋愛とは恐ろしいものだとアルヴァが胸中で呟いていると、どこからか再び第三者の声が聞こえてきた。
「本当に『取るに足らないこと』なら悩んだりしないと思うよ?」
ローデリックに続いて姿を現したのは、金髪に紫色の瞳といった容貌の少年。アルヴァもよく知る人物である彼の名は、ユアン=S=フロックハートという。あまり好ましくない人物に話を聞かれていたことに、アルヴァは少し眉をひそめた。本音では思いきり顔をしかめたかったのだが、ローデリックがいる手前、不遜な態度は取れない。そんなアルヴァの胸中を知ってか知らずか、ユアンは少年らしい爽やかな笑みを浮かべた。
「そもそも、恋愛は『取るに足らないこと』なんかじゃないよね?」
「ユアン!!」
ユアンが場違いに余計なことを喋ってくれたので、アルヴァは体裁も忘れて彼の口を塞ぎにかかった。しかしユアンは、素早く宙に舞ってアルヴァの行動を回避する。
「ロルにも分かるでしょ?」
ふわふわと空中を漂っているユアンがローデリックに話を振ったことで、アルヴァはハッとした。うっかり素の調子でユアンに接してしまったが、時と場合によっては不敬罪にも問われかねない。ローデリックは生粋の貴族であり、王女の教育係まで勤めている人物なので、そういう部分はうるさそうだ。そう思ったからこそローデリックの前では公私の区別を明確にしていたのだが、彼は予想外の行動に出た。
「大変だな」
不敬を詰るどころか同調するような言葉を発すると、ローデリックはアルヴァの肩にポンと手を置いた。その後も咎めはなく、先に行っているとユアンに言い置いたローデリックは部屋を出て行く。予想外のことが続いたせいで何が何だか分からなくなったアルヴァは、眉根を寄せてユアンを振り向いた。
「あれはどういう意味ですか?」
「ロルにはアルの気持ちが分かるんだよ」
同じ悩みを抱えているからねと、ユアンはローデリックを語る。恋愛になど関心がないだろうと思っていた人物だっただけに、アルヴァは意外に思った。その表情の変化を見咎められて、ユアンが話を続けてくる。
「意外、って顔してるね?」
「そういった話をまったくされない方なので、正直なところ意外でした」
「そりゃあ、アルには言いにくいんじゃない? だって、ロルの好きな人ってレイだもん」
「……そう……、ですか」
ユアンが話題に上らせたレイチェル=アロースミスはアルヴァの姉で、弟のアルヴァから見ても完全無欠な女だ。謂わば高嶺の花のようなものであり、そのような人物に想いを寄せるのは、きっと苦しいことだろう。また身内ということもあって、アルヴァはどういう反応をしたらいいのか分からずにいた。するとユアンが、さらなる爆弾を落としてくる。
「ねぇねぇ、レイの恋人って誰のことかな?」
「恋人!? レイチェルに!?」
「その反応だと、やっぱりアルも知らないみたいだねぇ」
ユアンは呑気に残念がっていたが、アルヴァは意外すぎる事実に放心してしまった。口も利けずにいると、ユアンが一人で話を進める。
「いるみたいなんだよね、恋人。僕はロルのことかなぁって思ったんだけど、アルはどう思う?」
「……ちょっと、待ってくれ」
レイチェルに恋人がいることも驚きだが、その相手がローデリックとなれば、弟の心中としては複雑すぎる。そもそも、ユアンは何故ローデリックだと考えたのか。そのことを問い質すと、ユアンは含み笑いを浮かべた。
「だって、ロルとレイの間には何かがあるよ」
それが何なのかまでは、ユアンにも分からないようだった。中途半端な疑惑を提示されただけのアルヴァは、モヤモヤした気持ちを拭えないまま口をへの字に曲げる。
「不確かなことを口にして、混乱させないでくれ」
それでなくとも今は、自分のことで手一杯なのだ。アルヴァがそう言うと、ユアンは笑みを残したまま恋愛話を終わらせた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
そう告げると、宙を漂っていたユアンは地に足を着いた。先に歩き出した彼に続きながら、アルヴァは気になっていたことを問いかけてみる。
「会議があるそうだが、ユアンも参加するのか?」
「うん。僕の他にもトリニスタン卿とか、陛下もいらっしゃるよ」
御前会議であることを知らされていなかったアルヴァは、その豪華すぎる顔ぶれに眉をひそめた。会議が開かれる場所といい、国王自らが参加することといい、まるで国政に関する話し合いのようだ。すでに王室に深い関わりを持つレイチェルならばともかく、自分のような一庶民が同席することは適当ではない。そう感じたアルヴァは何の会議なのだと質問を重ねてみたが、ユアンから返って来た答えは「行けば分かる」というものだった。それとは別に、ある懸念を抱いていたアルヴァは、さらに言葉を重ねる。
「会議の内容はともかく、学園長がいるのだろう? 僕が行っても大丈夫なのか?」
ユアンが会議の参加者として名を挙げたトリニスタン卿とは、トリニスタン魔法学園の学園長のことである。過去に本校の生徒だったアルヴァは学園長と面識があるのだが、彼女は本校を中途退学したアルヴァのことを良く思っていないだろう。また彼女と再会を果たすことは、中途退学者は二度と本校の土を踏めないという約定に抵触するのではないか。アルヴァはそうした心配をしていたのだが、ユアンは大丈夫だと言い切った。
「そのへんの確認はもう済んでるし、トリニスタン卿はそんな小さなことを気にする方じゃないよ。それにアオイに関することだから、アルには居てもらわないと」
「ミヤジマに関すること、なのか」
自分が召喚された理由については、その一言で納得がいった。しかし葵が絡んできたことで、会議の内容についてはますます見当がつかなくなってしまう。一つだけハッキリしているのは、嫌な予感しかしないということだ。
(一体、何が始まるんだ)
すでに公私を切り替えているユアンは、それ以上の会話を拒む空気を醸し出している。漠然とした不安を募らせながらも、アルヴァには黙ってユアンの後に従うことしか出来なかった。
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