時の欠片

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(あの時、キリルもこんな気持ちだったのかな)

 葵は以前、突然の失踪を繰り返して周囲に心配をかけたことがある。その時、特に心配してくれたのがキリルだったらしいのだ。しかし、あの時の葵には余裕がなく、彼の好意を無下にした。落ち着いてから一応礼らしい言葉はかけたものの、彼が今の自分と同じような気持ちでいてくれたのなら、ずいぶんと軽い扱いだったと言わざるを得ない。そして実際、あの頃は彼の存在が重きを成していなかったのだろうとも思う。

 出会った当初、キリルは誰彼構わず暴力を振るう暴君のような奴だった。葵も幾度か、そんな彼の被害に遭ったことがある。殴られたり、生まれ育った世界と繋がる唯一の手段である携帯電話を壊されたり、物のように扱われたりと、その暴挙は枚挙にいとまがない。しかし彼は、ある時を境に変わった。今はもう、キリルが傍若無人な奴だとは思っていない。それなりの優しさも、過剰すぎる『誠意』も、見せてもらった。それでもキリルを恋愛対象として見られなかったのは、過去に色々なことがありすぎたせいだろう。今まではそう思ってきたが、それならば、自分でも持て余してしまいそうなこの動揺は何なのだろう。

(私のせいだから、かな)

 精霊の意に逆らうという、この世界では非常に危険な行為に及んだキリルだが、彼が勝算など考えていたとは思えない。愚直な彼は自身の安全も、家族が破綻するかもしれないということも考えず、ただ葵の望みを実現させることだけを考えていたのだ。しかも、葵にとって必要不可欠なものが、そこにあるかもしれないなどという不確かな情報だけを根拠として。

(何で、そこまで……)

 キリルが自分を好いてくれていることは、だいぶ前から知っていた。言葉でも聞かされたし、幾度となく態度でも示されてきたので、その気持ちを疑う余地はない。だが、彼の想いがこれほどまでに純粋で強いものだと、自分は本当に理解していたのだろうか。

 膝の上で両手をきつく握った葵は、顔を歪めて口唇をかみしめた。今までの自分の言動を思い返すと、キリルには随分と酷いことをしてきたような気がする。彼の誠意に自分なりに応えようとした時でさえ、初めから彼の気持ちを受け入れることは考えていなかったのだ。アルヴァが言っていたように、葵の言動は誠意などではない。むしろキリルにとっては害意であったと、言わざるを得ないだろう。勝算も打算も関係なく好意を示してくれるキリルに、とても失礼だ。

(……最低)

 自分のことを好きになってくれるかとキリルから問いかけられた時、葵は『考えてみる』と答えた。答えたからには、ちゃんと考えなければならない。自分のためにここまでのことをしてくれる相手が、本当にまだ恋愛の対象外なのかを。

 キリルが目を覚ましたら、二人だけの時間を作ろう。そんなことを考えながら、どのくらいキリルの寝顔を見ていただろう。やがてキリルが、こちらに向かって寝返りを打った。椅子を置いている場所と距離が近くなったので、触れてみようと思った葵は手を伸ばす。起こすつもりはなかったのだが、温もりに触れることで安心したかったのかもしれない。だがその安心は、突如別の形で得られることになった。

 葵が手を触れる前に、キリルは警戒した動物のようにパッと目を覚ました。突然の出来事に対処出来なかった葵が手を伸ばした姿勢のまま動きを止めていると、キリルの視線は葵の顔と手の辺りを二・三度往復する。そして彼は、それまで微動だにしなかったのが嘘のようにガバッと起き上がった。

「おまっ……」

 不意に腕を掴まれたこともさることながら、キリルの体が再びベッドに沈んだことにも葵は驚いた。一瞬呆けた後、ベッドで呻いているキリルを認識して葵は慌て出す。

「キリル? どこか痛むの? ど、どうしよう……」

 パニックに陥った頭に浮かんだのが、隣室にいるオリヴァーとウィルだった。主語も言えずに「呼んで来る!」とだけ叫ぶと、葵は体の向きを変えようとした。しかし再び腕を伸ばして来たキリルによって、その行動は制される。引き寄せる力は思いのほか強く、バランスを崩した葵はベッドに倒れこんだ。

「待て」

 キリルの声が聞こえてきたので顔を傾けると、存外近くに彼の顔があった。どのくらい近いかと言えば、キリルの漆黒の瞳に自分の顔が映り込んでしまうくらいだ。何が起きたのか理解出来ないまま、葵は先程口にしていた言葉を無為に繰り返した。

「あの、隣にいるから、呼んでくる」

「とりあえず、落ち着け」

「え? う、うん……」

 何故かキリルに宥められて、葵はなんとも言えない気持ちになった。お互いベッドに倒れていたため、葵とキリルはそれぞれに体を起こす。そしてそのままベッドの上で、キリルが話を再開させた。

「これ、何だ?」

 キリルが手を取って問いかけてきたことで、何を尋ねられているのか理解した葵は「ああ……」と呟きを零した。今現在、葵の両手は真新しい包帯に包まれている。その怪我の経緯を、キリルは知りたがっているのだろう。あまり話したくはなかったのだが、キリルの目は葵の手を注視したまま動かない。仕方ないと思った葵が怪我を負った経緯を説明すると、包帯から目を上げたキリルは途端に険しい顔つきになった。

「何でそんな真似したんだよ」

「だって、キリルが……」

「オレ? オレが、何だよ」

「危ないと、思ったから」

 面と向かっては言いにくい科白だったので、目を伏せた葵は小声で呟いた。あの時はとにかく、キリルを止めようと必死だったのだ。しかしその結果として自分も無茶をして怪我をしていたのでは、とてもキリルのことを諌められない。

「でも、手当てしてもらったから大丈夫。包帯も念のために巻いてるだけだし」

 キリルに責任を感じさせないよう、口調を明るくした葵は笑みを作って顔を上げた。キリルは真顔のまま黙していたが、やがて葵の手をさらに自分の方へと引き寄せる。それと同時に自分の顔を近づけたキリルは、包帯の上から葵の掌に口づけた。

「な、何?」

 突然のことに驚いた葵は手を引っ込めようとしたのだが、それはキリルが許してくれなかった。艶めいた空気はなく、キリルは押し殺した声で黙っていろと言う。そして今度は、同じく包帯が巻かれている指に口唇を移していった。

(……何だろう)

 掌や甲、そして指の一本一本にまで丁寧に口づけるキリルの仕草は、手当てをしているかのようだった。実際、キリルが口唇を触れたところから余分な熱が奪われていく感じがする。彼がその作業を終えると、葵は自由になった自分の両手を改めて見た。アルヴァに手当てをしてもらった後も微かに感じていた熱さが、今はもうない気がする。

「今、何したの?」

「炎の残滓を除いた」

「精霊の、炎?」

 こくりと頷いて見せると、キリルは途端に見慣れた不機嫌顔になった。

「あいつらが一緒にいて、何でこんなことになんだよ」

 キリルの不機嫌の矛先がどこに向かったのかを、葵はその一言で察した。後でオリヴァーやウィルが責められてはならないと思い、葵は慌てて弁明する。

「オリヴァーとウィルは悪くないからね? 私が勝手にやったことなんだから」

「もうすんな。んな、バカなこと」

「バカって……最初にバカなことしたのはキリルでしょ?」

「オレが何したって言うんだよ!?」

「すごく危ないことしたじゃない! 精霊にケンカ売るなんて大バカだよ!」

「あれは、お前のために……」

「分かってるよ!」

 そこまで怒鳴りきって、葵は乱れた気持ちを落ち着かせた。いつの間にか口論になってしまったが、彼に言いたいのはそんなことではない。深い息を一つ吐いてから、葵は語調を改めた。

「キリルが私のために危ないことしてくれたんだって、分かってる。でも、あんな無茶は二度としないで」

 一人ではどうにもならないことの多い葵にとって、キリルのような人が協力を惜しまないでいてくれることはとても頼もしい。だがそのために、彼を危険に晒したくはないのだ。キリルも、彼の家族も、自分の周囲にいる誰にも、傷ついて欲しくない。生まれ育った世界に帰りたいと願う気持ちとは相反するのかもしれないが、それが葵の偽れない本心だった。葵が本気で身を案じているのが伝わったのか、キリルは複雑そうな表情をしている。葵も彼に負けないくらい複雑な思いで、言葉の続きを口にした。

「だけど、ありがとう。何かお礼がしたいから、体が良くなったら二人で出掛けてみない?」

 葵が発した言葉はとんでもなく意外なことだったらしく、それまで複雑そうにしていたキリルは呆気にとられた様子で、ポカンと口を開けていた。






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